彼女を好きになれなかった

起:青柳さんに助けられた夜のこと

 「つ……っかれたよぉ~。お疲れ様だよ私。えらいえらい、超えらい」

 金曜の夜、十王子駅前のたからハンバーガーでクラムチャウダーを啜って肩の力を抜いた。自炊?当然お休みだよ。頑張った私にはご褒美があって然るべし!久々に20時前に退勤できたし、滅多なトラブルでもなければ明日からの土日はお休みできそうだし。そんな弊社は昨今では相当にホワイト寄りなんだろう。

 とはいえ昼休み中にクライアントさんから無茶ぶり入るし、帰りの電車では痴漢に遭うしで、総括すると今日は最悪だった。むしゃくしゃした気持ちを紛らわすようにてりやきバーガーにかぶりつく。

「……おいしい」

 じゅわっと広がる鶏肉の旨み。強い味でごまかさない照り焼きのタレ。さすが、たからハンバーガーはそこらのファストフードとは一線を画するクォリティだ。ここ数日で急に肌寒くなって、クラムチャウダーの五臓六腑に染み渡ることと言ったら!今後も末永くお世話になる所存であります。なにより今日は青柳さんがシフトに入っているし。

 てりやきチキンをもくもく咀嚼しながら、レジカウンターの向こうに視線を向けた。ベテラン店員の、……少なくとも私が十王子で一人暮らしを始めた2年前から働いてるからベテランと呼んでいいと思う……青柳さん。顔立ちは整っているけど、万人受け正統派イケメンかというとちょっと違う。ジト目ぎみというか、目つきが悪いほうで、意地悪賢そうな感じ。そこに円周大きめの丸眼鏡を合わせるって……反則だよねえ。大輪のひまわりみたいにカラッとした笑顔もすき。接客はスマートで機転が利く。半袖ユニフォームから伸びた腕は筋骨隆々の一歩手前、絶妙の細マッチョ。それでもって声がいいんだ。爽やかだけど一定の落ち着きを併せ持った魅了の音色に鼓膜が震えて、耳がほかほかする。

 そうやって幸せ気分に肩まででれ~っと浸っていたのに、横の席で耳障りな電子音が響く。いやまあ着信音っていうくらいだから、気づかないくらい小さかったら意味ない。一定の理解は示さなくもない。でも音量調整くらいは周囲に気を遣おうよ。チラリと横目で左隣の席を見やって、視界に飛び込んだスーツの柄にぎょっとした。あわてて視線を外し、正面に向き直る。

(なんで、なんで?さっきの痴漢だよね?ここまで尾行けてきたの?)

 痴漢男の舌打ちと同時に着信音は鳴り止んだ。着拒するなら最初から音切っておいてよ。ていうか、何この状況、気づきたくなかった。

 痴漢行為は許しがたい。いつだって警察に突き出してやりたいと思ってる。そして実は数年前に、実際に駅員さんのところまで引っ張っていった経験もある。けど当時、理不尽なことに家族含め周囲のみんなから口々に「逆恨みが怖いからやめとけ」って責められたのは私だった。被害者なのにおかしくないか?だからその一件以降は鞄でガードしたり、ドアの近くに立つのを避けたり、遭遇率を下げる方向で努力している。

 ちょっとばかし愚痴ってもいい?実際、痴漢を突き出したあの日は大変だった。犯人と一緒にパトカーで警察署まで運ばれて、夜中まで拘束された挙句、おまわりさんに「犯人も反省しているようですし、訴訟までやるとなるとあなたも手続きが大変なんですよ」と和解を勧められた。痴漢を捕まえたのは夕方なのに、何も悪くない被害者が夜中まで警察署で足止め。ほとほと疲れ切っていた私はおまわりさんに従ってしまった。犯人が下卑た笑いを浮かべて「ごめんなさい」と頭を下げた。こいつ反省なんて微塵もしてない。あの胸糞の悪さは一生忘れられない。

 大幅に話がそれたが、とにかく私は痴漢というのがとんでもなくクソクソクッソなやつらであることを知っている。そんな危険人物がわざわざ私と同じ駅で降りて、ハンバーガー店まで追いかけてくるって、やばくないか。『やばい』を多用してると語彙がなくなるよって言われるからなるべく使わないようにしてるけど、だって、やばいじゃん。初めてのケースだもん。尋常な執着じゃないし、この先どこまで着いてくるつもりなの、なにしようとしているの。怖いやばい怖い。ああ、最寄り駅がバレただけでもまずいけど、自宅バレは最悪だ。交番どこだっけ。突然刃物とかスタンガンとか取り出してきたらどうしよう。ありえるから怖いんだ、この世の中は。

「お客様、申し訳ございませんが閉店のお時間ですので……」

 たからハンバーガーには全部で3人くらい店員さんがいたのだが、無情にも、よりによって青柳さんから声をかけられた。正確には、青柳さんは私と痴漢男の両方に話しかけた。他のバイトさんは店内にモップをかけたりレジの精算を始めたりしている。そう、閉店時間まで粘ってみたけど、痴漢男が立ち去ることはなかった。食欲は完全に失せて、かじりかけのてりやきバーガーと冷え切ったクラムチャウダーがトレイの上に鎮座している。

「は、はい……あの、食べかけ残して、すみません。すぐ、出ます……」

 ぽそぽその声を振り絞って、鞄を肩にかけて、トレイを手に立ち上がった。油の切れたロボットみたいにギギギとぎこちなく、首は意地でも左側を向こうとしない。奴を視界に入れるのさえ怖い。けれどあちら側も無言で立ち上がったことぐらいは、物音だけで察することができてしまう。

「あ、トレイはそのままで構いませんよ。こちらで片付けておきますので」
「っ、すみ、すみません……」

 青柳さんの顔を見上げることもできない。地獄一歩手前の絶望的状況で、肩も首もがくっとうなだれて力が入らない。むなしくも弱々しく、出入り口へ歩みを進める。

(青柳さん、助けてください。この人たぶん私を狙ってるんです。青柳さん、青柳さん、青柳さん……!)

 じわっと目尻に涙が浮いてくる。テレパシー能力なんてないけど、脳内を青柳さんコールで埋め尽くして現実逃避する。

(青柳さん青柳さん青柳さん青柳さん青柳さん……!)

 青柳さん充填率99.8%くらいになった頭の上、ふいに大きくて温かいものが触れて、髪の毛をくしゃっとされた。驚いて顔を上げた。青柳さんの手だった。

「……なーんて意地悪だったな。今日は寒いし、君はバックヤードで待ってていたまえ。俺の愛しい恋人に悪い虫がついては大変だからな」

 男と私は同じタイミングで「はっ?」と声を上げた。こんな奴と異口同音とかめちゃくちゃ心外だけど、そうやってリアクションするしかなかった。呆けた私をよそに青柳さんはてきぱきと男のほうへ向き直る。

「ということでお客様、店じまいの作業がありますのでお帰りください。さあ」

 青柳さんは痴漢男のリュックを持って、空いたほうの手でそいつの腕を掴んだ。

「痛てえっ?!なっ、何すんだよぉ」

 それはそれは流麗な所作で出入り口まで男をエスコートしていく。端から見ている私には、痛がるような力が込められているとは思えず、痴漢男が大袈裟な演技をしてるんじゃないかと疑ったほどだ。次の青柳さんの声を聞くまでは。

「……彼女をつけ回すのが目的でなければ、またのご来店をお待ちしていますよ」

 男が「ヒッ」と上擦った悲鳴を上げた。マフィア映画ばりの不穏さに、助けられた自分でさえぞわっと背筋が冷たくなったくらいだ。台詞と真逆に『命が惜しくば二度と来るな』って字幕表示されてるみたいだった。なに、なんだろ今のすごいな?青柳さんが店外に男を押し出してすぐ、ガチャリと施錠音が響いた。それは福音にも等しい響きだった。

「あの……あの、ありがとうございました」

 情けないくらいに声も膝も震えている。奥歯がカチカチ鳴って滑舌の悪いことと言ったらない。「あ、あの人、電車、痴漢……ここまで、つ、つつ着いてきて」やっとやっと喋る私の背中に、また青柳さんの大きな手が触れた。導かれるままに、立ち入ったことのないバックヤードの扉をくぐる。

「お、青柳くん、お疲れ様。おや、そちらの女性は?」
「店長、すみません。こちらのお客様、しばらくバックヤードに避難させてもらえませんか?変なのにこの時間まで粘着されてたんで。閉店の作業が済んだら送っていきます」
「そんなことがあったの?いやあ、災難でしたねえ」

 二人の会話を私がぼんやり眺めている間にも青柳さんはてきぱき動いていて、湯気の立ち上る紙コップを私に差し出した。

「片付け終わるまで待っててください。いつもブラックでしたよね?」

 コーヒーのいい匂いがする。そこそこ常連とはいえ私の好みを覚えててくれてる青柳さん、めちゃくちゃ有能だ。店長さんもすっごくいい人だ。たからハンバーガー十王子駅前店のこと、一生愛する。紙コップの中に涙がぽとぽと落ちた。安堵から来る嬉し涙だった。

 店長さんと青柳さんと他のバイトさんたちが閉店作業に行ってる間、塩分混入のコーヒーをちびちび飲んでいた。私が悪い奴だったら、この隙にいろいろ部屋の中を物色しちゃうだろう。でも、私は善人ではないまでも善人になりたいと思う人間だから、パイプ椅子に座って大人しく待っていた。

 程なくして店員の皆さんがバックヤードに戻ってくる。青柳さんの思いもよらぬ出で立ちに、私はカッと目を見開いて上から下までガン見してしまった。

「が、学生服……?」

 唖然とする私を見て、青柳さんが苦笑する。

「意外ですか」
「いえ、いえその、決してそういうんじゃないんですけど」

 青柳さんはべつに老け顔ではないし、ブレザーを腰に巻いた独特の着崩し方も似合ってるし、学生であることに違和感はない。ただ、かっこよくて仕事もできて気遣いもできて、ひと睨みで痴漢も震え上がる強さまで持ってるパーフェクトヒューマン青柳さんが学生さんで、ポンコツでおっぺけぺーな私が社会人やってるとか、なんかいたたまれなくなる。生きててすみません、みたいな。いや私も基本的には割と仕事はできるほうだと思うんだけど、信じられないかもしれないが社内評価も同期で一番良かったりするんだけど、たまにとんでもなくアホなことをやらかしたあかつきには特快に飛び乗って知らない遠くまで逃亡したくなるのでそういう、ね?……何を言い訳してるのかわからなくなってきたな。

「ご自宅か、駅か、交番。とりあえず人通りのあるところまで送っていきますよ。えーっと、お名前をお伺いしてもいいですか?」
「あ、えっと名前は、山猫たまと申します。や、もう大丈夫です。痴漢もいなくなったみたいだし、交番行くより自分のうちに帰ったほうが近いので」

 事実である。変なのに絡まれやすい私は、一人暮らしするにあたってややお高めでも駅近のアパートを迷わず選んだ。あの男に自宅を特定されるのは勘弁だけど、明るい道だけ通ってすぐに帰り着くことができる。

「そういうことなら……もし山猫さんさえよかったら、ご自宅まで送ります」
「いやいやいや、そんな!恐れ多い!一人で帰れます」
「僕が送らせてほしいんです、駄目ですか」
「だっだだ駄目とかじゃないですけどえええええ」

 やば、キモい。かなり気持ち悪い自分を客観的に見てドン引いている自分もいるにはいるけど、取り繕う余裕なんてなかった。だってこの棚ぼた展開はおかしいでしょ。あの青柳さんが、私を家まで送ってくれるんだよ?あり得ない成り行きに茫然自失のまま、青柳さんと私はアパートまで一緒に歩いた。

「おっ、お茶とかいかがですか」

 玄関の前で発した私の言葉に、青柳さんはあからさまに難色を示した。

「いえ、お気持ちだけありがたく頂きます。山猫さんも軽々しく男を部屋に上げては駄目ですよ。今日、怖い目に遭ったばかりじゃないですか」
「それはごもっともです。ぐうの音も出ません。ですがちょっと、ちょっとだけ!あと数分だけいてくだされば!図々しくてすみません。下心ありません。襲ったりしません。未成年に手は出さないので!」

 客観視の奴が冷めた目で私を見下ろしてる。それ「先っちょだけ!」って懇願と何が違うのか。とは言っても今現在起こっていることがあんまりに信じられなくて、頭の中が脱水機ばりにグルグル混乱していて、もう少し冷静になるまで青柳さんにそばにいてほしかった。それで、呆気にとられながらも青柳さんは頷いてくれた。

「では、少しだけお邪魔します」

 ケトルでお湯を沸かして、カップを温めて、ティーパックを浸して蓋してタイマーできっちり2分半待つ。そういう厳格なルーティーンをこなしているうちに、やっと心が静まってきた。青柳さんは紅茶を飲んで美味しいって言ってくれて、無事で良かったですって言ってくれて、当初の約束通り数分で帰っていった。

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