彼女を好きになれなかった
承:なぜか青柳さんのいる日常
「あれからどうだ?あの時のやつにまた狙われたりはしてないか?」
ハーブティーをひと啜りした青柳さんが、ティーカップを置いた。信じられないことに、青柳さんはあれからもシフトが合う日は私を自宅まで送り届けてくれるのだ。
「あの時と同じ人にはやられてないと思います。正直、怖くて直視できなかったから顔は覚えてないんですけど」
「それ、他のやつにはやられてるように聞こえるんだが」
「はい、なんていうか、痴漢に遭いやすいほうだと思います。うれしくない……」
「嬉しくないって、そりゃあそうだろ」
何度か会話をするうちに、青柳さんはタメ口になっていた。接客口調じゃない青柳さん、推せる。一方の私は、誰にでも敬語一択が楽なのでそうしている。これでいいのだ。私より青柳さんのほうが精神年齢的にずっと大人なので、あるべき姿に落ち着いてて居心地がいい。そんな頼れる青柳さんに、私は思いきってぶっちゃけた。
「正直なところ、自分でも痴漢に狙われやすい体型してると思います。望んで胸とお尻が大きくなったわけじゃないし、くびれたくてくびれてるわけじゃないのに……だから、考えなしに『羨ましい』とか言われると癪に障りますよ」
わかってもらえるだろうか。なんの気無しに鏡張りのエレベーターに乗り込んだら、周りの人と比べて頭一個分背が高くて砂時計みたいな女体が目の前に映って、それが私で、ギョッとする嫌な気持ち。でもウェストマークしないと今度は土管になっちゃうんだ。砂時計オア土管の二択。ちなみに肝っ玉はヨネダ珈琲店の豆菓子くらいちっちゃくて脆いよ!……わかって、もらえるだろうか?
内容が内容なだけに、青柳さんはちょっと戸惑ったようだったが、しばらくして感慨深げにうんうんと頷いた。
「……そうか、そうだよな。望んでなくても背負わされたものは仕方ないよな」
「そうですね。半ば開き直ってはいるんです。耐え忍ぶだけじゃやるせなくて、だから逃げるでも正面突破するでもなく、ずっと付き合う覚悟っていうか、前向きな諦念っていうかそういう心境で」
まとまらない思考をなんとか言語化しようと必死になっていたら、大きな手が私の頭をくしゃくしゃにした。心なしか、青柳さんの笑顔もくしゃっとしていた。
「俺も、望んでもないのにこんなに美しく生まれついてしまって困ることが多々ある」
「ぶふっ!」
「お、笑ったな?なんだなんだ、たまにはこの俺の美しさが理解できないというのか?」
「いえ、誤解ですって。青柳さんは美しくてかっこよくて色っぽくて素敵って常に思ってます」
「うむ。よいよい、それでよい」
男と女ではだいぶ事情が違うというのはあるにしても、色っぽさを武器にしている青柳さんは素直にかっこいいし、だいぶ励まされる。なにしろ出演作の円盤、シチュエーションCD、キャラソン、すべて大人買いしちゃったぐらいですから。ゲームも掛け持ちプレイ中だし、雑誌もバックナンバー含めて買い漁ってますよ。聞いて驚け、青柳さんは現役高校生かつ声優さんなのだ(ドヤァ!)。彼の通う宝石が丘学園は、日本で唯一、全寮制で声優課程をもつ高校なんだって。十王子に住んでたけれど初めて知った。痴漢を撃退してくれたときの魔法みたいな声は、ここに由来してたんだね~。実力ある声優さんを育成しつつ高卒資格も取れるようにするなんて、見上げた教育理念だよね。カフェインを摂りすぎると喉が乾燥するから、声優さんの大事な喉を守るために紅茶ではなくハーブティーをお出ししているのもそんな理由だ。
「おっと、長居しすぎたかな。そろそろお暇するとしようか。今日もたまが無事で何よりだ」
「お陰様で息災でございます。いつもありがとうございます」
長居と言っても、一杯のハーブティーを飲みきる10分そこらの時間だ。これまでも例外なく、一杯分の時間だけお喋りして、青柳さんはあっさり帰る。私もあっさり玄関先まで見送る。十分すぎるくらいに幸せだ。くすぶってたコンプレックスを口に出して、大好きな青柳さんに肯定してもらえて、積年の恨みつらみがすーっと晴れていくようだった。
そんなことがあってから数日が経過した。最近、多いときは週に1、2回くらい青柳さんを家にお招きしている。数ヶ月規模の大型案件が山を越えて、私の帰宅時間が早くなったのが大きな要因かと思われる。
「たまはどんなパンツが好きなんだ?機能重視派か、セクシー路線か、まさかの苺パンツだったりしてな!そんなギャップもたまらないよな!」
先日、私が胸だのお尻だの取扱注意な打ち明け話をしたからか、青柳さんが下ネタを解禁するようになった。あ、パンツは下ネタとは別物で高尚な存在だから、一緒くたにしたら怒られちゃうんだっけ。気をつけないと。
「うーん、マイブームはふんどしパンツですね」
「……ふんどし、だと?」
わ、すごい。息づかいや間の取り方まで完璧。アニメで敵の強大さにおののくシーンさながらだった。この美声を無料で独り占めしちゃっていいんだろうか。
「ふんどしと言いつつ、まあ形はほぼパンツなんですけど、足の付け根部にゴムが入ってないのが特徴です。鼠蹊部を締め付けないので生理痛とかむくみが軽くなったりします。強いて言えば過剰な解放感が難点ですね。ペチパンツとか合わせれば外出中もいけますけど」
「ペチパンツ」
「っあー、そこに食いついちゃったか。そうですよねぇ。残念ながらペチパンツはパンツと言うよりは肌着というか……青柳さん、聞いてますか~?」
「素晴らしい、素晴らしいぞたま。またひとつパンツを知った……パンツの世界に果てはないのだ……!」
拳を握りしめて感涙する青柳さんを眺めつつ、こくりと一口、お茶を飲んだ。パンツの世界かぁ。今更だけど、この人の頭の中ってどうなってるのかな。パンツのテーマパークとか建国されてるんじゃないだろうか。ありえる。
「たまはいい子だな~。宝石が丘のどんな男より下ネタへのノリがいい。立夏なんか、あのルックスで女子の二の腕に触ったこともない、それが当たり前だって言うんだぞ?おっぱいではなく、二の腕だぞ?あいつら本当に花の男子高校生なのか」
たしかに、そのレベルの女性経験できわどいシチュエーションボイスを演じられるんだとしたら、声優ってすごいな。ていうか、下ネタに応じたのを「いい子だな」って褒められるのは一生涯でこの瞬間だけかもしれない。
「……ま、下ネタ何でもウェルカムってことはないですよ?」
これまで散々なセクハラを受けてきて、愛想笑いと受け流しを繰り返してきたから、青柳さんの下ネタなんて全然可愛い部類に入るってだけだ。
「さっき、ここまで歩いてくるときに青柳さん『あの雲の形はおっぱいに似てる』って話をしたじゃないですか。あれは山猫たま基準ではセーフなんですよ」
「ほう」
「逆に『足が綺麗』とか『うなじが綺麗』はアウトです。雲と違って自分が対象だから、身の危険を感じます。胸とかお尻とかじゃなければセーフとか、やらしいじゃなくて綺麗って褒めればセーフと誤解されがちですが、はっきり言って私は嫌ですね。……あくまで私基準なので、他の子がそうとは限りませんけど」
あ、嫌なこと思い出した。ある日の職場で、バキバキに凝り固まった身体をほぐすために伸びをした。自然と「んんーっ」って声が出た。そうしたらば「山猫ちゃん、こんなとこでエロい声出しちゃ駄目だよ~」って、ギギギギギ!あいつめ!クソ上司オブザ人生に堂々ノミネート!怖い!怖いんだよ!あとExcelを方眼紙代わりに使う奴ゆるさない。
……なんの話だっけ?そう、セクハラと下ネタは似てるようで全然違う。たまに二つが混じっていて複雑な心持ちになることはあるけれど、青柳さんの下ネタは基本的にお笑い純化型だから大丈夫なのだ。
あと、ここは絶対に口には出さないところだけれど……まあ正直、青柳さんとならワンナイト的過ちがあっても後悔しないと思う。ただそれを『イケメン無罪』なんてペラい言葉で片付けられたら心外だ。矛盾するようだけど、青柳さんは絶対に私に手を出してこないっていう確信がある。青柳さんのことを信じてるから怖くないのであって、青柳さんがイケメンだから何でも許すわけじゃない。
「足もアウトなのか」
「……?」
眉根に皺を寄せて青柳さんが呟いた。ちょっとばかり自分だけの思考に潜っていたので、何を聞かれたのか分からなくなって目をぱちくりした。
「ああ、さっきの『足が綺麗』はアウトって話ですか?」青柳さんが無言で頷く。「え……まさか、言っちゃったんですか?」
誰に言っちゃったんですか。質問するより早く青柳さんは「ノーコメント」とお茶を飲み干した。カップが空になったら時間切れ。それは暗黙の了解で、青柳さんは帰っていった。
「たまは何を考えてるんだろうな」
寒さに耐えかねてこたつを出した日、ぽつっと青柳さんが呟いた。えーと、何を考えているかは言えません。私は青柳さんが想像する以上に猫をかぶっているし、口に出せない邪なこともたくさん思い浮かべている。だからこたつ布団にくるまりながら、ちらっと上目遣いで青柳さんを見て、続きを話してくれるのを待った。
「素性の知れない男を家に上げて、与太話に付き合ってくれるだろ。俺のことが怖くないのか、男として見てないのか、なんのメリットがあるのか、諸々だよ」
……なるほど。一つ目、メリットしかないですが?二つ目、私が青柳さんを怖がるなんてありえませんが?三つ目、うーん……青柳さんは男の人ではある。けれど、これだけ頻繁に会うわりに手を出してくるそぶりもないし。厳しい声優業界の荒波に晒されてる青柳さんが、いわゆる一般人世界の空気を吸ってリフレッシュする、その窓口に私がなれたらいいな。今はそのくらいに考えている。あとは、たしかに私はちょっとばかし男性嫌悪が強い。だってこれまでに散々、卑猥なこと言われたり怖い目に遭わされた。通学路で待ち構えてる露出狂。バイト先で電話番号渡してくるお客さん。あれらの人たちの性欲とか、あるいは支配欲とか嗜虐心とかいうのは理解不能だ。けれど、世の男性全般が嫌だとは断じて思ってない。尊敬する上司や同僚や友人もたくさんいる。上記に述べた事柄を、言葉を選びつつ、かいつまんでお話しした。
「青柳さんこそ、なんで私なんかに構ってくれるんですか?」
むしろ聞きたいのはこっちのほうなのだ。申し訳ないけど最初の数回は、身体目当てかなと思ってました。だって青柳さんといえど男子高校生ですから。今となっては自意識過剰でほんとにほんとに申し訳ないし、当初を思い出すほどに床を転げ回りたい。
秋の気配が訪れた頃に始まったプチお茶会はもう3ヶ月近く続いているけれど、頭わしわしされたり背中を押してもらった以外は、指先一つ触れられたこともない。ベッドの置かれた1K8畳間に二人きりでも、気恥ずかしいようなそわそわした雰囲気にもならない。ならば、なぜ会ってくれるのか、いつまでこうしていられるのか、聞き出せないままに師走を迎えてしまった。そして、ついに口に出してしまった。なぜ私に構ってくれるんですかって。
今までにない長い沈黙が訪れる。聞きたいような、聞きたくないような、合格発表の番号を確認するような気持ちで沈黙に耐えた。
「以前……乱暴されかけていた女性を助けたことがある。そのとき俺は、相手の男を、それはもうズタボロになるまで蹴る殴るして大怪我させた」
青柳さんはものものしい口調で切り出した。ここしばらく私の中でくすぶっていた疑問と即座に符牒が一致したものだから、考えるより先に口が動いていた。
「それってもしかして、えっと、みやびや?みやびの?たしかご実家がもみ消したってい、う……事、件……」
青柳さんの顔から血の気が引くのと、私がやらかした事の大きさに青ざめるのとはほぼ同時だった。緊張から解放されて、思ったことを良く吟味もしないで口に出してしまった。私の悪い癖だ。最悪の悪癖だ。……ってなにそれ、馬から落ちて落馬してみたいな貧弱な語彙……ほらまた、そうやってすぐに思考が散らかる。自分の大っ嫌いな部分。
「ご、ごめんなさい……自分のことをこそこそネットで調べられてたなんて、最悪ですよね」
終わったと思った。青柳さんはきっと次の瞬間にも立ち上がってここから出て行くだろう。まだ残っているお茶を飲み干しもせずに。そして二度と会ってくれないだろう。肩身の狭さにうつむくと自分の胸元が視界に入る。目に見えて分かるくらいに胸がどくどく上下している。
「……カカカ!見つかったかぁ」
分厚い黒雲を吹き飛ばす風みたいに豪快な笑い声が、8畳間に響きわたった。
「そこそこ根気よく探さないと出てこない情報なんだが、さては俺のことが相当に大好きだな?」
へにゃへにゃ力が抜けた。ぼとぼと涙がこぼれた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「いいよ。俺に興味があって調べてくれたんだろ?その上で態度を変えずに俺に接してくれてるなら、それでいい」
つらいのは絶対に青柳さんのほうなのに、涙が止まらない私を気遣うように優しい声で、事件のことを話してくれた。女の人を守るためとはいえ、明らかに過剰防衛だったこと。疲労困憊で記憶が朦朧として、気がついたら血まみれの男がぐったり倒れていたこと。青柳さんの意思などお構いなしに雅野家が傷害罪をもみ消したこと。数年後、なんの前触れもなく週刊誌に情報が売られたこと。
「なんとなく君に対する負い目みたいなのがあったんだろうな。君を助けた日のことだよ。様子がおかしいのはとっくに気付いてたし、機転もきかせられたはずなのに、トラウマが蘇って我が身かわいさで手を出しあぐねてた。閉店ギリギリまで怖い思いさせて、すまなかったと思ってる。あのときかなり強引に君を家まで送ったのもそういう理由だ」
「……っ、お人好し、過ぎませんか。……っく、あはは、でも、そうですか……聞けて良かった。ずっと、なんで一緒にいてくれるのか不思議だったからやっと……納得、いきました、っ……」
お茶はとっくに冷めていたけれど、青柳さんは私の嗚咽が落ち着くまで一緒にいてくれた。青柳さんがかっこよすぎるので、泣き止んだ私はちょっと真面目な方向にシフトチェンジした。
「私、法律は全然詳しくないし的外れなこと言ってるかもしれないですけど、少なくとも現行法では、青柳さんは違法行為を犯した。刑法があって、不磨の大典なんてありえないから、これまでに積み上げられた判例をもとに少しずつ手が加わって、青柳さんはその枠組みの中で傷害罪に問われることになった。そういう認識ですけれど」
ああ、やっぱりこういう路線は苦手だ。慣れないことを話し始めて口の中がカラカラになったので、冷え切ったお茶をひと飲みした。まだるっこしい前置きはここまでだ。真っ正面から青柳さんの目を見て本題に入る。
「法が許さなくても、私は青柳さんの行動を支持します。命がけで誰かを守るのに、器用に手加減なんてできるはずがない。っていうかですね、正直、何もかもどうでもいいんですよ。私は今までもこれからも青柳さんが好きで、青柳さんの味方だって、それだけは決まってるんですから」
青柳さんが笑ってくれた。生きてて良かったなあ。
ハーブティーをひと啜りした青柳さんが、ティーカップを置いた。信じられないことに、青柳さんはあれからもシフトが合う日は私を自宅まで送り届けてくれるのだ。
「あの時と同じ人にはやられてないと思います。正直、怖くて直視できなかったから顔は覚えてないんですけど」
「それ、他のやつにはやられてるように聞こえるんだが」
「はい、なんていうか、痴漢に遭いやすいほうだと思います。うれしくない……」
「嬉しくないって、そりゃあそうだろ」
何度か会話をするうちに、青柳さんはタメ口になっていた。接客口調じゃない青柳さん、推せる。一方の私は、誰にでも敬語一択が楽なのでそうしている。これでいいのだ。私より青柳さんのほうが精神年齢的にずっと大人なので、あるべき姿に落ち着いてて居心地がいい。そんな頼れる青柳さんに、私は思いきってぶっちゃけた。
「正直なところ、自分でも痴漢に狙われやすい体型してると思います。望んで胸とお尻が大きくなったわけじゃないし、くびれたくてくびれてるわけじゃないのに……だから、考えなしに『羨ましい』とか言われると癪に障りますよ」
わかってもらえるだろうか。なんの気無しに鏡張りのエレベーターに乗り込んだら、周りの人と比べて頭一個分背が高くて砂時計みたいな女体が目の前に映って、それが私で、ギョッとする嫌な気持ち。でもウェストマークしないと今度は土管になっちゃうんだ。砂時計オア土管の二択。ちなみに肝っ玉はヨネダ珈琲店の豆菓子くらいちっちゃくて脆いよ!……わかって、もらえるだろうか?
内容が内容なだけに、青柳さんはちょっと戸惑ったようだったが、しばらくして感慨深げにうんうんと頷いた。
「……そうか、そうだよな。望んでなくても背負わされたものは仕方ないよな」
「そうですね。半ば開き直ってはいるんです。耐え忍ぶだけじゃやるせなくて、だから逃げるでも正面突破するでもなく、ずっと付き合う覚悟っていうか、前向きな諦念っていうかそういう心境で」
まとまらない思考をなんとか言語化しようと必死になっていたら、大きな手が私の頭をくしゃくしゃにした。心なしか、青柳さんの笑顔もくしゃっとしていた。
「俺も、望んでもないのにこんなに美しく生まれついてしまって困ることが多々ある」
「ぶふっ!」
「お、笑ったな?なんだなんだ、たまにはこの俺の美しさが理解できないというのか?」
「いえ、誤解ですって。青柳さんは美しくてかっこよくて色っぽくて素敵って常に思ってます」
「うむ。よいよい、それでよい」
男と女ではだいぶ事情が違うというのはあるにしても、色っぽさを武器にしている青柳さんは素直にかっこいいし、だいぶ励まされる。なにしろ出演作の円盤、シチュエーションCD、キャラソン、すべて大人買いしちゃったぐらいですから。ゲームも掛け持ちプレイ中だし、雑誌もバックナンバー含めて買い漁ってますよ。聞いて驚け、青柳さんは現役高校生かつ声優さんなのだ(ドヤァ!)。彼の通う宝石が丘学園は、日本で唯一、全寮制で声優課程をもつ高校なんだって。十王子に住んでたけれど初めて知った。痴漢を撃退してくれたときの魔法みたいな声は、ここに由来してたんだね~。実力ある声優さんを育成しつつ高卒資格も取れるようにするなんて、見上げた教育理念だよね。カフェインを摂りすぎると喉が乾燥するから、声優さんの大事な喉を守るために紅茶ではなくハーブティーをお出ししているのもそんな理由だ。
「おっと、長居しすぎたかな。そろそろお暇するとしようか。今日もたまが無事で何よりだ」
「お陰様で息災でございます。いつもありがとうございます」
長居と言っても、一杯のハーブティーを飲みきる10分そこらの時間だ。これまでも例外なく、一杯分の時間だけお喋りして、青柳さんはあっさり帰る。私もあっさり玄関先まで見送る。十分すぎるくらいに幸せだ。くすぶってたコンプレックスを口に出して、大好きな青柳さんに肯定してもらえて、積年の恨みつらみがすーっと晴れていくようだった。
そんなことがあってから数日が経過した。最近、多いときは週に1、2回くらい青柳さんを家にお招きしている。数ヶ月規模の大型案件が山を越えて、私の帰宅時間が早くなったのが大きな要因かと思われる。
「たまはどんなパンツが好きなんだ?機能重視派か、セクシー路線か、まさかの苺パンツだったりしてな!そんなギャップもたまらないよな!」
先日、私が胸だのお尻だの取扱注意な打ち明け話をしたからか、青柳さんが下ネタを解禁するようになった。あ、パンツは下ネタとは別物で高尚な存在だから、一緒くたにしたら怒られちゃうんだっけ。気をつけないと。
「うーん、マイブームはふんどしパンツですね」
「……ふんどし、だと?」
わ、すごい。息づかいや間の取り方まで完璧。アニメで敵の強大さにおののくシーンさながらだった。この美声を無料で独り占めしちゃっていいんだろうか。
「ふんどしと言いつつ、まあ形はほぼパンツなんですけど、足の付け根部にゴムが入ってないのが特徴です。鼠蹊部を締め付けないので生理痛とかむくみが軽くなったりします。強いて言えば過剰な解放感が難点ですね。ペチパンツとか合わせれば外出中もいけますけど」
「ペチパンツ」
「っあー、そこに食いついちゃったか。そうですよねぇ。残念ながらペチパンツはパンツと言うよりは肌着というか……青柳さん、聞いてますか~?」
「素晴らしい、素晴らしいぞたま。またひとつパンツを知った……パンツの世界に果てはないのだ……!」
拳を握りしめて感涙する青柳さんを眺めつつ、こくりと一口、お茶を飲んだ。パンツの世界かぁ。今更だけど、この人の頭の中ってどうなってるのかな。パンツのテーマパークとか建国されてるんじゃないだろうか。ありえる。
「たまはいい子だな~。宝石が丘のどんな男より下ネタへのノリがいい。立夏なんか、あのルックスで女子の二の腕に触ったこともない、それが当たり前だって言うんだぞ?おっぱいではなく、二の腕だぞ?あいつら本当に花の男子高校生なのか」
たしかに、そのレベルの女性経験できわどいシチュエーションボイスを演じられるんだとしたら、声優ってすごいな。ていうか、下ネタに応じたのを「いい子だな」って褒められるのは一生涯でこの瞬間だけかもしれない。
「……ま、下ネタ何でもウェルカムってことはないですよ?」
これまで散々なセクハラを受けてきて、愛想笑いと受け流しを繰り返してきたから、青柳さんの下ネタなんて全然可愛い部類に入るってだけだ。
「さっき、ここまで歩いてくるときに青柳さん『あの雲の形はおっぱいに似てる』って話をしたじゃないですか。あれは山猫たま基準ではセーフなんですよ」
「ほう」
「逆に『足が綺麗』とか『うなじが綺麗』はアウトです。雲と違って自分が対象だから、身の危険を感じます。胸とかお尻とかじゃなければセーフとか、やらしいじゃなくて綺麗って褒めればセーフと誤解されがちですが、はっきり言って私は嫌ですね。……あくまで私基準なので、他の子がそうとは限りませんけど」
あ、嫌なこと思い出した。ある日の職場で、バキバキに凝り固まった身体をほぐすために伸びをした。自然と「んんーっ」って声が出た。そうしたらば「山猫ちゃん、こんなとこでエロい声出しちゃ駄目だよ~」って、ギギギギギ!あいつめ!クソ上司オブザ人生に堂々ノミネート!怖い!怖いんだよ!あとExcelを方眼紙代わりに使う奴ゆるさない。
……なんの話だっけ?そう、セクハラと下ネタは似てるようで全然違う。たまに二つが混じっていて複雑な心持ちになることはあるけれど、青柳さんの下ネタは基本的にお笑い純化型だから大丈夫なのだ。
あと、ここは絶対に口には出さないところだけれど……まあ正直、青柳さんとならワンナイト的過ちがあっても後悔しないと思う。ただそれを『イケメン無罪』なんてペラい言葉で片付けられたら心外だ。矛盾するようだけど、青柳さんは絶対に私に手を出してこないっていう確信がある。青柳さんのことを信じてるから怖くないのであって、青柳さんがイケメンだから何でも許すわけじゃない。
「足もアウトなのか」
「……?」
眉根に皺を寄せて青柳さんが呟いた。ちょっとばかり自分だけの思考に潜っていたので、何を聞かれたのか分からなくなって目をぱちくりした。
「ああ、さっきの『足が綺麗』はアウトって話ですか?」青柳さんが無言で頷く。「え……まさか、言っちゃったんですか?」
誰に言っちゃったんですか。質問するより早く青柳さんは「ノーコメント」とお茶を飲み干した。カップが空になったら時間切れ。それは暗黙の了解で、青柳さんは帰っていった。
「たまは何を考えてるんだろうな」
寒さに耐えかねてこたつを出した日、ぽつっと青柳さんが呟いた。えーと、何を考えているかは言えません。私は青柳さんが想像する以上に猫をかぶっているし、口に出せない邪なこともたくさん思い浮かべている。だからこたつ布団にくるまりながら、ちらっと上目遣いで青柳さんを見て、続きを話してくれるのを待った。
「素性の知れない男を家に上げて、与太話に付き合ってくれるだろ。俺のことが怖くないのか、男として見てないのか、なんのメリットがあるのか、諸々だよ」
……なるほど。一つ目、メリットしかないですが?二つ目、私が青柳さんを怖がるなんてありえませんが?三つ目、うーん……青柳さんは男の人ではある。けれど、これだけ頻繁に会うわりに手を出してくるそぶりもないし。厳しい声優業界の荒波に晒されてる青柳さんが、いわゆる一般人世界の空気を吸ってリフレッシュする、その窓口に私がなれたらいいな。今はそのくらいに考えている。あとは、たしかに私はちょっとばかし男性嫌悪が強い。だってこれまでに散々、卑猥なこと言われたり怖い目に遭わされた。通学路で待ち構えてる露出狂。バイト先で電話番号渡してくるお客さん。あれらの人たちの性欲とか、あるいは支配欲とか嗜虐心とかいうのは理解不能だ。けれど、世の男性全般が嫌だとは断じて思ってない。尊敬する上司や同僚や友人もたくさんいる。上記に述べた事柄を、言葉を選びつつ、かいつまんでお話しした。
「青柳さんこそ、なんで私なんかに構ってくれるんですか?」
むしろ聞きたいのはこっちのほうなのだ。申し訳ないけど最初の数回は、身体目当てかなと思ってました。だって青柳さんといえど男子高校生ですから。今となっては自意識過剰でほんとにほんとに申し訳ないし、当初を思い出すほどに床を転げ回りたい。
秋の気配が訪れた頃に始まったプチお茶会はもう3ヶ月近く続いているけれど、頭わしわしされたり背中を押してもらった以外は、指先一つ触れられたこともない。ベッドの置かれた1K8畳間に二人きりでも、気恥ずかしいようなそわそわした雰囲気にもならない。ならば、なぜ会ってくれるのか、いつまでこうしていられるのか、聞き出せないままに師走を迎えてしまった。そして、ついに口に出してしまった。なぜ私に構ってくれるんですかって。
今までにない長い沈黙が訪れる。聞きたいような、聞きたくないような、合格発表の番号を確認するような気持ちで沈黙に耐えた。
「以前……乱暴されかけていた女性を助けたことがある。そのとき俺は、相手の男を、それはもうズタボロになるまで蹴る殴るして大怪我させた」
青柳さんはものものしい口調で切り出した。ここしばらく私の中でくすぶっていた疑問と即座に符牒が一致したものだから、考えるより先に口が動いていた。
「それってもしかして、えっと、みやびや?みやびの?たしかご実家がもみ消したってい、う……事、件……」
青柳さんの顔から血の気が引くのと、私がやらかした事の大きさに青ざめるのとはほぼ同時だった。緊張から解放されて、思ったことを良く吟味もしないで口に出してしまった。私の悪い癖だ。最悪の悪癖だ。……ってなにそれ、馬から落ちて落馬してみたいな貧弱な語彙……ほらまた、そうやってすぐに思考が散らかる。自分の大っ嫌いな部分。
「ご、ごめんなさい……自分のことをこそこそネットで調べられてたなんて、最悪ですよね」
終わったと思った。青柳さんはきっと次の瞬間にも立ち上がってここから出て行くだろう。まだ残っているお茶を飲み干しもせずに。そして二度と会ってくれないだろう。肩身の狭さにうつむくと自分の胸元が視界に入る。目に見えて分かるくらいに胸がどくどく上下している。
「……カカカ!見つかったかぁ」
分厚い黒雲を吹き飛ばす風みたいに豪快な笑い声が、8畳間に響きわたった。
「そこそこ根気よく探さないと出てこない情報なんだが、さては俺のことが相当に大好きだな?」
へにゃへにゃ力が抜けた。ぼとぼと涙がこぼれた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「いいよ。俺に興味があって調べてくれたんだろ?その上で態度を変えずに俺に接してくれてるなら、それでいい」
つらいのは絶対に青柳さんのほうなのに、涙が止まらない私を気遣うように優しい声で、事件のことを話してくれた。女の人を守るためとはいえ、明らかに過剰防衛だったこと。疲労困憊で記憶が朦朧として、気がついたら血まみれの男がぐったり倒れていたこと。青柳さんの意思などお構いなしに雅野家が傷害罪をもみ消したこと。数年後、なんの前触れもなく週刊誌に情報が売られたこと。
「なんとなく君に対する負い目みたいなのがあったんだろうな。君を助けた日のことだよ。様子がおかしいのはとっくに気付いてたし、機転もきかせられたはずなのに、トラウマが蘇って我が身かわいさで手を出しあぐねてた。閉店ギリギリまで怖い思いさせて、すまなかったと思ってる。あのときかなり強引に君を家まで送ったのもそういう理由だ」
「……っ、お人好し、過ぎませんか。……っく、あはは、でも、そうですか……聞けて良かった。ずっと、なんで一緒にいてくれるのか不思議だったからやっと……納得、いきました、っ……」
お茶はとっくに冷めていたけれど、青柳さんは私の嗚咽が落ち着くまで一緒にいてくれた。青柳さんがかっこよすぎるので、泣き止んだ私はちょっと真面目な方向にシフトチェンジした。
「私、法律は全然詳しくないし的外れなこと言ってるかもしれないですけど、少なくとも現行法では、青柳さんは違法行為を犯した。刑法があって、不磨の大典なんてありえないから、これまでに積み上げられた判例をもとに少しずつ手が加わって、青柳さんはその枠組みの中で傷害罪に問われることになった。そういう認識ですけれど」
ああ、やっぱりこういう路線は苦手だ。慣れないことを話し始めて口の中がカラカラになったので、冷え切ったお茶をひと飲みした。まだるっこしい前置きはここまでだ。真っ正面から青柳さんの目を見て本題に入る。
「法が許さなくても、私は青柳さんの行動を支持します。命がけで誰かを守るのに、器用に手加減なんてできるはずがない。っていうかですね、正直、何もかもどうでもいいんですよ。私は今までもこれからも青柳さんが好きで、青柳さんの味方だって、それだけは決まってるんですから」
青柳さんが笑ってくれた。生きてて良かったなあ。
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