彼女を好きになれなかった

エピローグ的なもの

青柳さんへ向けて盛大にゲロった翌日、不動産屋さんへ行った。4月が賃貸の更新時期だったし、いいタイミングなので即日で引っ越し先を決めた。春先の引っ越し業者さんは繁忙期だから当然つかまらないんだけど、レンタカーで軽トラ借りて仲良しの同期たちに手伝ってもらって、あっさり引っ越し完了した。やればできる子なんです。仕事と同じで、一見すると大変そうに見えることだって、手をつけ始めたらガンガン集中してあっけなく片付いちゃうものなんですわ。

 青柳さんは「出直す」って言ってたけど、私は逃げた。

 たぶんあのときの青柳さんは怒りに震えてて、出直さなければ私をぶん殴ってしまいそうだから出てったんじゃないかって勝手に思ってる。青柳さんにタコ殴りされるのは悪くないなぁ……けどそのことで青柳さんがもう一回傷つくのは本意じゃないなあ、とか。だって私は罰を受けて楽になるのに、青柳さんの心はもっと傷つくでしょ。あとは、冷静さを取り戻した青柳さんと対決したところで、理屈勝負で勝てる見込みがないのもわかってた。優しく諭されたりしちゃった日にはベランダから飛び降りちゃう。だから逃げた。あ、私が通えなくなったぶん、たからハンバーガー十王子駅前店をなにとぞご贔屓によろしくお願いいたします。

 天音ひかりが出演してる『くだものフレンズ』を1クール観終えた。特筆するような演技ではなかった。なんの引っかかりもなく最終回まで見終えた。それは逆に言えば"現役女子高生声優"なんて色物の看板を背負わなくても、一人のプロ声優として成り立つだけの演技をしていたということだ。『美人すぎる◯◯』とか余計な色を添えるあの手の持ち上げ方は大嫌いだから、普通に声優でいいじゃん、名乗れるだけの力はあるよ。そこはちょっとばかり味方をしてやりたいと思った。

 まだるっこしいこと省くと、天音ひかりへの罵詈雑言をまき散らした私に向けた、青柳さんの冷たい目が答えなんだ。天音ひかりはいい奴だっていう何よりの証拠だった。善人オブ善人って本当にいるのだ。接してると己の心の汚れっぷりにメガンテしてしまいたくなるような聖人ってやつが、絶滅危惧種ではあるけど稀によくいる。うちの妹とか。

 青柳さんを好きにならなければ天音ひかりのことなんて1ミリも興味がわかなかった思う。何かの接点で彼女に触れても「まあ可愛い子だよね」「性格も良さげだし」くらいの感想を抱いて終わりだったんじゃないかな。青柳さんを好きになればなるほど、天音ひかりへの憎しみは募り、私の中で膨れ上がっていった。

 わかってる。天音ひかりは何も悪くないんだって。私が望まぬ身体を持って生まれたように、青柳さんが好きで雅野家に生まれたんじゃないように、天音ひかりは神様がヒロインにすべく生み出した女の子なんだ。

 しばらくは"声優"、"宝石が丘"、それから彼と彼女の名前をミュートにしないとやっていけない。数ヶ月そこらでけろっと立ち直るのか、棺桶の中まで傷を引きずるのか想像もつかない。

 ねえ、天音ひかりちゃんとやら。ワードミュートなんか乗り越えて、べつだん声優オタクじゃない私のところにまで名声が聞こえるくらいになってみせてよ。特定の誰かのためのたった一人の女の子になるのか、みんなのマドンナとして君臨し続けるのか教えてよ。やれるもんならね。

 あなたが幸せ絶頂を迎えたそのときには顔真っ赤にして地団駄踏んで最高に悔しがってやるから。全貯金をはたいて……ごめんやっぱり全貯金の半分くらいで、黄色い薔薇のフラスタを贈らせてもらうから。

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