宝石の小枝
01
これは夢だ、と思ったことはある?
私はある。ちょうど今から一ヶ月前のことだ。
三月とは思えない、格別に寒い日。
憧れの宝石が丘学園、合格発表の日。
悲鳴と歓声に囲まれて自分の受験番号を見つけた。
合格者の中でもたったひとりがなれる、特待生に私が選ばれた。
その帰り、どうやってバスに乗り込んだのかも覚えていない。受け取った入学案内の封筒を大事に胸に抱える。興奮は収まらず、心臓の脈打つ音が周囲に漏れ出しそうなほどだ。いてもたってもいられずに、鞄からペンとノートを取り出して、特待生として任された新入生代表あいさつの原稿を書きはじめた。夢中で書き付けていると長い道のりがあっという間に過ぎていく。ふと窓の外を覗けば、すでに見知った街中までバスは進んでいた。突如、揺らぐ視界。身体が宙に浮く。そして――大きな破裂音とともに一切の光が失われた。
(痛い、痛い、寒い、……痛い)
他の乗客も荷物もすべてが重力から解きはなたれて、とっさに隣席の人に覆いかぶさった。背中になんともつかぬ重い打撃が数度。そこまでは記憶にある。刺すように鋭く、焼け焦げるように熱い。インフルエンザのときの何倍もひどい寒気がする。
(そうか、たぶんバスが事故に遭ったんだ)
背面をひたひたと湿らせる水っぽい感じは、たぶん自分の血液だろう。(ああ、寒い)寒気は出血多量によるもので、感覚のない場所はもはや欠損している可能性がある。(痛いよ、助けて。薬だけでも飲ませて、お願い)尋常ではない衝撃だったから、そのくらい重症でも不思議はない。(寒い。痛い。寒くて耐えられない)痛覚はあるが、目も見えず音も聞こえない。これまでのどんな疲労や空腹とも比較にならない虚脱感だ。のたうち回りたいのに動けぬまま、淡々と思考が巡る。命の灯火がひどく弱まっているのを感じる。(痛い痛い痛い。叫ばなければやっていられない、こんなの洒落にならない……ひょっとして、死ぬのかな)
動かぬ口で独り言をこぼし、見えない目を見開いた。脳裏に浮かんだ〝死〟の一文字に、急激に感情が揺さぶられる。とてつもない恐怖、その後、死への拒絶が尽きることなく湧き上がってくる。
(いやだ! まだ、まだ私、死ねないから。だってまだ!)
実際に手を伸ばせたのかは定かでない。意識はひたすらに身体へと信号を送り続ける。掴みたい、この命を手放したくない。見えなくても聞こえなくても、誰かに伝えなくては。
(まだ死ねない! 死にたくないんです――!)
感覚のない腕がもどかしい。首でも、瞼一つでもいいから意思表示がしたい。ここまでの生涯を共にしてきた肉体のイメージを、脳天から爪先まで張り巡らせて具現化に努める。
(助けて、私はここにいます! 誰か誰か誰か!)
伸ばしたつもりの手を誰かに掴まれた。体温や湿気がなく、それでいて力強い。脳にダイレクトに響くような、不思議な感覚だった。
「生きてくれ! お前しかいないんだ……頼む……あいつを、あいつらを頼む!」
知らない男性の声が手のひらから聞こえた。誰? と尋ねるより早く意識を引きちぎられて――全てが闇に呑まれた。
「り……ひかり……」
(ああ、うん。光だ……明るくて、あたたかい)
瞼越しに薄い光を感じながら、ぼんやりとそんなことを考える。曖昧だった身体の輪郭が、少しずつ、しかし確実に意識と馴染んでいく。意を決して重い瞼をこじ開けた。
「ひかり! ひかり……!」
「気づいたのか、ひかり!」
そこには見知らぬ男女のぐしゃぐしゃに泣きぬれた顔があった。横たわる自分を見下ろして驚き戸惑い、堰を切ったように再び号泣する。
これは夢だ、と思ったことはある?
私はある。ちょうど今から一ヶ月前のことだ。
三月とは思えない、格別に寒い日に起きたそれは……夢じゃなかった。
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