宝石の小枝
02
桜吹雪が舞い上がり、真新しい制服がはためく。今日からこの学園の一員に加わる者への祝福とも受け取れる、優しい春の風。その軽やかさと対称的に少女の足取りは重い。入学式の今日、最も誇らしげに振る舞える特待生という身分でありながら。
「おい、落としたよ」
振り返ると、自分と同じ学園の制服を身に着けた男子生徒が立っていた。ブレザーは腰に巻かれており、ネクタイの裾はワイシャツの胸ポケットに収められている。ラフなのに不思議とだらしなさは感じない。丸眼鏡とは好対照に、鋭く理知的な目のせいだろうか。制服の使い込み具合からして新入生ではなさそうだ。男子生徒は小さな紙片を、少女――特待生に差し出した。ノートの一枚を切り離したとおぼしき紙片は、読み込まれてしわしわになっている。
「ん? なんのメモかと思ったら……新入生代表のスピーチ?」
「えっ」
特待生はすぐにブレザーの両ポケットを探った。何度も読み返すためにポケットに入れたのが仇になったらしい。男子生徒はその様子を興味深そうに見つめる。
「二〇年ぶりに女の子が入ってくるってのは本当だったのか。しかも代表とはたいしたもんだね。ま、いいや。はいこれ」
差し出された原稿を慌てて受け取る。はずみで触れた指先が、予想以上に温かい。落としたショックと拾ってもらった安堵の落差に、心がぐらついてじわっと視界が滲んだ。
「おやおや。ダメだろ、そんな大事なものなら落としたら」
「あ……」
特待生は反射的に自分の頭に手をやっていた。撫でられたかと思ったのだ。声を触覚で感じることができるなんて初めて知った。驚く特待生を見た彼もきょとんと目を丸くし、そのあと再び柔和な笑みに戻る。
「もう失くさないようにね。それじゃ」
「ありがとうございます!」
「いいよ、気にしなくて」
「本当に本当に、助かりました!」
レンズの向こうで切れ長の目が細められ、唇がニッと弧を描く。男子生徒は踵を返すと、手を振りながら校舎とおぼしき建物へ向かって去っていった。春風よりずっと心地よい、薄荷のように爽やかで蜂蜜のように甘く痺れる声。ぞくっとするほど艶っぽいのに淑やかでもあり。我に返るまでに何分程度立ち尽くしていただろうか。嘘のように軽くなった足取りで、特待生は入学式会場である講堂へと急いだ。
そこは、講堂より劇場と呼ぶほうが相応しい。さすがは声優の養成学校といったところか。想像と違いすぎて、思わず入り口付近で建物を眺め回してしまった。定礎の上に〝宝石が丘学園 講堂〟のプレートを確認して自動ドアをくぐる。遅刻こそ免れたものの、自分が最後の入場者らしかった。講堂のホール前は真新しい制服に身を包んだ少年たちで溢れている。
(男子ばっかりだ……集合場所が男女別とか? でも案内にはそんなこと書いてなかったし)
私立校、ましてや声優養成校という特殊環境なら男女比が偏っても不思議はないが、女子生徒が自分の他には一人も見当たらない。人混みの中、ぐるりと頭部だけを巡らせる。
(あ、あの三毛猫パーカー欲しい!)
三毛猫柄のパーカーを着た少年は、ちらりと横顔を見ただけでも、モデルかアイドルかと疑うレベルのきれいな顔立ちだ。眉上で斜めにカットされた前髪であらわになった顔面には整然と美しいパーツが並んでいて、少し釣り気味の大きな猫目がとりわけ印象に残る。彼と一緒に立ち話をしている子は、鮮やかなミントグリーンのパーカーをブレザーの下に着込み、ヘッドフォンを首に下げている。三毛猫くんが規格外なだけで、彼も十分整った顔立ちだ。賢そうな現代っ子という印象を受ける。
(……印象、かあ……)
特待生は改めて自分の制服をしげしげ見つめてみた。スカート丈は納品されたままいじらず、ワイシャツは第一ボタンまできっちり嵌めている。真面目で模範的な学生の着こなし。学園案内のパンフレットに〝着こなしも個性の一つ〟と記載されていたが、ここまで自由度が高いとは思わなかった。先程の丸眼鏡先輩もそうだ。かなり着崩しているのに不思議とだらしなさは感じない。それどころか、くつろぎ感のある大人っぽさを醸し出していた。三毛猫くんしかり、ヘッドフォンくんしかり、おそらく別の生徒が彼らと同じ格好をしても違和感が出るだろう。彼ら三人は自らの魅力を理解した上で自分自身をプロデュースできているのだ。
(声優養成校……いい意味で普通と違う。すごいかも)
感心しながら眺めていると、館内放送でホール内に入場を促される。ドキュメンタリー番組のナレーションで聞いたことがあるような、耳に心地よい落ち着いた低音だった。
式が開始しておよそ一五分、講堂内は盛大にざわついていた。まさかの爆弾発言投下。新入生代表席に座る特待生も硬直する他なかった。
「すっごいざわざわしてるね~」
「無理もないわ。今の話、控えめに言って爆弾だろ」
三毛猫くんとヘッドフォンくんがすぐ隣の席に座っている。元から知り合い同士なのか、この場ですぐに打ち解けたのかまではわからないが、ずいぶん親しげな会話だ。動揺が止まらずパニックになりそうな自分も混ぜてほしい。閑話休題、その爆弾発言とは。
『――――本校は廃校の危機に瀕している』
いま壇上に立っているのは、病欠の学園長に代わってあいさつを代読する若い男性講師。細身に仕立てられたピンストライプのスーツがよく似合っている。緩い癖毛と気怠げな雰囲気は余裕を感じさせ、いかにもできるオトコの風貌。
「えー、大事なことなのでもう一度言う。本校は廃校の危機に瀕している。あらためて、病欠の学園長に代わり情感たっぷりに読めと台本をお預かりした
(情感たっぷりとかそういうの、今はいいから……なにこれ、声優界の独自文化?)
椅子からずり落ちそうになる特待生をよそに、荒木と名乗る講師は滔々と語りだした。
宝石が丘学園は今年で創立一〇〇周年となる。もともと声優養成所として開校し、崇高な理念のもとに徹底した英才教育を施してきた。いま最前線で活躍する声優も宝石が丘出身者が多く、歴史と伝統を誇る名門校である。
しかし――近年のアイドル声優ブーム。これに乗じて乱立した声優養成所が、高額な授業料で適当な教育を受けさせた生徒たちを、大量に声優事務所に送り込むようになった。対して創立当初から頑固一徹、良心価格で英才教育を施す宝石が丘学園は価格競争に負け、事務所との契約を取れなくなった。ゆえに、経営難に陥り学園は破綻寸前である。
ユニットシステム。特待生はその詳細を知らないが、とにかく宝石が丘のユニットシステムは本来の機能を失ってしまった。生徒たちは協調より競争に明け暮れている。そんな生徒たちに対して「キラキラ! しようよ! みんな!」と学園長の呼びかけ。
(ここで唐突なポエム展開……)
キラキラよりズキズキ痛むこの頭をなんとかしてほしい。こめかみを押さえつつ話の続きに耳を傾けた。学園長が理事に頭を下げまわって寄付金を集め様々な方策を練っているものの、焼け石に水である。現状が是正されない限り本年度で廃校見込みである。これをもって入学式を閉会とする。
(廃校。閉会。…………って言った?)
「あれ、なんかもうちょっとあるんじゃなかった? 送辞とか答辞とか」
「うん、それは卒業式だな」
三毛猫くんとヘッドフォンくんの見事なボケツッコミが噛み合う。
(そんな……)
特待生による新入生代表あいさつが、丸眼鏡先輩が拾ってくれた大切な原稿が、この瞬間に役割を終えた。実は、これらすべてが宝石が丘学園名物の入学式ネタで「ドッキリ大成功!」の立て札が出たりしないものか。特待生の心からの祈りもむなしく、荒木の話が続く。
「はいみんな、あらためて入学おめでとう。いきなりの廃校話にざわつくのもわかるが、一度忘れて……いや、これは台本じゃないぞ、俺がしゃべってる、いいな」
まだ続くらしい熱弁にげんなりするが、どうやら前述のユニットシステムについて説明をしてくれるらしい。気を取り直して、背もたれから背筋を離す。宝石が丘が目指すのは、芝居、歌、ダンス、2.5次元……あらゆる舞台で圧倒的なパフォーマンスを見せる声優オブ声優の育成。そのために考案されたのが前述の〝ユニットシステム〟であるという。生徒たちは基本五名からなる〝ユニット〟を組み学園に申請、承認が降りれば活動開始となる。ユニットは学園内で実力の証明となり、学園外では声優としての看板にもなる。
「トップユニット〝
周囲の人間がことごとく頷くので、特待生は焦る。
(知らないとか言えない雰囲気だ。〝ぷらいず〟ね。あとでググらなきゃ)
「ここまでの話について、質問ある人? ないね、じゃあ一〇分休憩! あー、そこの特待生、
分厚い壁の向こうに人混みの気配がするが、会話の内容までは聞き取れない。休憩中の入学生たちとは隔離されたスペースで、特待生は荒木と対面していた。
「入学式での話は誇張でも脅しでもない。廃校の可能性はこの学園を襲う、今そこにある危機だ」
(ドッキリじゃないんだ……)
「授業料をふんだくらない良心が、学園を苦しめている」
(そりゃそうだよ。良心だけで学校は経営できないよ。ましてやそれで経営破綻とか)
言い返したい言葉が次々に湧いてくるのに声に出せない。荒木は早口でもないのに、特待生に二の句を継がせないタイミングで語りかけてくるのだ。さらに、滑らかで落ち着いた声そのものに、信頼感と親しみやすさの両方が備わっている。理屈で反論したくとも、ついつい話に乗っかってしまいそうだ。たとえ方が良くないが、振り込め詐欺グループの一員に荒木をスカウトしたら相当に成功率が上がるだろう。
「特待生、お前にはこの学園を救うという崇高かつ重要な使命を与える」
唐突に振り下ろされた重い内容に相応しくない、フランクな口調。飲まれまいと抗いながら、特待生はやっとのことで第一声を絞り出した。
「あの……学園を救う使命とは? 具体的な内容をお伺いしたいのですが」
「ユニットたちを協力させ、学園を統一し、あるビッグな公演を成功させろ。それが使命だ。マスコミや声優事務所も招待する、大々的な公演だ。成功すれば宝石が丘の名は輝きを取り戻すだろう。寄付金が集まり、事務所の契約もとれる」
「こ、公演! 私がですか!?」
絶句する特待生に、なおも荒木の追い打ちが続く。
「言っておくが、お前に断る権利はないぞ? いや、正確にいうとあるが、おすすめしない。もし断るなら特待生の権利も剥奪だ。学費・寮費は自己負担となる」
権利の与奪を握る自分が圧倒的優位と信じて疑わない態度だ。悪戯っ子をそのまま大人にした笑みだが〝ニヤニヤ〟と形容するには整いすぎた顔立ちが憎い。
「せいぜいがんばって納付するんだな。けっこうするぞ」
(……この人は、何を言っているのだろう)
合格発表があってから未だ一ヶ月経過していない。最初から特待制度狙いで受験でもしない限り、天音ひかりの学費は工面済みであると考えないだろうか。そもそも長らく不景気の日本において、天音家はいわゆる富裕層に属しているのだ。愛があってもローンを組めない家庭は山ほど存在する。その点、天音家はかわいい一人娘のたっての願いとはいえ、高校を半年で中退を許し、声優養成所に通わせつつ、宝石が丘学園を受験させられるのだから。しかし残念なことに、特待生はその使命とやらを受けるしかない、天音家に頼りたくない事情があった。悔しさを飲み込み、荒木に合わせて笑顔でポンと手を打つ。
「あっ、あー。納得です! 今どきそんなうまい話ありませんよね。流行りの〝実質無料〟的な特待制度なんですね」
「そーだ。だがうまい話と言えなくもないぞ? 考えてみろよ、お前はこの学園を救う救世主になるんだ。どうだ~、わくわくしないか」
「ふふふ。言われてみれば、してきたような気が?」
動揺を捻じ曲げて作ったあざとい笑顔は、特待生の胸中とは異なる台詞を紡いでいく。ノリの良い相槌を受けて、荒木のスピーチはよりいっそう輝きを増した。
「宝石が丘は日本で唯一、全寮制で声優課程を持つ高校だ。なぜ全寮制か? 声優という職業が認知されない時代、親に反対され夢を諦める青少年を一人でも減らそうとこの学園は創られたからだ。そして実際、何人もの夢を救ってきた」
「涙なしには語れませんね!」
「その夢を、今ここで、お前の手に託す! すごいな、感動の名場面だな」
「アニメ化待ったなし!」
「ちなみにユニットはそれぞれに個性がありお前に協力的とも限らない。まあ、なんとかしてがんばるんだな」
「ユニットは個性的で非協力的! なんとかしてがんばります!」
全自動相槌マシーンと化した特待生に、荒木は爽やかに微笑んだ。
「以上、これまでの話で質問は? ないな、じゃあ休憩に戻ってよろしい!」
「はい!」
俯き加減でホールまでの道のりを歩いていると、誰かにぶつかった。
「あっ、すみません」
「おっと、悪い。ぼーっと歩いていると危ないぞ。……ん、女子?」
特待生がぶつかった男子生徒は、ハーフリムの眼鏡をかけている。淡々と読み解かれる朗読劇のように、物静かながら存在感のある声だ。こちらに目を留めると頭だけ振り返り、廊下の向こうから歩いてくる生徒たちの一人に声をかけた。
「おい
「あ、そうそう。おーい、また会ったな代表ちゃん。感動的なスピーチはできたか?」
「……っ、あ……」
数メートル先から、先ほどの丸眼鏡先輩が歩み寄ってくるのが見えた。ほんの小一時間前の出来事なのに、再会をひどく長く待ちわびていたように感じる。彼の名は青柳というらしい。続いて五、六人ほどの生徒がわらわらと細い廊下の一角に集まる。
「あっ、ミカ、この子。合格発表のとき、最前列で俺らを睨んでた子だよ」
「なにこれ、なんの騒ぎだ? ……ん? お前、見覚えあるな」
遅れて集まってきたうちの二人は、特待生のことを見知った風に話す。
「え……?」
一方、特待生はこの二人に見覚えがない。まるで絵本から抜け出た王子様とお姫様のような、一目見たら忘れるはずがないほどきれいな容姿をしているのに。暗澹たる思いが胸中を埋め尽くして、特待生は一度上げた顔を再び俯かせた。
「新入生ですよ、しかも代表ですって」
「へえ、そりゃ頼もしい」
「ここはやっぱり胴上げで迎えるべきじゃないか?」
「よくそういう変態的な発想がすかさず出るな、お前は」
和やかに会話を弾ませる生徒たちとの間に、見えない壁がある。ぽつんと所在なく立ち尽くすしかできない。
「青柳、今後そういう言動は極力慎めよ。彼女はこの学園でたった一人の女子生徒なんだから」
「――はい!?」
生徒らの語らいをぼんやり聞き流していた特待生だが、聞き逃せない台詞に素っ頓狂な声を上げた。全員の視線がこちらに集まる。
「女子……学園で私だけ……って」
二〇年ぶりの女子、ほとんどいない、初めて見る。そういう言い回しは今日何度か耳にした。しかし〝たった一人の女子生徒〟と言い切られたのは初めてだ。少数と唯一では全く意味合いが変わってくる。困惑したままぐるりと視線を巡らせ、先ほどのお姫様に目を留める。と、その瞬間、凄まじい怒気を込めて睨まれた。
「いま俺のこと見たよね。何て考えた?」
「ヒッ!?」
「びっくりしてる……そりゃそうだよね」
お姫様のソプラノボイスから一転、別方向から渋いバリトンボイスが響く。気遣わしげに手を差し伸べてくれた生徒は、繊細な容姿と色っぽい重低音のギャップがものすごい。
(なにが起きて……どこから考えればいいの?)
イケメンしかいない。イケボしか聞こえない。酔いそう。
驚きポイントが多すぎて処理が追いつかない。倒れそう。
というか、倒れたいのに倒れない自分がいっそ恨めしいくらいだ。
「あーあ、この子完全にまいってるよ。どうすんの」
お姫様の溜息に被せるように、講堂内にアナウンスが響き渡った。
『あーあー、まもなく入学式を再開する。休憩中の新入生は速やかにホールに戻るように』
「さてさて、大丈夫かねえ」
丸眼鏡こと
「まるでアフレコ中だな」
少々と言わず、かなり頼りない印象はあるが興味は湧く。
「さすがは代表ってとこかね」
『都内の喧騒から離れた自然豊かな学園都市。声優の聖地とも言われ、あらゆるカルチャーへの理解がある。それがここ、宝石が丘学園の建つ十王子市だ』
講堂での荒木の言葉を思い出しながら、特待生は学生寮へ向かって歩いていた。緑と土の匂いがする道のりがせめてもの救いだ。想像以上に洒落たエントランスをくぐり、あちこち眺めながら三階に昇る。学生寮はC棟とL棟の二棟があり、特待生の部屋はC棟の三○七号室だ。今日から三年間を過ごすことになる居室の前に着いた。業者が間取り図にしたがって引っ越し作業を済ませてくれているので、足を踏み入れるのは初となる。
(今日からここで過ごすんだ。もういやだ、帰りたい……帰るって、どこへ?)
どのみち自分が帰る場所なんてないことに気づいて自嘲する。ルームキーを解錠してドアノブに手をかけると、隣室から人の出てくる気配がした。
(三年間……いや、廃校したら一年以下のお付き合いになるかもしれないけど)
第一印象を大切にしよう。三毛猫くんとヘッドフォンくん、それに青柳先輩に初対面から好感を抱いたのを自分も見習うのだ。深く息を吸い込み、気をつけの姿勢で隣人が出てくるのを待った。蝶番がキイと音を立てて、扉の陰から現れた人物は……なんとも残念なことに初対面ではなかった。
「お、特待生か。また会ったな」
第一印象最悪な荒木先生、その人が立っている。
「ははは。部屋は隣だし、先生と生徒だ。これからも飽きるほど会うが、ま、よろしくな」
「……ハハッ、ヨロシクオネガイシマス……」
ひゅるひゅる、口から生気だか魂だかが抜けていくようだった。入室して後ろ手にドアを閉め直立すること数秒。限界だ、いろいろと限界の訪れを感じる。
「……狂ってる」
ポツリと呟くと、助走をつけて部屋の中央に配置されたベッドに勢い良くダイブした。
「っだああぁぁああ――――――――っ!」
ベッドが激しく軋んで、着地の余波でぼよんぼよんと揺れる。
「女子が一人とか! 先生含めて全員男子で同じ寮で暮らすとか! ないわ、ないわこの時代に!」
枕に幾度もヘッドバンキングしながら怒声を上げる。
「よりによって入学式で、入学してからだよ? 今年で廃校になるかもって言う!? ありえんから! 父兄の参加がないのはそのせいか!? 新入生一同で集団訴訟してやろうか! 金欠だかなんだか知らんが、この際ケツの毛までむしり取ってやろうか!」
枕にグーパンチを打ち付けるたび、羽毛が溢れて舞い上がる。
「良心的な価格設定で経営破綻て! 言い訳にならないんすよ! 廃校したら生徒はどうなるかわかってる? 転校からやり直し? この不景気に? 本・末・転・倒・はなはだしい! 大人の尻拭いは大人がやんなさいよ! 清い志だけでごはんが食えるか!」
思い返すほどに憎らしい、見惚れるほどの顔面と聞き惚れるほどの美声が脳裏に蘇る。
「あの先生! 荒木先生! 酸いも甘いも噛み分けた顔しちゃってるけど、たしかに仕事できるっぽいけど、どう見ても二十代でしょうが! イケメンならイケボなら何言っても許されると思ってんのかあの若造はっ!」
真新しいベッドに立ち上がり地団駄を踏めば、わりかし高級なスプリングコイルが悲鳴を上げる。
「特待制度を盾にJKひとりに壮大な使命を押し付けるとか! おかしいから! 入試要項から学則からくまなく粗探ししてやる! ボイスレコーダー持っておくんだった! いまポチる、次こそ言質とってやる! アマプラなら翌日お届けですから!」
ぜえぜえ荒ぶる呼吸も落ち着かないまま、スマートフォンを片手にAmaz◯nのサイトを開く。
――コンコン。コンコンコン。
自室のドアがノックされる音に、怒り心頭で湧き出た全身の汗が一気に冷えた。なおも無情に響くノック音。
――コンコンコンコン。
「おい特待生~?」
いま世界で一番聞きたくない隣人の声は、どちらかというと楽しげだった。「あれだけ叫んでおいて居留守はないだろ。声量は褒めてやるから、出てきなさい」
先ほどまでの威勢はどこへやら、荒木の居室に招かれた特待生は青菜に塩の如くしんなりしょげかえっていた。正座してローテーブルを挟んだ向かいで、荒木がくつくつと笑いを堪えながら特待生の髪に付いた羽毛をつまみとる。
「では復習だ。まずお前がやることは?」
「各ユニットへの協力要請です」
「そうだ。かってこの学園で一年に一度盛大に行われたイベント〝グラン・ユーフォリア〟。 これを復活させる」
講堂にて荒木が話していたビッグな公演は、名をグラン・ユーフォリアという。スター声優の登竜門とも言われていた、宝石が丘学園の誇る伝統的なイベント。コンテンツは芝居、歌、ダンスと多岐にわたり、企画も出演も生徒が手がける。かの使命を受けたときは、なぜ一介の女子高生である自分が公演を任されるのかと面食らったが、少なくとも生徒が主体となって作り上げる点においては冗談でないらしい。しかしそんな伝統も時代の流れには抗えない。生徒たちのアピールの場はやがてインターネット上へと移行し、グラン・ユーフォリアの影響力は薄れて、ついには消えたという。
「グラン・ユーフォリアは失われた。だがこの時代にこそ、生のステージだけが持つ臨場感が、熱量が、人の心を震わせると俺は思っている。いや、震わせなくちゃならん」
暴れて叫んで頭が冷えたせいだろうか、いまは荒木の声がすんなりと心に届く。いつの間にか彼の目から悪戯な輝きも消えていて、熱を宿した言の葉のすべてに特待生は意識を凝らす。
「名門宝石が丘はここにありともう一度、声優業界に突きつけてやるんだ」
深く頷く特待生に、荒木がふっと険しい表情を緩めた。
「けどな、何もお前ひとりの肩に背負わす気はない」
「……ユニットの協力を得ること、ですね」
グラン・ユーフォリアを成功させたと世間に言わしめるには、すべてのユニットの参加が不可欠だと荒木は言う。学園の承認がなければユニット活動はできない。つまりユニットメンバーはいずれも学園お墨付きの実力者であり、彼らの協力を得るのが当面の目標になる。現時点で学園に存在するユニットは五つ。
「全部言えるな?」
「はい。
「よろしい。 よし、今日はここまでだ」
満足げに荒木が微笑んだので、特待生も胸を撫で下ろした。この部屋に足を踏み入れたときよりはずっと気が軽い。
「あの……最後に一つ質問してよろしいですか?」
「ん、なんだ?」
「本当に学園は破綻寸前なんでしょうか? この寮もさっきの講堂も、内装の細部まで凝っていてピカピカで。講堂の定礎は七年前でしたよ。これを見てたら財政難だなんて、信じられるわけが――」
くっと喉がつかえて特待生は途中で質問を止めざるを得なかった。触れてはいけない何かに触れてしまった。お姫様のメラメラ滾るような睨みがかわいく思えるほどに、冷たく鋭い視線に射抜かれ呼吸さえ止まる。
「……今日は疲れたろう、もう休め」
無言で一礼すると、特待生は荒木の居室を立ち去った。暮れていく日に沈みゆく心。こうして宝石が丘学園で過ごす日々のはじまり、はじまり。
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