宝石の小枝

27

 「と、ととと特待生さん。少し……二人きりになりませんか」
 神谷祈が緊張した面持ちで話しかけてきた。彼と対面するときは、常に微笑ましさと心苦しさの両方を感じてしまう。第三者視点で彼と天音ひかりの姿を目にすることができたらどんなにか、と歯がゆい。特待生は祈と連れ立って、校舎裏の人目につきにくい場所まで移動した。
「きょ、今日は、特待生さんのお誕生日ですよね?」
「へっ? ……あ、ああー、そういえばそうでしたね!」
 祈に言われるまで特待生自身もすっかり忘れていた。最近はカレンダーを眺めてもグラン・ユーフォリアの開催日とそこへ至るまでのスケジュールしか連想しない身体になっている。
「これ、プレゼントです。受け取っていただけますか?」
「もちろんです。ありがとうございます、ここで開けてもいいですか?」
「ど、どうぞ!」
 受け取った包みを丁寧にほどいていくと、やや青みを帯びたピンクの石が姿を現した。透明感はないが表面は滑らかに磨き上げられ、金具で留められてキーホルダーに加工されている。
「わあ……きれいですね……」
「ルビーの原石です。特待生さんの誕生石です」
「る、るるるルビー!? そんな高価なものを」
 思いもかけない宝石の響きに、特待生まで祈ばりにどもってしまった。
「ああいえ、宝飾品にできるほどの品質ではないから……そこまでの価値はないんです。気にしないでください。でも清めてお祈りをして、一生懸命パワーを貯めました」
 祈の顔は誇らしげだ。どこまでも実直にひたむきに、天音ひかりを一途に思ってこのパワーストーンを完成させたのだろう。特待生は何も言葉にできず、しばらく押し黙ってしまった。
「祈先輩。なんだか……すみません。こんなによくしてもらっているのに……」
 祈は頬を染めて心底嬉しそうに笑う。
「いえ、特待生さんとこうやってお話できているだけで、夢のようです」
「私もとても嬉しいです。大切にします」
 特待生はポケットから寮の鍵を取り出してキーホルダーを括り付けた。
「寮の鍵なら部屋の外ではいつも持ち歩いているし、部屋でも近くに置いておけるかと思うんですが……どうでしょうか。使い方、間違っていませんか?」
「お守り……うらやましい……いえっ、はいその使い方で! 大丈夫です」
 祈の好意に気づいていながら素知らぬふりをして、感謝を告げる自分は間違っているだろうか。彼の必要以上にぴんと伸びた背筋に、紅潮した頬に、喜びに溢れた笑顔に胸が痛む。
「特待生さんは今日、水難の相が出ています。今からMAISYのみんなとラジオ収録に行かなければなりませんが、きっとこの魔除けが守ってくれます」
 
 校舎内に漂う空気はいまだに居心地の良いものではなく、特待生は寮の自室にこもって現状の打開策を練っていた。グラン・ユーフォリアや天音ひかりの名でエゴサをすれば、ネットの海は悲劇的なまでに真っ黒で、学園関係者しか書き込めない内部向け掲示板も荒れに荒れている。それでもグラン・ユーフォリア計画が頓挫したわけではない。最も大きな痛手を挙げるとするなら、エメ☆カレが練習スケジュールを他の仕事で埋めてしまったことと、MAISYの参加保留だ。それ以外のユニットは、特待生の噂に対するスタンスは違えど、グラン・ユーフォリアに出演する意思表明を覆してはいない。彼らの実力をもってすれば、一日限りの公演は十分に完成の域まで持っていける。
「……そんなの、嫌だ」
 特待生はかぶりを振る。実現の可否ではなく自分が嫌なのだ。ならば、いま自分を悩ませていることは、真の障壁とは何なのか。混乱してきた特待生は白紙のテキストエディタを立ち上げた。こんなときはありのままを吐き出していくに限る。殴り書きでもいい。一〇本の指が、特待生の思考をそのままなぞっていく。 


[グラン・ユーフォリアを復興させる理由はなに?]
・宝石が丘の威信を取り戻したい、経営を立て直したい
・お金関係の話なら子どもに背負わせないで、大人たちでなんとかしてほしい
・MAISYの言うとおり、疑惑にまみれたイベントに存在意義はあるのだろうか
・白紙から作り上げる伝説のイベントが面白そう
・イベントの企画そのものに関心が高い。路上ライブや朗読劇を企画したことがあっても、グラン・ユーフォリア規模の経験はない
・あっさり各ユニットの協力を取り付けられたのは、元からグラン・ユーフォリアをやりたいと思うメンバーが多かったからで、私の力ではない気がする
[ではなぜ、計画が頓挫しかけているのか?]
・私の声優としての実力が不足しているから
・プロとしての矜持。素人と一緒に仕事はできないし学園の命運も任せられない
・学園の存続に興味がない
・廃校しても声優としてやっていける者にはどうでもいいこと
・学園救済策として意義があるのか不明
・グラン・ユーフォリアは銀の弾丸ではない
 

 一気にキーボードで打ち込み、引いた位置から画面を眺めれば、なんのことはない。これらは論理的思考のかけらもない愚痴大会だ。少なくとも自らのコンディションを窺い知ることができた。完全に煮詰まったいま、できることはただ一つ。
「うん……ごはん食べよ」
 食堂に降りてきた特待生は、芳しい匂いにつられながら掲示された今晩の献立を眺める。久々に〝ミックスフライ定食〟の文字を見つけて即決した。料理上手の帝といえども、安全上の理由から寮の居室で揚げ物はしない。揚げたてのフライを食べられる有り難さは自炊経験のある者ならひとしおである。美味しいものを食べればとりあえず元気が出る。食べられなくなったときは、いよいよ赤信号だ。
 食堂の片隅、窓際の席を選んで一人食卓についた。イカリングを口に運ぶ特待生の視界にコップを持った手が映る。手はすでに加速していて、中に入った水は器を離れている。これから何が起こるのかを頭では理解していても、身体の反応が追いつかなかった。ぴしゃ、という音とともに顔に冷水を浴びる。被害範囲は前髪と顔面とイカリング。特待生さえ黙っていれば誰も気がつかない、ハンカチで拭える程度の濡れ具合だ。問題はイカリングである。サクサクの揚げ物は食堂の調理師さんたちが心を込めて作ってくれたもので、いまや数少ない特待生の癒し。貴重なくつろぎタイムに文字通り水を差してくれた生徒とその連れ合い一名を睨みつける。
「……どういうつもりですか」
 椅子を引いて立ち上がると、二人がこちらを振り返る。彼らは悪びれずに口元を歪ませた。水を浴びせた張本人は細身で眼鏡をかけている。わりあいに整った顔立ちだが、少し神経質な印象を受ける。その隣には短く髪を刈り上げた体育会系風の男子生徒がおり、やはりニヤニヤと特待生を見下ろしている。不可抗力ではあるのだが、この身体になって以降この瞬間ほど体格差に苛立ちを感じたことはない。完全に舐められている。こう見えても男子高校生の夢を壊さぬよう、かわいらしい女の子を演じ続けてきたのだがそろそろ限界だ。堪忍袋の緒が、音もなく切れた。
「手が滑ったんだよ、わざとじゃないって」
「そうそう、俺たちは特待生サマと違って裏口入学できるコネもなければ、大手事務所に決まるほど実力もないからな」
「プッ! だよなあ」
 彼らが顔を見合わせて吹き出した頃には、特待生は行動を始めていた。
「あ、手が滑りました。すみません」
 大根役者を極めた棒読み。卓上のコップを手にとって細身のほうに同等量の水を浴びせる。
「……なっ」
「てっめぇ……!」
 唸るような低音で体格のいいほうの生徒が凄む。当然ながらフィジカルで特待生に勝ちの目はないが、ここは夕食時間帯の食堂だ。衆目の中で暴力行為に及ぶことはないだろう。仮に彼らがカッとなり抑制が外れても、大事になる前には制止が入るだろうし、一対多なら非難されるのは確実にあちらのほうだ。特待生はにこやかに微笑むと、男子生徒たちへ噛んで含めるようにゆっくり話しかけた。
「それでは……私がやったこと、わざとじゃないって証明できますか? 裏口入学したことを示す証拠はどちらにおありです? 先ほど私が大手事務所と契約済みと仰いましたが、事務所名はご存じですか。ちなみに、私自身はまったく存じておりません。おかしいですね~」
 特待生の変貌ぶりに二人は当惑しているようだった。よからぬ思いつきが胸に浮かぶ。
(そうだ、櫻井先輩の真似をしよう)
 あんな風に華やかに、艶やかに。苛立つくらいに優しく彼らを嘲ることができたら、どんなにか愉快だろう。不覚にも弾みだした心を気取られないように呼吸を整えた。
「アハハッ! 根も葉もない噂をネタに憂さ晴らしだなんて、ほんっと面白いですね~。話題性だけの素人を獲得してメリットのある大手事務所が存在するって信じてらっしゃるなんて。純粋すぎてこちらが照れてしまいそうです。ああ、スマートフォンをお持ちなら、一次情報の確認をすることもできますよ? 教えて差し上げましょうか」
 こんなことのために技術を磨いたのではないが、なかなかの出来だったと思う。
「……っ、このやろ……」
 特待生に掴みかかろうとした男子生徒の腕が、後方に捻り上げられた。
「痛ってえ!」
「やめろ! 女の子一人に何してんだ」
 基本的にいつも温厚な見明佐和は、実はプロレス観戦が趣味なのだと聞く。豹変とも呼べる彼の怒声を、エメ☆カレと巴絡み以外で見るのはなかなかにレアだ。
「あっ。そこの人、先週のオーディションたしか一緒に受けてましたよね。ちょっとナーバスな感じですか?」
 吉條七緒の追撃が入った。軽い調子で言い放つが、オーディションは七緒が合格したのだと示唆されているも同然だ。男子生徒たちのネクタイの色は青。一年生に何一つ言い返せない彼らの心情が窺い知れて、特待生の胸にもずしんと響いた。
「見明先輩……七緒くん。ありがとうございます」
白金(しろがね)金銅(こんどう)、どうしてお前さんたちがこんなことしてんだよ!?」
 佐和は彼らに悲痛な声で問いただした。なるほど、三年生かつC棟ならば、この男子生徒たちは佐和のクラスメイトということになる。
「どうでもいいだろう! グラン・ユーフォリアなんて俺たちモブには関係ない。……特待生、お前にとっても成り上がりの道具でしかないように」
 捨て台詞を残して男子生徒たちが去っていく。緊張状態が解けて、食堂が一気に騒がしくなった。注目の渦中にいるのは紛れもなく特待生だ。
「特待生さん、ご無事ですか!?」
 ふわりと柔らかいものが特待生の頭部を包み込んだ。
「わっ……嵐真くん、これ大事なやつ!」
 どうやら、ハムチュウの被り物を頭に載せられたらしい。
「お気になさらず! 大して水気も吸えませんが少しはマシですかな?」
「風邪を引いてしまう。さあ、部屋に戻ろう」
 陽人がブレザーを脱いで特待生を包んでくれた。上品な薔薇の香りが心地よく漂う。被り物もブレザーもとてもあたたかい。水気うんぬんより、彼らの優しさが身にしみる。それでも居室へ戻ろうとうながす彼らに逆らい、特待生は足を止めた。
「定食、まだ食べかけなんです。……とはいえ、ここでは騒がしくなりそうですから、部屋に持ち帰って食べますね。被り物とブレザーは、私が洗ってお返ししてもよろしいですか?」
 てきぱきハンカチでテーブルの水を拭き、食事の載ったトレイを持つ。食堂中の誰もが、そんな特待生を見て唖然としていた。
 
「助けていただいて本当にありがとうございました。明日あらためて、各ユニットの皆さんとお話させていただけませんか?」
 特待生は自室の前まで送ってくれた佐和、陽人、七緒、嵐真に頭を下げた。
「どうにかしていた。ボクたちのこれまでの行いを許してもらえないだろうか」
 口火を切ったのは陽人だった。特待生は首を強く振ってその言葉を否定する。
「違うんです。許すも何も、元はといえば私の実力不足です」
 裏口入学の噂など吹き飛ばせるくらいの実力を示し、宝石が丘学園のひかりとして輝くことができなかった。自らの口から紡がれる言葉を噛みしめる。
「声優として未熟な私が総指揮としてグラン・ユーフォリアを復興させるなんて、やればできるなんて、思い上がっていたことが間違いだったんです」
 ようやく答えにたどり着いた特待生の心はむしろ清々しかった。
「謙遜ではないですよ? もし私に実力があれば、あの場で噂の出処なんて聞きません。ねえ、七緒くんの言葉のほうがよっぽど説得力があったよ。私には力がないから、あんな仕返ししかできなかった」
「特待生……」
「へへ、悔しいね」
 エビデンス皆無の噂と、同じ学園内で生活している特待生への信頼。両者を天秤にかけたときに噂が勝ってしまうのは、やはり特待生の実力が信頼に値しないから。
『お前に隙があるからだよ、特待生』
 千紘の言葉を反芻する。その通りだ。演技や歌のレッスンで褒められて、さすが特待生だと祀り上げられて、いつの間にやら図に乗っていたらしい。潔く力不足を認めよう。負けることと逃げることは違うし、まだ絶望には程遠い。こんなもの、絶望ではない。
 まもなく一学期が終わる。夏休み前になんとか決着をつけなくては。入学直前に顎のあたりで切り揃えた髪が、肩に触れるくらいまで伸びている。特待生はその一房を握りしめ、ぎゅっと引っ張った。

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