宝石の小枝

03

聞き慣れたアラームの音に、特待生はまどろみの沼から意識を引っ張り出した。瞼を開けて、しばし呆然とする。知らない天井、嗅ぎ慣れない部屋の匂い。馴染んでいるのは使い慣れたスマートフォンのアラーム音だけだ。時刻は朝の五時半。
 ため息とともにベッドから抜け出すと、自室のユニットバスに備え付けられた洗面台で顔を洗う。濡れた手で前髪を撫で付けて寝癖を直し、後ろ髪は二つに結わえた。ジャージに着替えて寮の外に出る。すぐ近くに野鳥たちのさえずり。清涼な朝の空気に、胸の淀みが少しだけ浄化された。
(まずは三〇分を目安に、今日はどこまで行けるかな……)
 天候は曇り。昨夜の雨で湿気はあるものの蒸し暑さもなく快適。少し寝不足気味で身体が火照っている。足腰への疲労の蓄積はない。身体の内と外へ入念に耳を傾けながら、今朝のランニングコースの目標を立てる。
「目標、ひとまず昨日のドラッグストア前まで! よーいスタートっ!」
 宝石が丘学園は山の頂上に建てられているため、必然的に帰り道が登り坂になる。調子に乗って下りすぎないよう、天候と身体のチェックは随時入念に行う。無理を感じたら、授業に響かないよう早めに引き返さねば。下り坂は油断するとみるみるスピードが出て、いとも簡単に呼吸が乱れた。アスファルトをしっかり踏みしめながら、ふもとの商店街を目指す。昨日の折り返し地点であるドラッグストアにつく頃には顎から汗が伝い落ちていた。一朝一夕で伸びるほど鍛錬は甘くない。今日もくるりと踵を返して、来た道を引き返す。復路は自転車なら立ち漕ぎ必須のけっこうな急勾配で、ここまで走ってきた疲労が一気に反動として返ってくる。重くなるふくらはぎを諌めながら走り続けると、背後から軽快な足音が響いてきた。特待生にはその心当たりがある。
「……っ、雛瀬(ひなせ)先輩、はぁっ、輝崎(きさき)先輩……っ、おはよう、ございます……っ!」
「おはよう。今日もがんばってるね」
「おはよう。どうやら三日坊主ではなさそうだな」
「それじゃあ特待生さん、お先にね」
「はい、どうぞ……っ」
 息も乱さず、なんなら談笑しながら走っていく二つの背中を見送る。目と耳の保養。入学式の翌日から始めたランニングへの、思わぬご褒美ではある。毎朝のこんなやり取りも、はや一週間。輝崎(きさき)千紘(ちひろ)雛瀬(ひなせ)碧鳥(みどり)はいずれも宝石が丘の二年生で、協力を仰ぐべき学園公認ユニットメンバーでもある。ランニングコースは特待生と違うようだが、学園がゴールであることは共通していて、登り坂でいつも合流する。連日、後方から走ってくる彼らに軽々追い抜かれるのは少し悔しい。授業とレッスンが始まって一週間。声優を目指す身として何を練習すればいいのかすら掴めていない。悩んだ結果、素人でも無駄にならないと断定できそうなのは、とりあえず心肺機能、体幹、スタミナ全てに効くはずのランニングであった。
(しかしこの学園のイケメン人口密度……異常だな。ま、異常なのはそれだけじゃないけど)
 自室に戻り熱いシャワーを浴びる。喉の奥が潤って気持ちいい。
「あめんぼ あかいな あいうえお! うきもに こえびも およいでる!」
 ユニットバスにアメンボの歌が響き渡る。今度は髪全体をしっかりブローして、制服に着替えた。ランニングウェア、タオル、昨日の衣類を洗濯機に入れて運転を開始。
 自室の姿見の前に立って、かかとを軸にくるりと回る。膝上丈のスカートは久しぶりで、少し心もとない。乱雑な動作をしようものなら簡単に中が覗けてしまいそうだ。そこを意識して、いつも女の子らしく振る舞うのだと前向きにとらえよう。鏡に映る少女の骨格は華奢で、身長は標準的か少し小さい。くりっとした目が特徴の顔立ちもかわいらしく、ふわふわ女の子らしい服がよく似合いそうだ。身だしなみの確認が終了すると共有の給湯室でドリップコーヒーを入れた。マグカップ二杯分をトレイに載せ廊下を見渡して、他に人の気配がないことを確認しながらそろそろと歩く。向かう先は隣人の部屋である。
「……失礼します。コーヒーお持ちしました……」
 やましいところは微塵もないが、一応、人目を気にしつつ入室した。男性一人部屋に入るのに最初は抵抗があったし、今だってどうかと思う特待生である。あれだけ怒鳴り散らしておきながら手のひら返ししたような自らの態度も看過しがたい。入学式での言動は最悪だったが、荒木(あれき)(さえ)は存外まともな人間だったのだ。下っ端である自分の主張にもちゃんと耳を傾けてくれる。声優としても教育者としても、学園中で段違いの信頼を寄せられているのは頷ける。
 ……というのは言い訳なのかもしれない。入学してからというもの、特待生の足元はこんにゃくゼリーみたいにふにゃふにゃだ。知り合いのいない学園で一から人間関係を構築し、男性しかいない居住空間で恐る恐る過ごし、重い使命を背負い、これまで触れたこともない声優としてのレッスンに四苦八苦する毎日。ぶれない芯が、折れない軸がなければ、崩壊してしまいそうで。楽になりたい安全地帯が欲しい。いてもたってもいられず荒木の盲目的信者となることにした。そうすれば、この時間だけは心の平安が保てる。
「おはようございます。コーヒー、置いておきますね」
「……ん、うむぅ……」
 床に散らばった台本やら雑誌やらを軽くまとめてローテーブルに置く。お気に入りのフルーツのど飴を二個置くのと引き換えに、彼が苦手な薄荷味のドロップとトレードする。一通りのルーチンを終えると、未だベッドでまどろんでいる荒木のすぐそばに座り込み、小さく息を吸い込んだ。
「ねえ、起きて。早く起きないと悪戯しちゃいますよ、さ・え・さん?」
 瞬間、がばあと擬音が聞こえるくらいの勢いで荒木が飛び起きる。おかげで掛け布団がベッドからなだれ落ちた。
「こら! 朝から悪ふざけすんな、シチュエーションCDか!」
「シチュエーション……CD? なんですか?」
「いい、いい、調べなくていい。お前は何も聞かなかった」
 こんなふうに彼を起こすのは今日が初めてではない。参考までに、三日前は幼馴染み風の萌え声(練習中)で起こしたら「一五点、やり直し」と叱られた。一昨日はめげずに中性的な少年の声(これも練習中)で演技。さらに昨日は包丁を研ぐ山姥の声(略)で挑戦したが、いずれも採点は芳しくない。
「でも今朝は一発で起きられましたよね。何点ですか?」
「零点だ、零点! レッスンか仕事なら許すが、おじさんはそういうの好きじゃありません」
「二十四歳はおじさんではないでしょう」
「はいはい、若造でしたね。すみませんね」
「……ぐっ。あのですね、例の資料が出来上がったので見ていただきたいのです。本日お時間いただけませんか」
 一六時から三〇分間だけ空けてやる。コーヒーを啜りながら荒木がそう言ってくれたので、丁重にお礼申し上げて部屋を後にする。ちょうど洗濯が終わっていたので自室のベランダに干した。下着類は見えないように特に気を遣う。
「若造って……もう、完全に根に持たれてるなあ」
 私のバカ、とうなだれながら階段を下りて、寮の一階へ向かった。たった一人の女子生徒は目立つ。食堂に足を踏み入れた途端に注がれる数多の視線に居心地の悪さを感じつつ、顔見知りになったクラスメイトとはあいさつを交わした。一汁三菜、味も栄養も申し分ない朝食に感謝しつつ手を合わせる。ランニングのお陰で、朝からもりもり食べられる。粒の立った白飯を咀嚼しながらあたりを見渡せば、入学後一週間ということで、特待生と同じぼっちご飯の生徒もそこそこの数がいるようだ。自分としても願わくば一緒に食べる友人が欲しいところだが、こちらから誘えば確実に相手は冷やかされる。あいさつのとき、なんとなく同席に誘ってくれそうな雰囲気は数人から感じているのだが、もう少し打ち解ける必要がありそうだ。高校生は難しいお年頃、それなりに勇気がいることだろう。
(とはいえ、近いうちになんとかしなきゃね……)
 時刻は朝八時、起床から二時間半が過ぎていた。全日制の高校生が授業を受けている時間帯、宝石が丘では声優養成のレッスンが行われる。各学年は学生寮と同じくL(ルクス)とC(カラット)の二つに分かれているが、座学以外のレッスンは学年合同が多い。一限目からダンスのレッスンでへとへとになったが、身体から余計な力みが消えて、二限目のボイトレはうまく声が出た。三、四限では演技の理論と実践を学ぶ。高卒資格を得るための授業、いわゆる普通科高校生としての授業は午後になってから。大学のように、卒業に必要な単位数を自分で組み立てて履修する。一年生の授業に二、三年が混じっているのはそのためだ。宝石が丘はネクタイの色が学年ごとに定められており、現一年生は黄色、二年生が赤で三年生が青を持ち上がりで身に着けるから、見てすぐに判別がつく。いくつかの授業で青いネクタイを締めた青柳帝の姿を見かけた。そう、丸眼鏡先輩のフルネームは青柳(あおやぎ)(みかど)という。彼もまた学園公認ユニットのメンバーが一人。Re:Flyのエースにしてリーダーである。今日こそ声をかけたいと思いながらも、いざ近づこうとすると勇気がしぼんでしまう。帝の周囲は基本的に騒がしい。皮肉にも滑舌良く声の通る人間の集団であるため、会話の内容も丸聞こえだ。彼の会話は半数以上が下ネタ、うち四割がパンツの話である。最初は耳を疑ったが、頻繁すぎて慣れた(慣れざるを得なかった)。かと思えば別の日は誰をも寄せ付けがたい集中した様子で台本を読み込んでいることもある。今日はパンツの話だったが。こうして慌ただしく放課後を迎えた。荒木との約束の時間が迫っている。資料の束とノートPCを手に、執務室のドアをノックした。
 
「これ……お前が一人でやったのか」
 ノートPCの画面と特待生を代わる代わる見つめて、荒木が目を丸くする。
「自腹切って無茶してんじゃないだろうな?」
「それができれば、学費と寮費を支払って特待生権限を返上してますよ」
「む。まあ筋は通るな」
 荒木は少し気まずそうに、自らの癖毛に指を立ててかき回す。
「プロジェクト管理ツールは無料で提供されているものです。公式サイト案は、宝石が丘のカラーに合わせてテンプレートを少しいじっただけですし、ご心配には及びません」
「こっちのコンテンツ候補と脚本候補と資料は」
「図書室にあった声優雑誌、学園の広報誌、過去の学生の活動日誌、その他諸々を参考に叩き台を作りました」
 資料の一枚一枚をめくり、マウスを動かし、しげしげ眺めたのちに特待生に向き直った。
「本当にやるつもりなのか、全校集会」
「……やりたいです」
「お前にすべてを背負わす気はない、と言ったはずだが」
 荒木は呆れまじりの声を出しているが、視線はむしろ気遣わしげで痛々しそうに特待生を見ている。なにしろ特待生だって自分自身の愚かさが笑えてくるくらいだ。数日前にほぼ脅迫で受けた使命を自らややこしいものにしようとしている。
「だって。先生にとって、ユニットメンバーだけが宝石が丘の生徒なんですか?」
 答えは否だと分かりきっている。そんなことは一週間の荒木を見ているだけでわかる。彼は声優を目指して日夜レッスンに励む生徒たち全員を、大切に見守っている。だからこそだ。
「学園の危機は、宝石が丘の全生徒にとっての問題です。私が彼らだったら、蚊帳の外に置かれて、きっととても悔しいです。やらせてください」


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