宝石の小枝

08

「お前が負けたら、何をくれるわけ?」
 寒気がするほど綺麗な笑みで椿は言った。特待生が勝ったら、グラン・ユーフォリアへの参加を承諾する。その条件を受け入れてもらえる以上、負けたときペナルティが課されるのは必然だ。
「……そうですね。何でしたらご満足いただけますか」
「べつに? なんでも持ってるからお前からもらわなきゃいけないものなんてない」
「はっ……?」
 言い出したのは椿なのに、それは筋が通らないのではないか。予期せぬ返答に戸惑ったが、たしか雅野家は旧華族のお家柄だと聞く。たいていの人間が生涯交わることのない天上人だと思えば違和感のない発言だ。
「そうだな、お前が賭けるのは、お前自身がいちばん失いたくないものにしようか。あるでしょ、何か。……って、ちょっと、なにその顔?」
 当初、不遜な空気を隠しもせず、むしろたっぷり誇示して喋っていた椿が慌て始めたのには理由がある。
「あーあ、ミヤくーん……デリバリーがないよね」
「デリカシーね」
 普段だったら微笑ましく感じる掛け合いにも無反応なほど、特待生の顔が凍りついたから。なんでも持っている椿と何もない自分。いちばん失いたくないものなど何もない、もう全部失くしてしまった。けれど条件を整えなければ勝負が始まらない。
「……失いたくないもの。声優になるという夢です、この宝石が丘で。負ければ私は宝石が丘学園を退学します」
「と、特待生どの! 何もそこまで……」
「いいんです、これで」
「言ったね。 ちゃんと覚えときなよ」
 Hot-Bloodの協力を得なければグラン・ユーフォリアは開催できない。開催されなければ宝石が丘学園自体がなくなる。特待生の生きる理由も。本当に、何もなくなる。霞は、もし負けても養成所を紹介すると言ってくれたが、厚意だけ受け取って丁重にお断りした。入学前に通っていた養成所を辞めてまで天音ひかりが目指した夢は、この学園で声優になることだから。新入生代表スピーチの原稿にそう書いたのだから。

「きょうも特待生ちゃんのお弁当、おとこまえだね~」
「ブロッコリーに、大量のササミ。 炭水化物抜きでござるか」
「一応、昨日と味付けは変えたんですよ」
 食事のお供、プロテインドリンクをシャカシャカ振りながら答える。
「あ、じゃあ何味か当ててあげるね。……もぐもぐ。これ、おいしいね!」
 光速で肉のかたまり数切れが消えた。何味かを当てる件など最初からなかったかのように、再び央太の手が弁当箱に伸びるが、目を瞑ることにした。給湯室でできる簡単クッキングとはいえ、手料理を褒められれば悪い気はしない。
「正解はネギと生姜の薬味ダレです。ササミは酒蒸しできたらもっと臭みが消えるんだけど、高校生にお酒は売ってもらえないんだよね。あーあ盲点だった」
「あはは。特待生ちゃん、いままでおさけ買ってたみたいないいかた~。もしかしてわるいこだった? なんてね、特待生ちゃんはいいこです」
 三毛猫が特待生の頭をなでなでしてくれる。昼下がりの屋上にはのどかな雰囲気が流れたかに見えたが、ふと鈴が表情を引き締めて、数ある声色の中から最も低いトーンを選んで口を開く。
「して、筋トレは順調でござるか」
「うーん……もちろん鳥羽先輩特製のメニューはこなしてます。食事もこんなです。でも、筋肉量って一朝一夕で増えるものじゃないですし、一週間後ではたかが知れてるんですよね」
「そうなると、ミヤどのの得意分野、柔軟が肝要となるでござるな」
「特待生ちゃん……」
「あ、柔軟は私も得意分野だよ! ミヤ先輩が相手でなければ、圧倒的に女子が有利ですしね。しかも先輩の記録を知っているから超えるべき目標も立てやすいです」
 ランニングの後に、授業の合間の休み時間に。
「うぐっ……あと、二センチ……っ」
 レッスン中にこっそり、霞特製の筋トレメニュー後に、入浴後に。柔軟をひたすら続ける。
「いったた……あと、五ミリ……」 
 
 決戦の日が訪れた。レフェリーを引き受けた蓮が概要を説明する。
「まずは柔軟、次に筋肉強化だ。柔軟の記録は、もちろん身長に対するパーセンテージで計算するぞ。タッパあるほうが有利だからな。まあそんな変わんねえけど」
「は? ふざけないでよ、誰がどう見ても俺のほうが高いでしょ」
 今日の喧嘩相手はそっちじゃないですよ、と特待生は椿を見やった。その目は椿に負けず劣らず燃えている。ウォームアップのため特待生が少し早めに決戦場であるレッスン室に向かう道すがら、マイクレッスンをしている椿を見つけたのだ。勝負前から人を舐めたような姿勢と、それを忘れて見入るほどの技術に特待生は昂ぶりを抑えられない。
「っし、柔軟いくぞ。計測項目は――」
 蓮は先ほどの軽口が嘘だったかのように、淡々と公正に二人の記録を取っていく。その結果は。
(うそ、だ……)
「特待生ちゃん、俺が教えたミヤの記録値は嘘じゃないよ」
「知っています。ミヤ先輩はきっと、そんなことをする人じゃない」
「……へえ、殊勝だね?」
 椿だって多少は記録を伸ばしてくる。だから伸びしろ込みで目標を立ててトレーニングしてきた。幼少時からクラシックバレエを仕込まれ、ストイックに鍛錬を続け、すでに限界値に近いはずの記録が特待生の予想を上回るなんて信じられない。不正をするなどとは考えづらい。とはいえ勝つべきところで勝てなかったこの誤算は、正直とても痛い。
「柔軟はミヤの勝ち、っと。おらさっさと筋肉強化行くぞ」
 まずは腹筋。声優としても重要なトレーニングであるため、最初の一〇〇回は両者軽々とこなしていく。蓮の口元が僅かに上がっているのに目もくれず(そんな余裕まではない)、一五〇を超えたあたりから明らかにリズムについていくのが苦しくなってくる。
「ミヤ、失格」
「はあっ!? ……はぁ……なんで、だよ……」
「いまリズムから遅れたの、わかってんだろ」
「……っ、フン。……わかってるよ、ハア、……次!」
「ちなみにな、今の記録をミヤのハンデ込みにして、柔軟の記録と合わせるとちょうど互角だ。熱い展開じゃねえか」
 荒くなった呼吸をなんとか立て直しつつ、蓮の言葉を耳にする。彼のレフェリーは公正だ。椿は僅かに遅れたのかもしれないが、この勝利はラッキーの範囲でしかない。特待生は依然、崖っぷちにいる。
「最後はみんな大好き、腕立てだ!」
 うわあ、とドン引きする央太の声が聞こえる。
「特待生ちゃん、頑張って」「諦めてはならぬ」
 表情だけ緩めてありがたい声援に応える。
(……最初から崖っぷちだし、当面その予定だし……)
 筋肉の増加量はたかが知れているが、糖質制限で体重が多少絞れている。腕にかかる負担が心なしか軽い。しかし相手もさるもの、一歩も退かずに互いの最高記録まで回数を重ねていく。腕が焼けるように熱い。重い。明らかに力が入らなくなってきた。だが特待生は覚えている。今の比ではない痛みに苛まれた日を。
(あの日、なくなった腕の感触……いまはある。それだけで十分……)
 痛み上等! と特待生の顔には不敵な笑みが浮かんできた。
(誇り高いミヤ先輩、負けるのが本当に嫌いみたいですけど。こっちは……命がかかってるんです)
 火事場の馬鹿力は科学的に証明されている。限られた条件下でだけ、身体のリミッターを外すことができる。身体の無事と引き換えにしてでも、目下の危険回避が優先されるとき。天音ひかりの夢は特待生の生きる理由で、ニアリーイコール、命そのものだ。脳内麻薬の仕業か、痛みが嘘のように消えていく。
「……くそっ!」
「勝負あり。この勝負、特待生の勝ちだ」
 景気良く千切れたであろう筋繊維が熱を持って、のたうち回りたくなる痛みが戻ってくる。フローリングの上で背中を丸めながら、勝利の喜びを噛み締めた。
 
「はあ――――」
 蓋を開けてみれば、特待生はものすごいハンデをもらっていた。椿は公演期間中。手際よくアイシング作業する霞の言葉でそれを知った。多少の無理をしてもこの後ゆっくり休める特待生と、穴の開けられない舞台を背負った椿。勝負をセッティングした時点で特待生の圧倒的有利が約束されていた。よっこらしょ、と上体を起こす。
「ミヤ先輩、次はハンデ無しでも負けません」
「なに言ってんの。さっさと演技で勝負できるようになんなよ」
 ツンとした表情でも声が笑っている。
「はい!」
 少しは認めてもらえたのかな。こんなすごい人と演技を競う。戦々恐々のはずなのに、なぜかその日を思って高揚した。戦うってワクワクする。それこそ熱き血潮、Hot-Bloodの力なのかもしれない。


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