宝石の小枝
14
普段は自室が一番くつろぐ帝であるが、その日に限っては校舎の屋上でまどろんでいた。同室のコスモもお気に入りの、植え込みの陰に隠れたベンチ。台本を顔にかぶせて休んでいるうちに、放課後それなりの時間が経過したようだ。大きく伸びをしながら起き上がると、塔屋から誰かが屋上に出てくる気配がした。
「わあ……逢魔が刻だ」
その声でやって来たのが誰かわかった。この学園唯一の女子生徒である特待生だ。先客の帝に気づかない様子で、ベンチとは逆方向の手すりに向かって歩いていく。帝は、あえて息を殺してその様子を見守った。入学式前に落としたスピーチ原稿を拾ってやったときは、今にも壊れてしまいそうな目をしていたのに。屈託なく笑ったかと思えば慈愛の笑みを浮かべたり、全校集会で雄弁をふるったり。同じクラスの百瀬にあからさまな警戒心を向け、蓮とは二人きりで出かけた様子があった。お節介で若干食い意地が張っていて浮き沈みが激しい、掴みどころがない女の子。いったいどれが本物の彼女なのだろう? 誰に向けるでもない一人きりの姿、ありのままの横顔を盗み見ていたいと思う真の理由に、まだ帝自身気がついていない。逢魔が刻だと彼女は口にした。たしかに不吉なほど美しい情景だ。空が、僅かに緑を含んだ鈍い金色に染まる。夕凪の中、対流せず淀んだぬるい空気。校舎内には居残り生徒だけしかおらず、下校のピークも過ぎて生徒の声も聞こえない。さながら魔法で時間が止まったふうにも錯覚する。屋上を広い舞台に見立てれば、特待生が一人芝居を披露しているようにも見えた。だとすれば舞台映えのする背中だ。声も表情もない中で、何かを抱えているような様子が伝わる。こくりと帝が息を飲む音だけが耳に響いた。
「そこに、いるの?」
欄干に手を添えながら、特待生は黄昏の空に語りかけた。そこから数秒おいて、唐突に嗚咽が聞こえる。欄干を掴んだ彼女はガッシャガッシャと壊さんばかりの勢いでそれらを揺らす。まるで牢獄に閉じ込められたかのように。
「なんで……どうしてっ……!」
出られない、逃げられない。届かない。演技だとしても鬼気迫りすぎて、常軌を逸している。彼女は何かを打ち消すように、時折首を強く振った。セメントの上に雫がポタポタと飛び散る。閉じ込められた女。
(……俺さえ生まれなければ、あなたはあの家から逃げられたんだろうか)
帝がとある女性に思いを巡らせると、ふいに風が吹き付けて屋上の夕凪をかき壊した。黄昏の色が消える。空が夜の色に変わり、白い月が輝きはじめる。
「……へぶっ」
可能な限り音は抑えたが、帝はくしゃみを完全には止められなかった。薄着で寝ていたせいか急激に寒さが身にしみた。特待生がこちらを振り返る。少しずつ足音が近づいてくる。
「……あの……誰か、いますか」
ドクドクと激しく脈打つ心臓を抑えながら、帝は植え込みに身を潜め続けた。あとから思い直せば、どうしてそこまでして隠れる必要があったのかわからないのだが。特待生は深追いすることを諦めたようで、塔屋のドアを開けて足早に階段を駆け下りていった。
翌日。帝は単位を取り逃した歴史の授業で、特待生と教室がかぶってしまった。彼女はクラスメイトらしき黄色ネクタイに囲まれ苦笑している。
「あれ? 特待生、怪我してる」
「うっわ、手の皮剥けてる。これ痛いぞ」
「自主練で役にはまり込みすぎました。あー、恥ずかしい……」
こっそり聞き耳を立てていた帝は、隣に座る同級生に声をかけられて慌てた。
「すまん! 鉄格子に嵌められたパンツについて考えていた」
微妙にごまかしがきいていないが、同級生は「またいつものか」と慣れた顔で帝の話を聞いてくれた。「両足の穴を鉄格子に嵌めた驚きの手順とは? ハサミを入れずにパンツを救出する方法はあるのか!?」「あー、うんうん。気になる、気になる」
パンツの話をしながらも帝の心はここにはない。彼女を思い出すとなぜか胸が痛い。ジクジクと不愉快なのに、ふとしたとき反芻するように思い出している。不可解なことに自ら痛みを求め味わおうとすらしている嫌いがある。
「変態じゃないか。……ハッ! 合ってるな!」
その痛みの正体を知るのはまだ先の話である。
「わあ……逢魔が刻だ」
その声でやって来たのが誰かわかった。この学園唯一の女子生徒である特待生だ。先客の帝に気づかない様子で、ベンチとは逆方向の手すりに向かって歩いていく。帝は、あえて息を殺してその様子を見守った。入学式前に落としたスピーチ原稿を拾ってやったときは、今にも壊れてしまいそうな目をしていたのに。屈託なく笑ったかと思えば慈愛の笑みを浮かべたり、全校集会で雄弁をふるったり。同じクラスの百瀬にあからさまな警戒心を向け、蓮とは二人きりで出かけた様子があった。お節介で若干食い意地が張っていて浮き沈みが激しい、掴みどころがない女の子。いったいどれが本物の彼女なのだろう? 誰に向けるでもない一人きりの姿、ありのままの横顔を盗み見ていたいと思う真の理由に、まだ帝自身気がついていない。逢魔が刻だと彼女は口にした。たしかに不吉なほど美しい情景だ。空が、僅かに緑を含んだ鈍い金色に染まる。夕凪の中、対流せず淀んだぬるい空気。校舎内には居残り生徒だけしかおらず、下校のピークも過ぎて生徒の声も聞こえない。さながら魔法で時間が止まったふうにも錯覚する。屋上を広い舞台に見立てれば、特待生が一人芝居を披露しているようにも見えた。だとすれば舞台映えのする背中だ。声も表情もない中で、何かを抱えているような様子が伝わる。こくりと帝が息を飲む音だけが耳に響いた。
「そこに、いるの?」
欄干に手を添えながら、特待生は黄昏の空に語りかけた。そこから数秒おいて、唐突に嗚咽が聞こえる。欄干を掴んだ彼女はガッシャガッシャと壊さんばかりの勢いでそれらを揺らす。まるで牢獄に閉じ込められたかのように。
「なんで……どうしてっ……!」
出られない、逃げられない。届かない。演技だとしても鬼気迫りすぎて、常軌を逸している。彼女は何かを打ち消すように、時折首を強く振った。セメントの上に雫がポタポタと飛び散る。閉じ込められた女。
(……俺さえ生まれなければ、あなたはあの家から逃げられたんだろうか)
帝がとある女性に思いを巡らせると、ふいに風が吹き付けて屋上の夕凪をかき壊した。黄昏の色が消える。空が夜の色に変わり、白い月が輝きはじめる。
「……へぶっ」
可能な限り音は抑えたが、帝はくしゃみを完全には止められなかった。薄着で寝ていたせいか急激に寒さが身にしみた。特待生がこちらを振り返る。少しずつ足音が近づいてくる。
「……あの……誰か、いますか」
ドクドクと激しく脈打つ心臓を抑えながら、帝は植え込みに身を潜め続けた。あとから思い直せば、どうしてそこまでして隠れる必要があったのかわからないのだが。特待生は深追いすることを諦めたようで、塔屋のドアを開けて足早に階段を駆け下りていった。
翌日。帝は単位を取り逃した歴史の授業で、特待生と教室がかぶってしまった。彼女はクラスメイトらしき黄色ネクタイに囲まれ苦笑している。
「あれ? 特待生、怪我してる」
「うっわ、手の皮剥けてる。これ痛いぞ」
「自主練で役にはまり込みすぎました。あー、恥ずかしい……」
こっそり聞き耳を立てていた帝は、隣に座る同級生に声をかけられて慌てた。
「すまん! 鉄格子に嵌められたパンツについて考えていた」
微妙にごまかしがきいていないが、同級生は「またいつものか」と慣れた顔で帝の話を聞いてくれた。「両足の穴を鉄格子に嵌めた驚きの手順とは? ハサミを入れずにパンツを救出する方法はあるのか!?」「あー、うんうん。気になる、気になる」
パンツの話をしながらも帝の心はここにはない。彼女を思い出すとなぜか胸が痛い。ジクジクと不愉快なのに、ふとしたとき反芻するように思い出している。不可解なことに自ら痛みを求め味わおうとすらしている嫌いがある。
「変態じゃないか。……ハッ! 合ってるな!」
その痛みの正体を知るのはまだ先の話である。
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