宝石の小枝

15

 空がきれいな五月某日の昼休み。梅雨に入る前の五月の日差しは真夏とさして変わりなく、肌がじりじり焼ける感覚もある。特待生は気分転換に学園の裏庭へと来ていた。晴れ渡った青の美しさを切り取ることができないか、カメラアプリを起動すると上空にスマートフォンのレンズを向ける。シャッターを切った瞬間、画面を何かが横切った。
「あ……!」
 画面の外を涼やかに横切っていく蝶。特待生の一番好きなアオスジアゲハだ。あっという間に木陰に消えていく蝶を見送ると、先ほどの写真を確認する。なんとも絶妙な瞬間にフレームインした美しい翅に、特待生は「わあ」と声を上げた。青色の帯には鱗粉がない。初夏の日差しを透かして輝く青と、深い闇のような黒。
「Re:Flyの色……」
 画面を覗き込んだまま立ち尽くす特待生の手元を、背後からひょっこりと覗く顔が現れた。
「わっ!?」
「なにを見てるの~? あ、アオスジアゲハ、きれいに撮れてるね~」
 ゆっくり、ゆっくり、一音ずつが優しく響く。この豊かな緑に囲まれて聞くに相応しい声だ。現れた男子生徒はワイシャツではなくモスグリーンの半袖パーカーを着て、ベルトループに赤のネクタイを結わえつけている。赤だから、高等部の二年生だ。
「えーっとお、見たことあるなー。誰だっけ?」
「天音ひかりです。こんにちは」
「ああー。そう、そう。特待生だ。俺はー橋倉(はしくら)(あん)だよ。よろしくね~」
 杏の頭には木の葉が何枚か付いている。似合っているのでそのままで良い気もしたが、一応本人に確認する。
「橋倉先輩、頭に葉っぱがついてます。かくれんぼでもしてたんですか?」
「んー? ううん、ちょっと惜しいなあ。正解は……」
「おはしせんぱーい、こっちこっち、たーのしーよー!」
 斜め頭上から聞き覚えのある声がする。
「央太くんだ!」
「あっ、特待生ちゃん! いまねえ、おはしせんぱいと木登りしてたんだ。特待生ちゃんもどう?」
 やりたい! と即答しかけて特待生は自分の格好に気がつく。さすがにスカートで木登りは難しい。涙を飲んで誘いを断り、二人の木登りを見物することにした。そんな特待生の気持ちに気づいたらしい杏はすぐに降りてきて、草むらで虫を探したりブランコに乗ったりするのに誘ってくれた。散々はしゃぎまわった三人は、今度は木陰で一休みする。杏と央太は草の上に寝転んで気持ちよさそうだ。特待生は大きな木の幹にもたれて座る。すぐ横でたんぽぽの花が揺れている。強い日差しを遮る木の葉がキラキラと輝いて夢心地。なんだか眠くなってきたな、と特待生は思う。それは他の二人も同じようで、うつら、うつら、目を閉じかけている。
 ――ねーむれー、ねーむれー、はーはーのーむーねーにー
 特待生はいつしかシューベルトの子守歌を口ずさんでいた。自分の歌声に驚く。ボイトレの成果か、声が安定して音階が全くぶれない。喉に負荷をかけなくても次々と伸びやかな音が出せた。我ながら悪くないと悦に入り首をゆらゆらさせて、特待生もまどろみに落ちかける。
「えっと、これ……どうなんだろ。起こすべきかな……。ふふ、でも気持ち良さそう」
 温かな声に特待生はゆっくり瞼を開けた。ぼんやり滲む視界に映るのは、カメラを首に提げた男子生徒。眼差しは柔らかい。
「ん……?」
「二年の輝崎蛍だよ。特待生さん、だよね」
「Prid'sの!」
 夢うつつの状態から一気に覚醒した。彼こそが声をかけそびれていたPrid's最後の一人、輝崎蛍だ。しかし特待生の発したPrid'sという単語に蛍は何か思い出したようだった。
「あ、いけない。撮影に夢中で……櫻井先輩に呼ばれてたんだっけ。特待生さん、今度またゆっくり話せたら嬉しい」
 気の利いた言葉も選べぬまま、足早に駆けていく蛍の背中を見送った。あの人の空気感を何に例えたらいいだろう。そうだ、道端で遊ぶ鳥たちを見つけて、驚かさないようにそっと鳥から距離を置いて歩くような。そんな、優しさと少しの臆病を感じる。不思議に惹きつけられる声。早く力をつけて、Prid'sにもう一度出演交渉したい。そして今の特待生が向かう先は――
 
「ファー! 特待生さんからお声がけいただけるとは、光栄ですぞ!」
 そう言われて、できればエメ☆カレの一員としてでなく、クラスメイトとして早く声をかければ良かったと少し苦い気持ちになる。(かんむり)嵐真(らんま)は特待生と同じ一-Cに所属する男子生徒だ。
「デュフフ。特待生さん、実はフリック入力よりキーボードが大好きなタイプとお見受けしましたぞ?」
「あ、わかりますか?」
「わかります、わかりますぞ! ノートPCを校内に持参している生徒、自分の他に特待生さんしか見かけませんでしたゆえ」
 生息地はだいぶ違うだろうが、蓮や嵐真のようにネットに馴染む人間には特待生もシンパシーを感じてしまう。自らの興味範囲外にも耳を傾けてくれる嵐真のおかげもあって、初対面ながらみるみる会話が盛り上がる。
「その被り物、ハムチュウですよね? うちの甥っ子も大好きなんです」
「おや特待生さん。以前に教室で一人っ子だと話されていた気が微レ存……」
「ゲフッ! ……あ、あー、父の甥っ子です! 私のいとこ、マイカズンです!」
 このところ特徴のある喋り方ばかり耳にしていたせいか、口調が迷子になってしまった。いま一度みずからのアイデンティティを確認すべく特待生がうんうん唸っていると、ふいに嵐真の脇をつんつんと小突く者が現れた。
「これは小野屋(おのや)氏! 高等部まで何の御用ですかな?」
 真っ白な学ランでズボンはハーフ丈。袖口には高等部制服と同じ金の刺繍。初めて見る宝石が丘学園中等部の生徒だ。少年は小柄で、長い髪をポニーテールに結い上げている。あどけなさと凛々しさが同居した顔立ち。彼は重厚な作りのノートにペンで何かを書きつけている。
「《はじめまして、特待生。小野屋あずきだ》」
「……あっ。天音ひかりです。よろしくお願いします」
 互いにペコリと頭を下げると、あずきは今度は嵐真に向かって何かを書く。
「《週末のライブの詳細を確認しにきた》」
「おお、そうでしたな!」
 特待生は二人のやり取りをしげしげと観察した。話には聞いている。エメ☆カレの一人、小野屋あずきは人前で声を出さず筆談で会話するのだと。どういうことなのかわからない。だってここは声優養成校なのに、声を使わないなんて。しかし本当に、聞いていた話の通りであることだけは判明した。
「そうそう特待生さん。佐和さんから聞いておりますぞ。自分たちのことを知りたい、とか。それなら特待生さんもご一緒にいかがですかな」
「ライブ……ですか?」
「《超のつく人気声優のライブ。チケットとるのかなり大変。心して行くぞ》」
「えっ……そんな、プラチナチケットじゃないですか! ご一緒してもいいんですか?」
「お気遣いなく! 特待生さんが優れたコンテンツに正しく感応するのか、見させていただきたいのです」
 人気声優のライブ。プラチナチケット。グラン・ユーフォリアの参考にしたい、願ってもない誘い。「行きます! ぜひ行きたいです!」思わず出した大きな声にクラス中の注目を浴びて、特待生は赤面した。
 
 荒木がこだわる〝生のステージだけが持つ臨場感や熱量〟に、特待生はこれまで少し懐疑的なところがあった(荒木信者なのに)。歌手の本質が音源かライブかみたいなもので、どちらが優れているとかではないし、グラン・ユーフォリアに限らずとも声優の魅力を伝えるコンテンツがあれば学園の力を示せるのではないかと思ったからだ。
「――すごかったです! 圧倒的熱量! 引き込まれました!」
 敵情視察というほどではないけれど、祭典の総指揮者としてもう少し冷静な目線も持つべきだった。そんなふうに反省するくらい素晴らしいライブであった。
「楽しんでいただけて何よりですぞ (^o^) 」
 嵐真もそんな特待生に満足げな様子である。口々に感想を述べ合い、筆談を交える中で突然、声以外の愉快な音が紛れ込んだ。特待生はとっさにお腹を押さえた。どうしてこういうとき「はいはい! 自分のお腹の音です!」と白状するような動きをしてしまうのだろう。
「(・∀・)ニヤニヤ」
「《嵐の字、おなごをからかうでない。特待生、これを食べれば?》」
 嵐真をたしなめながら、あずきが手にした巾着袋から饅頭を差し出した。これは、ここで立ち食いしてよいものだろうか。しかし、再びお腹の音を聞かれる恥ずかしさは特待生にとって耐え難い。思い切って一口食いつく。
「んっ? これ……小野屋庵のおまんじゅうじゃないですか? うわー、デパ地下でよく自分へのご褒美に買いました!」
「おお! おぬし、わかっておるではないか!」
 滑らかな舌触り、小豆の風味を活かし甘すぎない絶妙つぶあん。それを引き立てるつやつや上品な薄皮。食いしん坊特待生がこの味を間違えるはずがない。それはさておき、である。あずきが喋った。声は少年のものだが、筆談時とは異なり時代劇のように古めかしい物腰だった。もごもごとおまんじゅうを食べながらで突っ込むタイミングを逃してしまったが、あずきと嵐真は素知らぬ顔でいる。とりあえず怪我や病気で声が出せないのでなければ安心だが、それならなぜ声を出さないのか。いっそう複雑な事情を感じ取り、なんとも言えない気分になる。饅頭は結局そのまま丸一個、最後まで食べきってしまった。照れ隠しにこほんと咳払いをする。
「……それにしても素晴らしいステージでした。グラン・ユーフォリアも、今日のライブに負けないくらい盛り上げていきたいです」
 両拳を握りしめ「ふん!」と鼻息を荒くする特待生を見て、嵐真とあずきは互いの顔を見合わせた。どこか胸を締め付けられるような、含みのある笑顔だ。
「……ほんの少し前まで、観客二人だけのステージに立っていた自分たちが、伝説の祭典に参加する。夢がありますな」
「えっ」
「《ここまで来たなら、楽しみ尽くしたい》」
「嵐真くん、小野屋くん……」
 ライブの熱量は共有できたのに、いまは目には見えないキラキラの絆が二人だけを包み込んでいるようで、特待生は妬ましさにも似た羨望を覚えた。

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