宝石の小枝
17
薄曇りの少し肌寒い朝だった。毎朝の日課にしているランニング中、朝もやの中で特待生は前方に見知った人影があるのに気がついた。ほんの少しスピードアップして彼へと追いつく。
「おはようございます、雛瀬先輩。今日は輝崎先輩はご一緒ではないんですね」
「……ああ、特待生さん。おはよう」
元から低いその声が、今朝はいつにもましてアンニュイな響きを帯びている。
「今日は少し一人で走りたくて。特待生さんも先にどうぞ」
そう言われて特待生は返答に困った。いまの碧鳥は、どこをどう見ても何かあったようにしか見えない。しかし彼自身が触れてほしくないからこそ、先に行くよう促されたのも事実。干渉することだけが優しさではない。寮までの距離も残り少ないから、さらにスピードを上げてラストスパートをかけることも可能だ。それでも特待生が優柔不断なまま戸惑っていると、鼻の頭にぽつんと雫が落ちた。
「あ、降ってきちゃいましたね」
霧雨ではあるが、五月終わりの雨は少し冷たい。特待生は碧鳥へ木陰への雨宿りを提案した。碧鳥が半ば無気力に「そうだね……そうしようか」と答える。寮へと帰る急勾配、土手に沿って茂る大きな樹木の陰に立って、二人は灰色の空を見上げた。
「雛瀬先輩。何か……ありましたよね? よろしければ聞かせていただけませんか」
特待生は思い切って口火を切った。しばらく二人きりで過ごすことになった以上、目をそらすのも不自然と思ったからだ。何かあったのだろうと断言されたことを、碧鳥も特に驚いてはいない様子である。ごめんね、バレバレだよねと謝りながら、スマートフォンを取り出した。
「俺の顔と声、ちぐはぐなの、わかる? ……ううん、気を遣ってくれなくていいよ。自分でもわかってるから」
特待生が何か言おうとしている間に、碧鳥はスマートフォンでTwiineの画面を表示する。確認のために彼の顔を窺うと、こくりと頷かれたので一緒に覗き込んだ。
『雛瀬、生理的に受けつけない。声と顔合ってなさすぎ』
『同感。顔はまあまあ好みなんだけどなー、声がダメ』
『自分逆だわ。声は好きだけど顔が残念』
「なっ……!」
「どうして俺の見ているところで、こんな話するんだろう」
画面を見た瞬間、頭にかあっと血が上った特待生だったが、碧鳥の落ち込んだ声を聞いて怒りを飲み込んだ。顔と声がちぐはぐ。人によって言葉の選び方は変わるだろうが、大意としては理解する。特待生自身も彼に初めて会ったときは、まさかそんな声が出てくるとは思わなかった。だが、慣れてしまえばどうということはないし、むしろ甘いマスクと憂いを帯びた低い声は彼ならではの魅力だとさえ感じる。SNSに書かれたことなど気にしなくてよい。だってこんなことを書くのは、もともと彼のファンでもなんでもないからだ。この人たちは自分の正体を明かさずに叩ける相手が欲しいだけ。いま思ったことをそのまま口に出して碧鳥に聞かせればいいのかもしれない。けれど生まれついてのことである以上、こうして悩むのが初めてとは思えないし、解決できるのなら彼自身かエメ☆カレのメンバーがとっくにやっているだろう。
「……雛瀬先輩。最近読んだ台本の話をしていいですか?」
「台本? ……うん、いいけど……」
脈絡なく特待生が切り出した話題に、さすがに碧鳥も驚いているようだった。とりあえず、急に話をそらされて彼が気を悪くしてはいないことだけ確認し、特待生は話を続けた。
「ある女性の話です。自分の容姿がコンプレックスだった人の話……」
その女性は、自分の容姿が嫌いだった。人より高い身長。スイミングで鍛えられた肩幅と胸筋のせいで目立つ胸。演歌歌手のジャケ写みたいな、きっちりした顔。少女漫画でも小説でもドラマでも、女の子は小さくて華奢で、かわいらしい子が愛されていた。憧れてふわふわのスカートを穿いても、たいていはスカート丈が足りずに足の面積が見えすぎて下品になった。お姫様のドレスみたいなパフスリーブは、余計に肩幅をたくましく見せた。ヒール靴を履いて男性と歩くと嫌がられる。そのくせ無駄にエロいと言われたり痴漢にも遭いやすかった。
立てば長身、座れば胴長、歩く姿はガンダゲリオン。周囲の女友達がどんなに羨ましいよと言ってくれても彼女は喜べなかった。
「うん……なんか、ちょっとだけわかる。みんな本気で褒めてくれてるんだよね。でも、嬉しくないんだ」
「へへ、私もちょっとわかります。……でも、そんな女性に転機が訪れるんです。魔法使いがあらわれて、あなたのなりたい姿に変えてあげると言われたんです。非現実的なお話ですよね」
苦笑しながら特待生は続けた。女性は歓喜して魔法使いに願いを伝えた。どうか、小さくて華奢で愛らしい女の子に変えてください。望み通りに願いは叶えられた。ずっと着たかった憧れの服。ふさふさの睫毛にキラキラ輝く大きな瞳。ちょんと控えめな鼻と口。ピンク色のリップが似合う、誰もが守りたくなるような、かわいいかわいい女の子の姿を彼女は手に入れた。
「でも……ある日、気がついたんです。大切な仕事のある日、いつもゲン担ぎも含めて着る一張羅のスーツがあって、彼女はそれを身につけて鏡の前に立ったんです」
これは誰だろうと彼女は思った。あなたは誰。鏡に映る青ざめた顔のあなたは、スーツに着られてぺしゃんこに潰れそうなあなたは、いったい誰なの。飾り気のないシャープなジャケットが、がっちりした肩や目立つ胸を隠すでもなく引き立てて格好良く見せてくれていたこと。長身だからこそ、パンツスーツとのバランスがいいこと。かわいいとは言えない顔が、どちらかと言うと勇ましい顔が、男性だらけの職場でも奔放に笑うことができて、ときには容赦なくぶつかったりもして、男も女も関係なく扱われたい自分に合っていたこと。幼少期から少年漫画ばかり読んでいたのは、かわいい少女漫画を読むのがつらくなったからだろうか。本当は最初から、お人形遊びより木登りやヒーローごっこが好きだったのではないか。背が高いのが嫌だとぼやきつつも、高いところの荷物を取ってあげたり、組体操で土台役になったりする自分を案外誇らしく思っていなかっただろうか。あれこれ難癖をつけても、自分の姿に親しみを覚えていたのだと、いまになって気がついた。
「でももう元の姿には戻れない。そんな、愚かな女性のお話でした。おしまい」
ハッピーエンドとは言えないラストを語ると、碧鳥は目を見開いたままじっと特待生を見ている。
「雛瀬先輩は、どうしたいですか。魔法使いがあらわれたら、何を願いますか? いえ、物騒な話すると、魔法がなくても整形や声帯の手術はできます」
「俺……俺は……わからない。だって、ずっと悩んできたから。そんな話を聞いても急には考えを変えられないよ」
「そうですよね。……あは、こっちもバレバレですね。説教臭いお話ですみません」
苦笑いを浮かべて視線を上方にそらせば、雲の合間から薄日が差してきたのが見える。
「あ、今がチャンスです。帰りましょう!」
「うん、そうだね。朝ごはんに遅れちゃう」
二人は坂道を再び登りだした。入学直後から毎朝走り続けた甲斐あってか、多少は碧鳥のペースについていけるようになった気がする。まあ、かなり手加減してもらっているのかもしれないが。
朝霧の粒が陽光を受けてキラキラ輝いている。碧鳥はふと隣を走る特待生の横顔を盗み見た。自分にペースを合わせようとしているのか、口を引き結んで真剣な顔で前方を見据えている。そう、みんなが碧鳥を好きだよと言ってくれた。それでも自分は好きになれないと言い続けてきた。しかし、もし魔法使いがあらわれたなら、自分はこの声を、顔を、失っていいと言えるだろうか。
(まだよくわからない、そんな簡単に答えは出ないけど……)
唐突な例え話で解決するほど碧鳥の傷は浅くない。それでも、碧鳥自身がどうしたいのかを問うてきた人間は初めてだった。もう一度ちらりと特待生に目をやって、すうっと大きく息を吸い込みアスファルトを踏みしめる。
(好きになりそうな気がする)
「おはようございます、雛瀬先輩。今日は輝崎先輩はご一緒ではないんですね」
「……ああ、特待生さん。おはよう」
元から低いその声が、今朝はいつにもましてアンニュイな響きを帯びている。
「今日は少し一人で走りたくて。特待生さんも先にどうぞ」
そう言われて特待生は返答に困った。いまの碧鳥は、どこをどう見ても何かあったようにしか見えない。しかし彼自身が触れてほしくないからこそ、先に行くよう促されたのも事実。干渉することだけが優しさではない。寮までの距離も残り少ないから、さらにスピードを上げてラストスパートをかけることも可能だ。それでも特待生が優柔不断なまま戸惑っていると、鼻の頭にぽつんと雫が落ちた。
「あ、降ってきちゃいましたね」
霧雨ではあるが、五月終わりの雨は少し冷たい。特待生は碧鳥へ木陰への雨宿りを提案した。碧鳥が半ば無気力に「そうだね……そうしようか」と答える。寮へと帰る急勾配、土手に沿って茂る大きな樹木の陰に立って、二人は灰色の空を見上げた。
「雛瀬先輩。何か……ありましたよね? よろしければ聞かせていただけませんか」
特待生は思い切って口火を切った。しばらく二人きりで過ごすことになった以上、目をそらすのも不自然と思ったからだ。何かあったのだろうと断言されたことを、碧鳥も特に驚いてはいない様子である。ごめんね、バレバレだよねと謝りながら、スマートフォンを取り出した。
「俺の顔と声、ちぐはぐなの、わかる? ……ううん、気を遣ってくれなくていいよ。自分でもわかってるから」
特待生が何か言おうとしている間に、碧鳥はスマートフォンでTwiineの画面を表示する。確認のために彼の顔を窺うと、こくりと頷かれたので一緒に覗き込んだ。
『雛瀬、生理的に受けつけない。声と顔合ってなさすぎ』
『同感。顔はまあまあ好みなんだけどなー、声がダメ』
『自分逆だわ。声は好きだけど顔が残念』
「なっ……!」
「どうして俺の見ているところで、こんな話するんだろう」
画面を見た瞬間、頭にかあっと血が上った特待生だったが、碧鳥の落ち込んだ声を聞いて怒りを飲み込んだ。顔と声がちぐはぐ。人によって言葉の選び方は変わるだろうが、大意としては理解する。特待生自身も彼に初めて会ったときは、まさかそんな声が出てくるとは思わなかった。だが、慣れてしまえばどうということはないし、むしろ甘いマスクと憂いを帯びた低い声は彼ならではの魅力だとさえ感じる。SNSに書かれたことなど気にしなくてよい。だってこんなことを書くのは、もともと彼のファンでもなんでもないからだ。この人たちは自分の正体を明かさずに叩ける相手が欲しいだけ。いま思ったことをそのまま口に出して碧鳥に聞かせればいいのかもしれない。けれど生まれついてのことである以上、こうして悩むのが初めてとは思えないし、解決できるのなら彼自身かエメ☆カレのメンバーがとっくにやっているだろう。
「……雛瀬先輩。最近読んだ台本の話をしていいですか?」
「台本? ……うん、いいけど……」
脈絡なく特待生が切り出した話題に、さすがに碧鳥も驚いているようだった。とりあえず、急に話をそらされて彼が気を悪くしてはいないことだけ確認し、特待生は話を続けた。
「ある女性の話です。自分の容姿がコンプレックスだった人の話……」
その女性は、自分の容姿が嫌いだった。人より高い身長。スイミングで鍛えられた肩幅と胸筋のせいで目立つ胸。演歌歌手のジャケ写みたいな、きっちりした顔。少女漫画でも小説でもドラマでも、女の子は小さくて華奢で、かわいらしい子が愛されていた。憧れてふわふわのスカートを穿いても、たいていはスカート丈が足りずに足の面積が見えすぎて下品になった。お姫様のドレスみたいなパフスリーブは、余計に肩幅をたくましく見せた。ヒール靴を履いて男性と歩くと嫌がられる。そのくせ無駄にエロいと言われたり痴漢にも遭いやすかった。
立てば長身、座れば胴長、歩く姿はガンダゲリオン。周囲の女友達がどんなに羨ましいよと言ってくれても彼女は喜べなかった。
「うん……なんか、ちょっとだけわかる。みんな本気で褒めてくれてるんだよね。でも、嬉しくないんだ」
「へへ、私もちょっとわかります。……でも、そんな女性に転機が訪れるんです。魔法使いがあらわれて、あなたのなりたい姿に変えてあげると言われたんです。非現実的なお話ですよね」
苦笑しながら特待生は続けた。女性は歓喜して魔法使いに願いを伝えた。どうか、小さくて華奢で愛らしい女の子に変えてください。望み通りに願いは叶えられた。ずっと着たかった憧れの服。ふさふさの睫毛にキラキラ輝く大きな瞳。ちょんと控えめな鼻と口。ピンク色のリップが似合う、誰もが守りたくなるような、かわいいかわいい女の子の姿を彼女は手に入れた。
「でも……ある日、気がついたんです。大切な仕事のある日、いつもゲン担ぎも含めて着る一張羅のスーツがあって、彼女はそれを身につけて鏡の前に立ったんです」
これは誰だろうと彼女は思った。あなたは誰。鏡に映る青ざめた顔のあなたは、スーツに着られてぺしゃんこに潰れそうなあなたは、いったい誰なの。飾り気のないシャープなジャケットが、がっちりした肩や目立つ胸を隠すでもなく引き立てて格好良く見せてくれていたこと。長身だからこそ、パンツスーツとのバランスがいいこと。かわいいとは言えない顔が、どちらかと言うと勇ましい顔が、男性だらけの職場でも奔放に笑うことができて、ときには容赦なくぶつかったりもして、男も女も関係なく扱われたい自分に合っていたこと。幼少期から少年漫画ばかり読んでいたのは、かわいい少女漫画を読むのがつらくなったからだろうか。本当は最初から、お人形遊びより木登りやヒーローごっこが好きだったのではないか。背が高いのが嫌だとぼやきつつも、高いところの荷物を取ってあげたり、組体操で土台役になったりする自分を案外誇らしく思っていなかっただろうか。あれこれ難癖をつけても、自分の姿に親しみを覚えていたのだと、いまになって気がついた。
「でももう元の姿には戻れない。そんな、愚かな女性のお話でした。おしまい」
ハッピーエンドとは言えないラストを語ると、碧鳥は目を見開いたままじっと特待生を見ている。
「雛瀬先輩は、どうしたいですか。魔法使いがあらわれたら、何を願いますか? いえ、物騒な話すると、魔法がなくても整形や声帯の手術はできます」
「俺……俺は……わからない。だって、ずっと悩んできたから。そんな話を聞いても急には考えを変えられないよ」
「そうですよね。……あは、こっちもバレバレですね。説教臭いお話ですみません」
苦笑いを浮かべて視線を上方にそらせば、雲の合間から薄日が差してきたのが見える。
「あ、今がチャンスです。帰りましょう!」
「うん、そうだね。朝ごはんに遅れちゃう」
二人は坂道を再び登りだした。入学直後から毎朝走り続けた甲斐あってか、多少は碧鳥のペースについていけるようになった気がする。まあ、かなり手加減してもらっているのかもしれないが。
朝霧の粒が陽光を受けてキラキラ輝いている。碧鳥はふと隣を走る特待生の横顔を盗み見た。自分にペースを合わせようとしているのか、口を引き結んで真剣な顔で前方を見据えている。そう、みんなが碧鳥を好きだよと言ってくれた。それでも自分は好きになれないと言い続けてきた。しかし、もし魔法使いがあらわれたなら、自分はこの声を、顔を、失っていいと言えるだろうか。
(まだよくわからない、そんな簡単に答えは出ないけど……)
唐突な例え話で解決するほど碧鳥の傷は浅くない。それでも、碧鳥自身がどうしたいのかを問うてきた人間は初めてだった。もう一度ちらりと特待生に目をやって、すうっと大きく息を吸い込みアスファルトを踏みしめる。
(好きになりそうな気がする)
あなたのいいねが励みになります