宝石の小枝

21

 特待生は自室のデスクに座り、かれこれ数十分そわそわしていた。彼女を急かすのは他でもない彼女自身である。
(……黒曜先輩にはああ言ったものの……)
 落ち着きなく足をバタバタさせながら机に突っ伏していると、耳元でスマートフォンが振動する。特待生は背筋をビクッと震わせた。
「ひえっ! あ、青柳先輩!? 着信だ……」
 液晶の表示を確認しながらスマートフォンを手に取る。
「はいっ、天音です」
「おはよ、特待生。実はバイト先で余ったケーキを大量に持ち帰ってきたんだが――」

 寮の給湯室でケトルを火にかけた。じきに帝がケーキを持ってここへやってくる。 
(青柳先輩が、私の部屋に……? うーん、心の準備が足りない!)
 先方から、しかも超倹約家の帝からもらうばかりではきまりが悪く、コーヒーの差し入れを申し出たところ快諾してもらえた。細長い口のケトルがしゅんしゅん音を立てる。優れた墨液が開発されても墨を硯で擦る工程が廃れないように、特待生にとってはコーヒーをハンドドリップすること自体が必要だ。十数年間続けているルーティーンはもはや彼女の一部になっている。粉にゆっくりと湯を注ぎ約二十秒、蒸らしたコーヒー豆の香りが立ち昇るのを感じていると、背後から荒木がひょっこり顔を出した。
「お、朝以外も飲むのか。珍しいな」
 特待生はコーヒー好きではあるが、喉にはあまり良くないのと、飲みすぎると胃が痛むので基本は一日一杯と決めている。帝がケーキを持ってくることを説明すると、それなら俺もと急遽、荒木部屋集合になった。正直、残念よりホッとした気持ちのほうが大きい。
「おはよ、特待生。朝から悪いな」
 帝がローテーブルに置いてある紙箱を開ける。「特待生の好きなケーキはあるか?」「わああ!」ずらりと並んだ色とりどりのケーキに特待生の目が輝いた。
「俺も先生もこだわりはないから、最初に特待生が選んでいいぞ」
「ほんとですか? じゃあお言葉に甘えて……えっと……。タルトかなあ。フルーツいっぱいで美味しそう。でもミルフィーユもいいなあ。ザッハトルテもつやつや~。ベイクドチーズにいちごショートも定番で捨てがたい……」
 視線を感じた特待生は、はっとして箱を覗き込んでいた顔を上げた。目の前で帝と荒木が保護者的なニヤニヤを浮かべてこちらを見ている。
「何だったら俺のぶんは特待生にやってもいいぞ。いくつでも食べるといい」
 こちらの食い意地を完全に見透かされている。ひどく恥ずかしくなった特待生は「これにします!」とフルーツタルトを指差した。帝と荒木も一つずつ皿に取り分けて全員で手を合わせ、いただきますをする。
「んん~っ! これ、カスタードに果汁が混ぜてあるのかな。すごい。おいしい~。濃厚なのに後味さわやか!」
「うんうん、期待以上の反応だな」
 帝が満足げに微笑む。宝石が丘の学生寮には、大量のケーキなどものともしないブラックホール人間が数名いるが、やはり最初に特待生に食べさせて正解だった。好き嫌いなくなんでも美味しく食べる。かと言っていわゆるバカ舌でもなく、繊細な風味の妙を感じ取ることができる素養もある。食材と作り手に敬意を払い、何より食べるとき幸せでたまらない様子の特待生を、帝は好ましく思っている。
「しかし先生は野暮なことをするな。女子の部屋にお邪魔するチャンスだったというのに」
「お前みたいのがいるから俺が関所やってんだよ」
 じゃれ合う二人はまるで歳の離れた兄弟のようだ。ケーキを咀嚼しながら特待生はその様子を眺める。荒木が帝の脇を小突きながらひそひそ声で話しかけた。
「つーか、俺が現れて内心ホッとしてんだろ、お前は意外と距離感に敏感だからな」
 意地の悪い笑みで帝をからかう。一方の特待生は
(このまえ央太くんが窓から侵入したことは黙っていよう。関所は無意味だったのです……)
 と内心で冷や汗を流していた。
 帝がコーヒーを啜りながら「うん、うまい」と独りごちる。とりあえず舌の肥えた帝にも飲んでもらえる味に仕上がったようで、特待生は安堵した。ケーキを食べるのに合わせて抽出時間をいつもより少し長めにとり、重めの味わいにしたのだ。
「しかし初耳だぞ。特待生が毎朝コーヒーを入れて部屋まで起こしにきてくれるとか、完全に新婚さんじゃないか、けしからん」
「いやいやいや。そういうんじゃないですけど、普段お世話になりっぱなしなのでせめてもの恩返しというか」
「全くだ。教師生命を絶つような発言をさらっと言ってんじゃねーよ……お前こそ特待生相手に料理教室やってんだってな」
 新学期の事務処理のごたごたで早出する荒木が、給湯室でコーヒーを入れる特待生に「お、それ一口くれよ」と声をかけてくれたのが、毎朝のミーティングのきっかけだった。入学早々に彼のNGワードらしきものを踏んで、後悔の念に押し潰されそうになっていた特待生に、その言葉がどれほど優しく響いたか。
『それを話すべき人がいるんだね』
 黒曜護の声が反芻される。心臓が早鐘を打って息苦しさを覚える。
「どうした特待生、気分でも悪いのか」
「そういや合格発表のすぐあとに事故に巻き込まれたんだっけな」
「これまた初耳だ」
 コーヒーを飲み込むとき、特待生の喉は必要以上にごくんと鳴った。
(言わなきゃ。いま以上の機会なんてない……)
 荒ぶる鼓動を押さえつけるように、胸の上に当てた手で服をわしづかみにする。
「外傷はほとんどなかったので、大丈夫です」
 揺らぎそうな喉を制して、可能な限り落ち着いた声を出した。
「後遺症による記憶の欠損があると、入学前に学園にお伝えしていますが」
「この場で言っていいんだな? ああ聞いてるよ。養成所に半年通ったにしてはボイトレの基礎も知らないしな。うすうす、そういうことだろうと、な」
「事故までの記憶は、一部欠損どころか皆無なんです。なぜなら――私は天音ひかりではない、全くの別人だから」
 帝と荒木がフォークを持ったまま固まる。前にどこかで見た光景だなと眺めつつ、特待生は小さく息を吐いて続けた。
「バスの横転事故に巻き込まれたとき、たまたま乗り合わせた女の子を庇って私は死んだらしいのですが。目が覚めたとき、その女の子……ひかりちゃんの身体の中にいたんです」
「おいおい。じゃあお前は何者なんだ。霊能力者の類いか」
「いえ。ごくごく平凡で、声優としての技術も知識もない、二度目の成人間近の……主婦、ですかね」
 帝も荒木も、示し合わせたかのようにふーっと息をついて、フォークを皿に置く。若干の間を置き、面白くなってきたという顔で口を開いたのは帝だ。
「ほうほう。主婦ということは家庭があったりするわけだな?」
「あ、はい。夫と、子どもが二人……」
「うら若き乙女の肉体に成熟した人妻の心が宿る……なかなかマニアックな設定だな!」
「お前はまたそういう……」
 インプロヴィゼーション。略してインプロと呼ばれるのが一般的だ。日本語で即興を意味し、声優のあいだでは特に即興演技のことを指す。宝石が丘学園内では、授業以外でも突発的にインプロが発声することも珍しくない。特待生の奇想天外な告白を受けて、この場には熟練者二人が特待生の即興を試すような意地悪さが生まれていた。
「しかし、不幸中の幸いというか、身体は違えど生き返ることができたわけだな。そこからどんな展開になる?」
「本人しか知り得ない情報を親しい人に話して、驚かれながらも受け入れられる涙のハッピーエンドが定番ってとこか」
「……それはできなかったんです。私は生まれなかったことになっていたから」
「ほお?」
「実家では妹だけが一人っ子として生まれたようでした。通った学校も勤めた会社も存在しましたが、そこにも私がいた形跡はないんです。いわゆるパラレルワールドなのか、整合性をとるために因果が歪んだのか……これでも色々調べて考えたんですが」
 端から見れば完全に中二病の発言だなと自嘲しながら、特待生は続けた。疑わしいのは承知している。帝と荒木の反応は至極当然のものだ。特待生ですら、持論を証明する材料は自分自身の記憶しかない。プログラミングの知識があるのはその職に就いていたから、学科試験で点が取れるのもとうの昔に履修済みだから。あれこれ考えてはみるものの決定打に欠ける。もどかしい。もはや自分でも何が言いたいのか全くわからない。特待生は落胆していた。何に対してか、はっきりとはわからないが。
「えっと……ん……ええと、そう、そもそも何が言いたいかというと。まず荒木先生にお詫びします。特待生として、学園の救世主として期待された天才は、少なくとも今ここには存在しないんです……もっと早くにお伝えすべきでした」
 正座したまま、特待生は深々と頭を下げた。
「特待生待遇は打ち切ってくださって結構です。でも許されるなら〝使命〟は、グラン・ユーフォリアの総指揮は続けさせていただけないでしょうか。最後までやり遂げたいんです。お願いします!」
 頭を下げたまま断罪を待っていると、荒木が気の抜けた声を出す。
「構わねーよ。待遇を打ち切る理由も今のところ見当たらない」
「……! ありがとうございます!」
 礼を述べるタイミングで顔を上げた特待生だったが、二人と視線が合った途端、どうしようもなく気まずくなってしまった。軽く頬を掻く仕草をして、握りしめた髪の束をぐいぐいと力任せに引っ張る。
「いきなり自分語りしてすみません。先生と先輩を一方的に信頼して、聞いてほしいって思っただけで。懺悔の押し売りっていうか。引かれても気味悪がられても、話せてよかったです……はは……なんだろ、何が言いたいのかな」
 これ以上この場にいては駄目だと思った。話を続けながらトレイの上にコーヒーサーバーなど自分のものだけを手早く載せて立ち上がる。「ごちそうさまでした。すみません、部屋に戻りますね」言うが早いか、彼らに背を向けてドアのほうへ歩きだす。その様子を見かねた帝が慌てて声をかけた。
「あ、おい! その……それなら君の本当の名前を教えてくれ。天音ひかりではないと言うなら、君はいったい誰なんだ?」
 一刻も早く立ち去ろうとする特待生の足がぴたりと止まる。数秒の沈黙ののち、背を向けたまま口を開いた。
「……こだま、はどうでしょうか。そうですね、〝山音こだま〟にしましょう。ひかりより旧式で、音にちなんでいて……。うん、即興にしては悪くないですね」
 背を向けたままだが、声は少しだけ笑っている。「そうではなくて、君がこうなる前の……」言いかけた帝だったが、振り向いた特待生の笑顔に喉がぎゅっと締まった。
「それは、もう必要とされない名前です。……ごちそうさまでした」

 荒木が去年の夏に養成所で見かけた少女。光る才能とは裏腹に、天真爛漫なごく普通の女子高生(正確には中退済み)だった。宝石が丘学園の入試のときもそれは変わらず、学園長が彼女の合格を決めたときはむしろ安心した。明るく溌剌として、広い年代の男女入り混じる養成校でも分け隔てなく敬意を払い、生徒や講師と会話を交わす様子を覚えていたから、ほぼ男子校状態の学園でもうまくやっていけるように思えた。まさか彼女を特待生として迎え入れることになるとまでは予想していなかったが。
「俺が過去に二度会った天音ひかりとあいつは……たしかに別人だ」
 特待生が立ち去った部屋で、彼女の入れたコーヒーを口に含みながら荒木は帝にそう告げた。才能はあるが方向性が違う。天音ひかりは、素直で擦れたところがなく、悪く言えば御しやすい。ある意味で〝普通〟の女の子だが、常人が考えもしない天性の捉え方を持っていて、新鮮で、忘れがたい。事実、入学試験で再会するまで荒木の記憶に残っていた。
 特待生は、仮に山音こだまと名乗った彼女は、扱いに困る。何をやりだすか荒木にも全く読めない。入学式でうまいこと手懐けたはずが「集団訴訟してやろうか」と自室で怒鳴りはじめたときは、本当は荒木のほうこそ冷や汗が止まらなかった。話が違うじゃないか。災厄を詰め込んだパンドラの箱を開けてしまったとさえ思う。
「あいつ、めんどくさいからな。ユニットメンバーの協力を取り付けるだけでいいっつったのに、余計なことまで手を出す。やたら卑屈でひねくれてるわ、いつもネチネチ考え込んで溜め込んで隠してるわ。それを俺らよりずっと長いこと続けたらどうなるかわかるか? 演技の引き出しは役者の中にある」
 基礎的な技術を習得したあとに役者が伸び悩む壁。その先にあるものを彼女は最初から持っている。今の特待生は無垢とは程遠い。垢にまみれ、その一つ一つの意味を問い続けてきた。
 
「……ははーん、特待生とグルになって俺を騙すつもりだな」
 青柳帝はリアリストだ。幽霊を信じる役どころは演じても、これは別の話。何か言いたげな荒木を笑い飛ばして自室に戻ったが、ふと屋上で見かけた小さな背中を思い出した。逢魔が刻は此岸と彼岸の交わるところだ。彼女が「そこにいるの」と声をかけた相手はいったい誰だったのか。スマートフォンを手に取り、発信履歴の一番上にある名前を選択した。なぜか手汗が滲んでくる中、呼び出し音が三回。
「……はい」
「ああ、すまん。あれからちょっと考えたんだが」
 沈んだ声に内心たじろぎながら、帝は思いついたことを話しはじめる。
「多重人格、とは考えられないか? つまり君は、事故で庇ってくれた人が死んだショックを受けて、その人が幽霊となって憑り付いたと思い込んでしまっている。そう考えるのが一番筋が通って合理的だと――」
「……そうですね。すみません、今ちょっと取り込み中で」
 唐突に通話が終了した。止まったままの通話時間を眺めながら、帝はスマートフォンを握りしめた。自分はただ、彼女を励ましたかった。屋上で泣いていた背中を知っているからこそ、彼女の救いになると思って持論を展開したのだ。すべて気のせいだ、落ち込むことはないと。また泣かせるつもりなど、なかったのに。

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