宝石の小枝
22
覇者のクラリティ ~ほたるとひかり~
梅雨入りの発表をニュースで聞いた。寮の部屋から窓の外を眺めていた特待生が雨の降りしきる中庭に出れば、花壇を彩る花々も今日はいくらか沈んで見える。そんな中、紫陽花はしっとりと濡れながらも美しさを増しているように感じた。雨音に混ざって、すすり泣きが聞こえる。特待生は驚いて声のする方向に振り向いた。軒先に、中等部の制服を着た少年が立っている。あずきではない。次から次へと溢れる涙を手で拭っていて、特待生は次の瞬間には「どうしたの」とハンカチを差し出していた。小さい子にするように、少し屈んで下から顔を覗き見る。
「ひぐっ……雨が……。きれいで、すこし寂しい感じとか、そういうの見てたら涙が……」
そっか、と微笑んで特待生は彼の隣に並んだ。彼の目に映る情景を共有するように、隣で雨の中庭を眺める。さあさあと降る音も少しひんやりした空気も、心の淀みを洗い流してくれるようで、それで自分は中庭に出てきたのだと自覚する。
先日の荒木部屋での一件。衝撃の種明かしではあったが、あの日以降、帝や荒木と特待生の関係性にほとんど変化はなかった。特待生は彼らより大幅に年上であることを明かしても先輩風を吹かせるようなことはないし、帝や荒木にとって彼女の身体と中身の組み合わせは以前と同じままだ。三人それぞれの関係性が特に変わることはなかった、少なくとも外見上は。
あの日流した涙の意味を問うことから逃げた。大人になるにつれ、そうやって逃げるのが得意になる。少年の強く潔い涙に肩身の狭い思いがする。意識を、隣で泣いている少年に戻す。手元には傘が握られている。いつでも寮に帰れるのにあえてここにいるというのだから、彼の言うことは本当なのだろう。
「たしかに。悲しいとき以外も泣くんだってこと、忘れてました。とても素敵なことですよね。ありがとうございます」
美しい心を持った少年に感謝して、特待生は頭を下げた。敬意を忘れてはいけないと言葉遣いを改めた。彼はびっくりしながら、ぐしぐしと拳で目元をこする。ちゃんとハンカチを使わないと、そばかすの浮く白い肌が痛々しそうだ。
「その制服……中等部、ですよね。どうしてここに?」
宝石が丘学園の高等部は全寮制だが、地方出身の七緒の例などを除けば、中等部生は基本的に学園外から通学してくる。エメ☆カレのメンバーであるあずき以外にも寮で生活している中学生がいることを特待生は知らなかった。
「あっ……僕は、高等部に兄がいるので、それで特別に寮に置いてもらっているんです」
「そうなんですね」
兄弟で名門校に入学するとは大したものだ。いったい誰の弟だろう。
「お名前を伺ってもいいですか?」
「僕は……」「
ぱしゃぱしゃと足音を立てて誰かがこちらに近づく気配がした。
「祭利! こんなところにいたのか」
やってきたのは夜来立夏だった。隣に特待生がいることに気づいたようで「特待生もか。ふたりとも一体どうした」と駆け寄ってくる。
「あ……そうか。あなたが特待生さんですね。僕は
「こちらこそ、申し遅れてすみません。天音ひかりです」
雨知祭利と名乗る少年の丁寧なあいさつに、特待生も頭を下げる。
「兄貴、心配しないで。特待生さんと雨を見てたんだ」
立夏の大きな傘に迎え入れられながら、祭利がそう言った。
「安心したよ。しかしずっとこんなところにいると風邪を引くぞ。特待生も寮に戻ろう」
「私は……もう少しだけここにいます」
「そうか? 体調管理だけはしっかりしておけよ」
「はい」
笑顔で感謝の意を伝えて、二人を見送った。夜来立夏、雨知祭利。兄弟であるはずの二人の名字が違うことに、立夏も特待生も触れない。大人は汚いなと思う。この雨に打たれれば、傍らに咲く紫陽花のように清い心を保てるだろうか。けれど大人である特待生は、そうすることを選ばなかった。
輝崎蛍に会いに行く。移動教室で廊下を歩く途中、七緒にそのことを伝えると「じゃあ俺もついてくよ」と言ってくれた。「せっかくだから、放課後に寮の部屋でゆっくり話そうぜ? 蛍先輩にもそう伝えとくからさ」
木陰でまどろみながら彼と初めて邂逅した日のことを思い出す。優しい光をたたえた瞳。Prid'sらしからぬ気配、と言ったら失礼になるだろうか。眩い光を放つメンバーたちの中で彼だけが異質に思える。蛍という名が示すとおり、彼は闇夜に浮かぶ淡い光をイメージさせる。七緒と一緒に学生寮L棟にある彼の部屋を訪ねると、蛍は一人でテレビを見ていた。ルームメイトである櫻井百瀬がいないことに特待生は一安心する。蛍は九十年代のアニメを見ていて、リアルタイムでそれを視聴していた特待生は、懐かしさのあまり興奮気味にその作品について語ってしまった。触発されるように、蛍も七緒も好きな作品について熱弁しはじめ、おおいに盛り上がった。蛍は作品のワンシーンを無音で再生し、そこに即興で声を当てていくという練習をやっていたのだという。想像力と演技力、その瞬発力を磨くことができると聞き、たしかに理にかなっているし面白そうな練習だと思った。
「それなら一緒にやってみない?」
蛍と特待生が声を当て、どちらがより優れているか七緒が判定するという流れになった。勝負の相手がPrid'sの一員なのに、不思議と怖くなかった。
「タハハ! アホ毛に人格があるとか! 見える見える。てか俺、次からそういうふうにしか見れないかも」
「本来はシリアスな場面なぶん、笑えてきちゃうよね。俺、全然集中できなかった」
想像力にはそれなりの自負がある特待生である(その全てを晒すことは自重している)。思いつくままに展開したマイワールドを、蛍も七緒も気に入ってくれたようでホッとした。ひとしきり笑って、ふいに誰もしゃべらない間が生まれた。蛍が独り言のような呟きを漏らす。
「知ってる? 俺のこと、キュービックジルコニアって呼ぶ人がいるんだって」
七緒と特待生は驚いて蛍を見た。言いたいことはすぐにわかった。蛍は、ダイヤモンドに例えられる輝崎千紘の双子の兄。だから彼を揶揄してそのように呼ぶものがいるのだろう。組成で言えば、キュービックジルコニアは最もダイヤモンドに近い。どんな希少な天然ダイヤを見つけてきても、異物の混入を限りなくゼロに近づけることしかできない。皮肉なことだ。キュービックジルコニアはその出自ゆえに、ダイヤモンドよりダイヤモンドであるがゆえに、決してダイヤモンドにはなれない。
「私にも、絶対に届かない、ずっと追い続けている人がいます。なんとなく、わかります」
最初は蛍の言葉を否定しようと思った特待生だったが、口から出たのは共感だった。蛍が千紘を意識するように、特待生も天音ひかりの威光に苦しんでいる。妬みと憧れ、合わせ鏡の正負の感情。
入学式で無茶振りをしてきた荒木に反発したものの、特待生はあとになって気がついた。天音ひかりはそれらの無茶を任せうるだけの人物だったのだろう。入学前、天音家の周辺を歩いているだけで、たくさんの人たちに声をかけられた。事故に遭ったこと、うまく思い出せないことを謝ったが、誰ひとり嫌な顔をしなかった。それだけで彼女の人脈の広さ、人徳の高さが容易にうかがえる。絶体絶命に追い込まれた学園の命運を、たった一人で、しかも十七歳という若さで託されるような存在。家族や友人の愛情に恵まれ、過去二十年間女子生徒を受け入れなかった学園が見出すような才能がある。それでいて、天賦の才に甘んじることなく、ひたむきに努力を惜しまず困難へと立ち向かい、キラキラと輝く。さながら女神か救世主だ。
「……特待生さんは、どうしてグラン・ユーフォリアを成功させたいの?」
黙りこくった特待生は、蛍から問いかけられる。
「それは……」
はじめは、仕方なくだった。荒木が特待制度を盾に押し付けたお役目だ。宝石が丘学園が廃校になってしまえば、特待生が生きる目的を叶えられなくなる。けれどいま改めて自らに問い直せば、もはやそれは古びた記憶でしかない。輝く光の背中を追い続ける限り、そこは必然的に影なのだ。だがグラン・ユーフォリアを成功させることができれば、特待生は影から外れて自分の色を見つけることができるような気がする。
「やってみれば、何かが変わる気がして……」
曖昧だけれど、そうとしか答えようがない。ふと、ずっと険しい表情をしていた蛍が笑った。
「そうだね。俺もやってみたいな」
そこからは、あっという間だった。蛍が千紘に「グラン・ユーフォリアに参加したい」と伝えると、あっけなく同意を得ることができた。千紘が参加の意を表明すると、葵と百瀬も次々に応じた。ユニットの意思をうかがっていた一年生の七緒も参加を約束してくれた。
まるでチェスのようだ、と特待生は思う。最強の駒であるクイーン――蛍を落とすことで、キングである千紘を得たも同然。盤面全体での勝利を収めることができる。といっても、特待生はボードゲームがからっきしなので、人づてに聞いた話でしかないのだが。
生まれ落ちた瞬間からいる、たった一人のライバルへの
努力が才能に勝ることを夢見ての
主役向きの素質という適合性への
本当の天才という不確かなものへの
強烈なコンプレックス
劣等感と表裏一体の誇りは、ダイヤモンドゆえに砕けない。足を引っ張ることはない。休むこともない。互いを意識しあいながら、さらに高みへと昇り続ける。誰かが折れてしまえばもろとも崩壊してしまいそうな、奇跡的なバランスが今日まで保たれているのが怖い。トップユニットPrid'sがなおも成長を止めない理由を見た気がした。
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