宝石の小枝

23


 未知の白 ~ティア・ドロップス
 
 その日の朝、特待生は「あんかけうどんこわい」とうなされながら自分の寝言で目を覚ました。日課の早朝ランニングを終え荒木の部屋に行くと、寝起きの彼が珍しく愚痴をこぼす。コーヒーの注がれたマグカップに手を添えて深い溜息をついた。
「あのなあ、これでも先生は忙しいんだよ。特待入学するやつもいれば、入学早々退学勧告受けてるやつもいるんだからな」
「そんな。まだ六月ですよ、見切りをつけるには早すぎませんか? それこそ難関の入試をくぐってきたのに……」
 退学とは穏やかではない言葉だ。椿にふっかけた勝負で退学を賭けたことなど忘れて、特待生はその響きの不吉さに身をすくめる。そして、朝からくたびれた様子を見せる荒木の背面に回って肩揉みを始めた。
「ま、そんだけやつらが尖ってるってことだよ。お前だって、生徒たちのクセの強さは身に染みた頃だと思うが」
「そこは否定できませんね……」
「だろ」
 入学してからまだ二ヶ月足らずとは思えない濃密な日々を思うと……ああだめだ、回想が止まらない。特待生も苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ま、そんなクセの強さが良いほうに転がればいいんだがなあ」
 大きな手が特待生の頭をぽんぽん叩く。
「サンキュな」
「いえ、お世話になりっぱなしなのでこのくらいは」
 肩に置いた手をどけながら、彼自身が言い出したグラン・ユーフォリアのためとは言え、さすがに自分だけが荒木に頼りすぎているかもしれないと反省する。一方で、琥珀色の液体に視線を落とす荒木の目は、いつもと違う色を浮かべていた。
 
「これが千紘の力だよ」
 そう口にする蛍はとても誇らしげで、同時に少し寂しげだった。
「ミヤから聞いたんだけど、他のユニットは参加の約束とは別に役割を引き受けてるんだよね。ハコの手配とか、衣装とか。俺たちにできることはあるかな」
 優しい声で紡がれるありがたいお言葉だが、特待生は返答に窮した。七緒が「正直、輝崎千紘が参加するっていうだけで影響力は絶大」とコメントしたことにも同意しかない。そんな中、蛍みずから提案したのは、過去のグラン・ユーフォリアについての調査だった。
「学園長の部屋にある書庫に、千紘なら入ることを許されるかもしれない」
 そこでRe:Flyのメンバーたちと話したあれこれを思い出す。失われた祭典の詳細は、おそらく意図的に葬られている。それはなぜなのか。
 複雑な心境だった。過去の情報に頼らなくともグラン・ユーフォリアを一から作り上げるというなら、もはや必死になって探すほどの意味はない。特待生が個人的に引っかかるという理由だけでPrid'sの労力を割くなんて絶対に良くないと思うのに、抗いがたい提案。もしや蛍も、学園を復興させることとは別に、情報が途絶えたことそのものに何かを感じ取っているのだろうか。そういった内心を隠しながら、特待生はPrid'sへ過去のグラン・ユーフォリアについての調査を依頼してしまった。
 
「難しい顔してんな、特待生」
 こっそり耳元に囁く七緒の声で我に返る。授業中だ。特待生はグラン・ユーフォリア総指揮者である前に、宝石が丘学園の学生なのだ。声優としての研鑽を疎かにして懸案にふけっていたことが嫌になってしまう。どうにもだめだ。あの日からずっと暗い気持ちが張り付いていて、負の感情へと沈みやすい状態が続いている。これが逃げたツケというやつか。放課後はまるで死にかけの昆虫みたいにふらふらと裏庭の森に出かけた。英気を養う必要がある。
「あれ~、特待生だ。どうしたのー? 元気ないねー」
 頭上から声が降ってきて、特待生は太陽の眩しさに目を細めながら上を見た。
「わかりますか」
 杏が木の上で足をぶらぶらさせている。なぜだろう。、気がないことを見抜かれるにしても、七緒と杏ではちょっと違う気がする。相手が七緒だと、見つかったら背筋を正さなければいけない気がして。うまくは言えないが、杏に見つけてもらったことにほっとする。
「あーっ、杏先輩! ここにいた!」
 少し離れたところから声がする。杏はくるんと身体を返して、膝で枝にぶら下がりながら「おーい、ミー! こっちこっちー」と手を振った。鉄棒から降りるようにすとん、と軽快に着地した杏の元に、零と祭利も駆け寄ってくる。
「もう! 杏先輩、探したよ~」
「おや、特待生さんもご一緒ですか。こんにちは」
「こんにちは! 先日は恥ずかしいところを見せてしまってごめんなさい……うう、ぐすっ」
 集合したのは、荒木の話に出てきた〝退学勧告を受けている生徒たち〟だ。全員が顔見知り以上の仲であるため、特待生も他人事でなく気が重い。眉間に皺が刻まれっぱなしの顔を、四人が四人とも覗き込んでくる。うっ、と後ずさりながら特待生はしかめっ面を両手で引き伸ばす仕草をした。
「皆さんが、ユニットを組んだと聞きまして……」
 あえて退学勧告という表現は使わず、彼らへの憂慮を暗に伝える。猫背になった特待生の背中を杏が軽く叩いた。
「うん、そうなんだー。いまね、みんなといて、とっても楽しいよー」
 杏の言葉を証明するように、四人が顔を見合わせて笑う。
「特待生さん、明日の土曜日はオフですか?」
「僕たち、明日、畑作業を申し込んであるんです」
「そうだ、特待生ちゃんも一緒に行こうよ!」
 
 早朝の裏庭。一年で最も日照時間の長いこの時期は、すでに空が白んでいる。辺見宙のように明け方近くまで星を眺めている者もいるから、この時間を朝ととらえるかは個人の判断に委ねるしかない。人々の喧騒が汚してしまう前の、太陽が温めてしまう前の、手付かずの空気を独占する。薄明るい森の中、淡い色調で映し出される彼らの姿は本当に妖精のようだと伝えると、杏はとても喜んだ。たまにクスクスと笑い声を交えながら、湿り気のある土の感触と葉擦れの音に包まれて畑へ向かう。他の学園公認ユニットがどぎついくらいに色を主張してくる(とまで言うと失礼にあたるだろうか)中で、おぼろげな光をたたえたこのユニットには、彼らにしか出せない魅力を感じる。きっと学園にとってとても大切なものだ。
「朝採り野菜がおいしいって言われるのはね、水分の蒸発が少なくなる夜のあとだからみずみずしいってことなんだよー」
 はちきれそうに赤々と実ったトマトを丁寧に収穫かごの中に積んでいく。キュウリにナスにオクラ、採り頃の野菜を一通り収穫して、五人は土の上に腰を下ろした。「いったん、きゅうけーい」もいだばかりのキュウリをシャクシャクと頬張る。瓜全般が苦手という零だけは、微笑ましげに他の面々を見ている。
「特待生ちゃん、どう? 少しは元気出た?」
 隣に座った巴のふんわりした笑顔に、特待生は泣き笑いになった。
「うん。ありがとう。皆さん、ありがとうございます。……獅子丸くんも、ありがとね」
 巴の腕の中にいる犬のぬいぐるみに手を伸ばして撫でると「どういたしまして」と巴が声を当て、おじぎをさせた。
「へへ……えへへ、本当にありがとうございます」
 特待生は、熱くなる目頭を膝に押し付けてうずくまる。うなじにチリチリと朝日が照りつけた。たぶんPrid'sの強烈な眩しさにやられかけていたのだ。猪突猛進の勢いで走り続けてきたが、あのメンバーを見ていると石ころごときが声優になれるのか、そもそも目指していいのか疑念が湧き上がって止まらない。荒木の口にした〝問題児〟も〝退学勧告〟も特待生のすぐそばにある。
「特待生さん。〝パール〟としてグラン・ユーフォリアのためにお手伝いできることはありませんか? 俺たちは残念ながら他のユニットと違って出演はできませんが、調整や雑用なら協力することができます」
「……こんな総指揮ですけど、助けてくれますか?」
「僕たちこそ、Prid'sに比べたら月とミジンコだよ?」
「問題ありません。月もミジンコも大好きです~……」
「あはははは!」
 ミジンコも石ころも、たしかに宝石が丘学園で生きている。

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