宝石の小枝
26
「お邪魔します。今日は豚肉が特売日でした~」
「おお、でかしたぞ特待生」
そんな会話を交わすのは、帝と特待生。Re:Flyは特待生の噂を肯定しつつも、グラン・ユーフォリアへの出演は取り下げていない。ユニットメンバーとしての立場とは別に、彼らとは同じ学園に通う生徒としての交友関係があり、帝と特待生に関していえば、表面上は騒動前と何も変わっていない。
今年は異常に早い梅雨明けで、畑の夏野菜の消費が追いつかない。週に三日はL二○八号室で一緒に食事を作っており、そのうち半分くらいはコスモも加わって三人で食卓を囲む。今日も山のように積まれた収穫物を前に、献立について議論する帝と特待生であった。
「トマトが日持ちせんからなあ。トマトソースは大量に作ったし、ラタトゥイユでも作り置きしておくか」
「それならカポナータにしませんか? 冷やしても美味しいし、和食にも意外と馴染むし」
「それはいいな。うむ、採用とする」
このような調子で食についての意見を一致させながら、てきぱきと野菜を刻む作業に励んでいた。最近はお互いのやり方にも慣れてきて、特に声掛けせずとも先に手の空いた特待生が鍋に火をかけて野菜を炒めはじめ、帝が順番に調味料や食材を投入していく。そのリズムが心地いい。
「……今更だが、君は普通に料理できるよな」
「いえいえ、青柳先輩のように何品も作って食を豊かにする余裕がないんですよね。おかず一品で野菜もお肉もどーんとまとめて、お皿洗いも短縮みたいな」
「ふーむ、なるほど」
調理器具の後片付けも済ませて当面の仕事がなくなってしまった帝は、若干そわそわと部屋を見渡した。そして、木べらを手に鍋をかき回す特待生の傍らに立つ。小さく咳払いをして、鍋と特待生の間に割り入るような感じで背中を屈め、目線を合わせた。
「……なあ、本当は料理を教わりたいなんて方便なんじゃないのか? 俺と二人きりになって教わりたいことは別にある……そうだろう?」
いわゆる乙女系の甘い囁き。日頃の成果が生き、個人的には上々の出来だと満足しながら特待生の反応を伺う。が、彼女は木べらを回すリズムも変えずに「おおー。いついかなるときも、どんなものにでも愛を囁けるって本当なんですね!」と笑った。
「いやいや、その反応はおかしいぞ? もっとこう、相応しいリアクションがあるだろう。照れるとか赤くなるとかビクッとするとか!」
「んんー、青柳先輩は地声が十分色っぽいので、その声は露出過剰感あるんですよねえ」
「人を変態みたいに言うな!」
「青柳先輩は変態ですよ?」
「そうだな」
会話が予想外におかしな結末を迎えてしまった。特待生のあっさり塩対応に釈然とせぬまま調理が終わり、いつも通りに土曜日の昼食と後片付けが済んだ。一息ついた特待生は、丸いガラス窓の外を眺めている。
「うわ、真っ暗。ひと雨来そうですね」
「今からC棟に戻るのは危険だ。降り止んでから帰るといい」
夜の闇ほどではないが、単純に曇りと呼ぶにはあまりに剣呑な分厚くて黒い雲が空を覆っている。梅雨明けが早い代わりに、今年はいわゆるゲリラ豪雨をもう何度も経験している。おそらく今日もその展開に違いなく、C棟に戻るだけでも、傘を差す程度ではずぶ濡れになることが予見できた。しばらくは部屋に二人きりだ。
なぜ今日はコスモがいないのだろうと、理由の分かりきっていることを胸の内で呟く。収録の仕事だ。彼がそう告げて出かけていったのだし、嘘をつく理由もない。加えてこの天候では、仕事が早く終わっても駅で待機するだろう。自分ならそうする。
表面上、帝は特待生とうまくやっている。だが先ほどの調理中といい、二人きりでいるときのふとした沈黙に焦りを覚えて、何らかのちょっかいをかけずにはいられなくなる。次はどの手で間を繋ごうか、やはり安定の下ネタがよいだろうかなどと思案する。チカっと眩い光が窓から差し込んで、反射的に目を瞑った。続いて、低く唸るような轟きが聞こえる。いよいよ降りはじめそうだ。「特待生は、雷が怖くないのか?」窓際に立つ特待生に歩み寄りながら、雑な話題を振った。
「うーん。単純に大きな音にびくっとしますけど、怖いというほどでもないですね。どちらかというと怪談とかのほうが苦手です」
その発言が、くすぶった帝の悪戯心に火をつけた。先ほどの誘惑ボイスを歯牙にもかけなかった仕返しとも言える。
「そうか……特待生はC棟だから聞いていないんだな」
沈痛な面持ちで帝は独りごちてみせた。
「なんの話ですか」
「いいんだ、聞かなかったことにしてくれ」
窓の外に垂れ込める黒雲を遠い目で見やると、帝は残念そうに頭を振る。
「L棟に黒曜がいてくれたらなあ。あいつが入院するまでは、割と収まっていたんだがな」
「いえあの、中途半端に話をそらされると怖いんですけど……なんの話、ですか?」
「聞きたいのか。特待生がそうまでして聞きたいと懇願するのなら仕方ないな……ゴホン! 今からちょうど一〇年ほど前のことらしいんですねー。そう、今と同じ梅雨明け頃のことなんですよー」
「ややや、やめてください。そもそもなんで語り口が稲◯淳二風なんですか!? 私、本当にそういうのダメなんです。面白がって私をお化け屋敷に連れてった友達とか、あまりのパニックぶりに恥かいたって逆ギレしてくるくらい、青柳先輩まで大変なことになるんですよ?」
ここには二人しかいない。そのパニックぶりとやらを存分に披露してもらおうではないか。
「当時C棟で暮らしていた男子生徒は屋上にシーツを干していたんですねー。そんな中、遠くから雷が聞こえてきて、ああ、濡れる前に取り込まなきゃ、いやだな、いやだなーって急いで屋上に出るとですねー。真っ白いシーツが強風でバタバタッ、バタバタッて煽られて、男子生徒に襲いかかるように揺れてるんですよー。そしてそのとき、特別に大きな雷鳴が」
――――カッ! 凄まじい閃光と轟音が窓から溢れ、同時に室内の照明が落ちる。
「ヒギャア――――――――――ッッ!」
「むぐっ!? おい特待生、顔が嬉しい、いや苦しい!」
「やだやだやだやだ! むりむりむりです! ほんとにこういうの、むり」
想像を上回る特待生の慌てふためきように帝はたじろいだ。そのため帝に飛びついて取り乱す彼女を支えきれずに背面へ倒れる。後頭部は特待生の腕が回っていて、床に打ち付けるようなことはなかった。一方で顔全体に、柔らかくて温かい膨らみが押し付けられている。
「……プハアッ!」
必死にもがいてホールドから抜け出した帝であるが、身体の一部が非常にまずいことに、いそいそとテント設営を始めている。依然として帝に覆いかぶさったままガタガタ震えている特待生を見ると、悪ふざけをした自分に酌量の余地は一ミリもなく、邪険に押しのけることもできない。何よりここまでの飄々とした態度とのギャップに胸が高鳴ってしまう始末。
(ぬうっ、髪の匂いが、温かい吐息が、押し付けられた胸が、がっちり絡んだふとももが……これはいかん、刺激が強すぎる!)
テント班が撤収する気配は一向にない。軽蔑、幻滅といった言葉が脳裏をちらついて頭からは血の気が引く。例の箇所からも速やかに引いてほしい。
「あー、特待生。今のは全て嘘だ。安心していいぞ」
カラカラになった喉で最大限に能天気な声音を使うと、特待生のビクリと肩が強張った。
「……嘘?」
生物としての勘が帝に危険を告げる。あくまで明るく、コミカルに行こう。
「嘘と言うと聞こえが悪い。いわゆる即興というやつだな。あのタイミングでの落雷は予想外だったが、天候まで味方につけるとはさすが俺。神がかっている!」
窓の外では幾千億の雨粒が塊となって、どうどうと降り注ぐ音が聞こえる。対称的に、帝の額から冷や汗が一粒だけ流れ落ちた。L二○八号室を気まずい沈黙が支配する。
「いやその……すまん、反省している。反省しているから早くどいてくれると助かる」
見下ろす視線が痛い。この際、平謝りでもなんでもするから下半身が当たっていることには気づかないでほしい。最悪、気づかないふりをしてくれと願う帝に、特待生は想定外の答えを返した。
「反省してるなら、シチュエーションCDの練習に付き合ってください。これは対価です」
「なっ? シチュ……こらっ、いくらなんでも仕事は選べ! そういう……うあっ!?」
「そう。こんなになってるのに、お説教ですか?」
特待生がマウントポジションを維持したまま、指先でテントの稜線をなぞった。
「ひっ、やめっ……なにを……」
手のひらから指先までを使って撫でさするような動きを繰り返したあと、硬度を増した帝のそれを服の上から握り込んで、上下にしごいていく。特待生は目を細めながら帝を見下ろしている。凍るように冷たい視線と裏腹に、羽根を這わせるがごとく優しい手つき。雪女に代表されるような、女妖に魅入られた若い男の気分とでも言おうか、陶然として身体に力が入らない。
「やめっ、……っあ、わるかった、から……んっ!」
うわごとのように許しを乞い続け、それでも残り少ない理性を振り絞って訴えた。
「たのむ、どうか落ち着いて聞いてくれ。ん、これでは……シチュエーションCDの、練習にもっ、ならん……」
実際、部屋の中に響くのは衣擦れの音と帝の荒い息遣いだけで、甘い台詞やリップ音もなしでは、単なる仕返しにしかならない。
「ああ、それもそうですね」
得心したふうに特待生が身体を起こす。温かな重量から解放されたと安堵したのも束の間、腹から下が外気に晒される感覚に、帝はうわあと悲鳴を上げた。なんのためらいもなく下着ごとジャージを引き下ろされ、生温かい感触が帝の陰茎を這った。
(嘘だろ……こんな……)
ぴちゃぴちゃと卑猥な音を立てながら、特待生が帝のものを口に含んで舌を絡めている。自分の手以外で触れたことのないそこに与えられる初めての感覚に、帝はたまらず喘ぎ声を上げた。降りしきる雨が余計なノイズを洗い流して、行為に付随する音ばかりが耳につく。正真正銘、大人の仕返しを受けることになってしまった自らの悪ふざけを心底反省する。
「あっ……そこ、だめ、……ふあっ」
耐えがたい快感に身をよじり、顎をのけぞらせ甘ったれた声を上げて、特待生のいいように反応を返してしまっていることが悔しい。心細くなって彼女に手を伸ばすと、どこに目がついているのか手首をがっしりと掴まれた。
「先輩が触るのはナシですよ?」
やんわりとたしなめられる。か細い手なのに今の帝には敵う気がしない。完全に掌握された、その屈辱感がまた興奮を煽る始末たるや自らの変態性を恨むしかない。時折、稲光が部屋に差し込む。床にくっきりと浮かび上がる二人分の影を横目に見ながら意識が朦朧としてくる。唇の端を雫が伝った。口を開いたまま喘ぎっぱなしで、唾液が溜まっていることすら良すぎて気がつかなかった。秘蔵本で幾度となく見ている描写なのに、帝自身がそれを体現していることにぼんやりと感動すら覚えてしまった。
「あっ……ん、……んああっ」
「ん……先輩の声、ずるいです。そんな声聞いたら、止められなくなっちゃう、から……」
特待生の口が離れてふと顔を覗き見れば、凍てついた目はいつの間にか熱く潤んでおり、眉根は帝と同じように切なげに歪んでいる。これまでだって掴みどころがなかった彼女が新たに見せるその表情に目眩がする。煽っているのは自分だ。止めてほしくない、恥ずかしいのに嫌ではない。
「んんーっ、特待生っ、とくたいせぇ……」
その先まで続けてほしくて、ねだるように声を上げる。喘ぎをこらえないほうが、彼女が興奮すると知っていてあえて抑えない自分がいる。頭の中は確実に白んでいくのに空いた手でさわさわと陰嚢まで撫でられて、帝は大きく背をのけぞらせながら達してしまった。幾度も震えながら特待生の口内に精を放つ。こくん、と小さく喉を鳴らす音がリアルだ。
「へっ、まさか――の、飲んだのか……?」
説教の一つでも垂れてやりたいのに、くらくらして立ち上がれない。根本から一通り、きれいに舐め取られて。最後の一滴まで、丁寧にしごき出されてちゅっと吸い付かれて、頭の芯が幸福感で痺れる。服を元に戻され、涙と唾液をハンカチで拭われ、赤子のような扱いを受ける。息を乱しながら「……っ、そんな、苦いのを……」と負け惜しみにしかならないことを口にすれば、特待生の顔が眼前に迫った。「味見してみますか?」
唇からちろりと赤い舌がのぞき、心の中で白旗を揚げた。涙目で固まっている帝から気まずそうに目をそらしながら、特待生が立ち上がった。
「冗談です、ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
床に置いた私物をかき集めると、あっという間に部屋を出て行く。窓の外にはいつの間にやら薄日が差し、ガラスに付着した水滴がきらめいていた。
「一体どうしたんですか、帝。鍵もかけずに転がって」
帰宅したコスモに声をかけられるまで、帝はぐったり天井を仰いでいた。
「おおコスモ……。いや、どうにも眠くてな。お疲れ。雨には降られなかったか?」
「ええ、収録中に相当降ったようですがね。外に出て驚きましたよ」
ジャケットをハンガーに掛けるコスモを横目に、帝はようやく身体を起こした。まだ幾分、頭がくらくらする。帝がソファに腰を下ろすのに合わせて、コスモも向かいに座った。
「それにしても、今日は際どい台詞が多かった気がします。全年齢対象といっても昨今の乙女ゲームは攻めますねえ……帝、どうしました?」
ひと仕事を終えたコスモがこぼしたぼやきに、帝が宇宙猫の顔をする。全く理解の追い付かないコスモを部屋に残して、帝は寮の階段を三段飛ばしで飛び降りた。泥が足元を汚すのを気にも留めず、一心不乱にC棟三〇七号室までダッシュする。
「こら特待生出てこい! そこにいるのはわかっている!」
複数回、ドアを乱暴にノックする。実際は特待生がどこにいるのか何一つ確信がなかったが、部屋の中からたしかに反応があった。錠が外れる音を確認するや否や、ドアノブを力いっぱい引く。「ひええっ!?」バランスを崩した特待生がドアと一緒に転がり出てくる。
「話がある、入れてもらおうか」
ただならぬ剣幕の帝を目の当たりにした特待生は、声なく頷いて彼を招き入れ、ドアが閉まると同時にその場に崩れ落ちて土下座をした。
「……申し訳ありませんでした。私が言うのもおかしな話ですが、被害届なり何なり、お出しください」
「馬鹿か、君は。今すぐ顔を上げろ」
帝は膝をついて特待生の肩に手をかけたが、一瞬だけ身体を震わせたあとはピクリとも動かない。結局、フジツボみたいに床に張り付いた身体を持ち上げるように引き剥がすと、彼女は丸まったまま後ろに転がった。膝で顔を覆って、意地でもこちらを見る気がないらしい。帝は聞こえよがしに盛大な溜息をついて、その場にあぐらで座り込んだ。
「君に謝罪など求めていない。……いいか、シチュエーションCDの仕事は今すぐキャンセルしろ。親でも学園でも俺でも、何を悪者に仕立ててもいいから、ナシと言ったらナシだ」
「あれは嘘です」
「……嘘?」
再び帝が宇宙猫化したが、丸まった特待生がその姿を見ることはなかった。
「い、今。グラン・ユーフォリアの計画が暗礁に乗り上げてるじゃないですか。それでその、焦りとか心細さとか人恋しさがごちゃごちゃになって、なんというか衝動的に……むしゃくしゃしてやりました。すみません言い訳です。完全に言い訳です……もうしません」
帝よりずっと小さな身体が、さらに小さく縮こまっている。押し黙った特待生を眺めながら、帝は自然と目を細めていた。二人きりの沈黙に焦りを感じる理由の一つははっきりしている。
「自惚れた発言をするが……君は、俺が君を信じなかったから、気を悪くしたんだろう?」
その言葉に、ようやっと特待生は頑なな姿勢(物理)を解いた。涙の滲んだ目を大きく見開きながら、ゆるゆるとその場に正座する。心霊現象か多重人格か、真偽はさしたる問題ではなかったのだ。特待生が帝と荒木にだけ打ち明け話をしたことを軽く見すぎていた。大切な人だからこそ明かすのが怖くて、一方で大切な人だからこそ受け入れてほしい。そのジレンマが帝には痛いほどよくわかっていたはずだ。目をそらしたまま友達づきあいを続けて深くなる溝を、ずっと見ないふりをした。
「すまなかった。信じるよ」
先刻、L二〇八号室で起きたことも含めて信じるよりほかない。あんなに手慣れた――と口にだすのは流石に思いとどまった。
「ありがとうございます。それと改めて……申し訳ありませんでした」
「明日までには普通に目を合わせられるようにしておいてくれよ?」
自分が頑ななまでに特待生を信じようとしなかったのはなぜなのか。広がる亀裂に気づかないふりをしたのはなぜなのか。帝はもう少しでその答えに手が届きそうな気がしている。寮の外にはつい先ほどの豪雨が嘘のように夕焼け空が広がっていた。水たまりに映る茜色が揺れる。ぶり返した蝉時雨と雨上がりの蒸し暑さに、夏の匂いがする。
「おお、でかしたぞ特待生」
そんな会話を交わすのは、帝と特待生。Re:Flyは特待生の噂を肯定しつつも、グラン・ユーフォリアへの出演は取り下げていない。ユニットメンバーとしての立場とは別に、彼らとは同じ学園に通う生徒としての交友関係があり、帝と特待生に関していえば、表面上は騒動前と何も変わっていない。
今年は異常に早い梅雨明けで、畑の夏野菜の消費が追いつかない。週に三日はL二○八号室で一緒に食事を作っており、そのうち半分くらいはコスモも加わって三人で食卓を囲む。今日も山のように積まれた収穫物を前に、献立について議論する帝と特待生であった。
「トマトが日持ちせんからなあ。トマトソースは大量に作ったし、ラタトゥイユでも作り置きしておくか」
「それならカポナータにしませんか? 冷やしても美味しいし、和食にも意外と馴染むし」
「それはいいな。うむ、採用とする」
このような調子で食についての意見を一致させながら、てきぱきと野菜を刻む作業に励んでいた。最近はお互いのやり方にも慣れてきて、特に声掛けせずとも先に手の空いた特待生が鍋に火をかけて野菜を炒めはじめ、帝が順番に調味料や食材を投入していく。そのリズムが心地いい。
「……今更だが、君は普通に料理できるよな」
「いえいえ、青柳先輩のように何品も作って食を豊かにする余裕がないんですよね。おかず一品で野菜もお肉もどーんとまとめて、お皿洗いも短縮みたいな」
「ふーむ、なるほど」
調理器具の後片付けも済ませて当面の仕事がなくなってしまった帝は、若干そわそわと部屋を見渡した。そして、木べらを手に鍋をかき回す特待生の傍らに立つ。小さく咳払いをして、鍋と特待生の間に割り入るような感じで背中を屈め、目線を合わせた。
「……なあ、本当は料理を教わりたいなんて方便なんじゃないのか? 俺と二人きりになって教わりたいことは別にある……そうだろう?」
いわゆる乙女系の甘い囁き。日頃の成果が生き、個人的には上々の出来だと満足しながら特待生の反応を伺う。が、彼女は木べらを回すリズムも変えずに「おおー。いついかなるときも、どんなものにでも愛を囁けるって本当なんですね!」と笑った。
「いやいや、その反応はおかしいぞ? もっとこう、相応しいリアクションがあるだろう。照れるとか赤くなるとかビクッとするとか!」
「んんー、青柳先輩は地声が十分色っぽいので、その声は露出過剰感あるんですよねえ」
「人を変態みたいに言うな!」
「青柳先輩は変態ですよ?」
「そうだな」
会話が予想外におかしな結末を迎えてしまった。特待生のあっさり塩対応に釈然とせぬまま調理が終わり、いつも通りに土曜日の昼食と後片付けが済んだ。一息ついた特待生は、丸いガラス窓の外を眺めている。
「うわ、真っ暗。ひと雨来そうですね」
「今からC棟に戻るのは危険だ。降り止んでから帰るといい」
夜の闇ほどではないが、単純に曇りと呼ぶにはあまりに剣呑な分厚くて黒い雲が空を覆っている。梅雨明けが早い代わりに、今年はいわゆるゲリラ豪雨をもう何度も経験している。おそらく今日もその展開に違いなく、C棟に戻るだけでも、傘を差す程度ではずぶ濡れになることが予見できた。しばらくは部屋に二人きりだ。
なぜ今日はコスモがいないのだろうと、理由の分かりきっていることを胸の内で呟く。収録の仕事だ。彼がそう告げて出かけていったのだし、嘘をつく理由もない。加えてこの天候では、仕事が早く終わっても駅で待機するだろう。自分ならそうする。
表面上、帝は特待生とうまくやっている。だが先ほどの調理中といい、二人きりでいるときのふとした沈黙に焦りを覚えて、何らかのちょっかいをかけずにはいられなくなる。次はどの手で間を繋ごうか、やはり安定の下ネタがよいだろうかなどと思案する。チカっと眩い光が窓から差し込んで、反射的に目を瞑った。続いて、低く唸るような轟きが聞こえる。いよいよ降りはじめそうだ。「特待生は、雷が怖くないのか?」窓際に立つ特待生に歩み寄りながら、雑な話題を振った。
「うーん。単純に大きな音にびくっとしますけど、怖いというほどでもないですね。どちらかというと怪談とかのほうが苦手です」
その発言が、くすぶった帝の悪戯心に火をつけた。先ほどの誘惑ボイスを歯牙にもかけなかった仕返しとも言える。
「そうか……特待生はC棟だから聞いていないんだな」
沈痛な面持ちで帝は独りごちてみせた。
「なんの話ですか」
「いいんだ、聞かなかったことにしてくれ」
窓の外に垂れ込める黒雲を遠い目で見やると、帝は残念そうに頭を振る。
「L棟に黒曜がいてくれたらなあ。あいつが入院するまでは、割と収まっていたんだがな」
「いえあの、中途半端に話をそらされると怖いんですけど……なんの話、ですか?」
「聞きたいのか。特待生がそうまでして聞きたいと懇願するのなら仕方ないな……ゴホン! 今からちょうど一〇年ほど前のことらしいんですねー。そう、今と同じ梅雨明け頃のことなんですよー」
「ややや、やめてください。そもそもなんで語り口が稲◯淳二風なんですか!? 私、本当にそういうのダメなんです。面白がって私をお化け屋敷に連れてった友達とか、あまりのパニックぶりに恥かいたって逆ギレしてくるくらい、青柳先輩まで大変なことになるんですよ?」
ここには二人しかいない。そのパニックぶりとやらを存分に披露してもらおうではないか。
「当時C棟で暮らしていた男子生徒は屋上にシーツを干していたんですねー。そんな中、遠くから雷が聞こえてきて、ああ、濡れる前に取り込まなきゃ、いやだな、いやだなーって急いで屋上に出るとですねー。真っ白いシーツが強風でバタバタッ、バタバタッて煽られて、男子生徒に襲いかかるように揺れてるんですよー。そしてそのとき、特別に大きな雷鳴が」
――――カッ! 凄まじい閃光と轟音が窓から溢れ、同時に室内の照明が落ちる。
「ヒギャア――――――――――ッッ!」
「むぐっ!? おい特待生、顔が嬉しい、いや苦しい!」
「やだやだやだやだ! むりむりむりです! ほんとにこういうの、むり」
想像を上回る特待生の慌てふためきように帝はたじろいだ。そのため帝に飛びついて取り乱す彼女を支えきれずに背面へ倒れる。後頭部は特待生の腕が回っていて、床に打ち付けるようなことはなかった。一方で顔全体に、柔らかくて温かい膨らみが押し付けられている。
「……プハアッ!」
必死にもがいてホールドから抜け出した帝であるが、身体の一部が非常にまずいことに、いそいそとテント設営を始めている。依然として帝に覆いかぶさったままガタガタ震えている特待生を見ると、悪ふざけをした自分に酌量の余地は一ミリもなく、邪険に押しのけることもできない。何よりここまでの飄々とした態度とのギャップに胸が高鳴ってしまう始末。
(ぬうっ、髪の匂いが、温かい吐息が、押し付けられた胸が、がっちり絡んだふとももが……これはいかん、刺激が強すぎる!)
テント班が撤収する気配は一向にない。軽蔑、幻滅といった言葉が脳裏をちらついて頭からは血の気が引く。例の箇所からも速やかに引いてほしい。
「あー、特待生。今のは全て嘘だ。安心していいぞ」
カラカラになった喉で最大限に能天気な声音を使うと、特待生のビクリと肩が強張った。
「……嘘?」
生物としての勘が帝に危険を告げる。あくまで明るく、コミカルに行こう。
「嘘と言うと聞こえが悪い。いわゆる即興というやつだな。あのタイミングでの落雷は予想外だったが、天候まで味方につけるとはさすが俺。神がかっている!」
窓の外では幾千億の雨粒が塊となって、どうどうと降り注ぐ音が聞こえる。対称的に、帝の額から冷や汗が一粒だけ流れ落ちた。L二○八号室を気まずい沈黙が支配する。
「いやその……すまん、反省している。反省しているから早くどいてくれると助かる」
見下ろす視線が痛い。この際、平謝りでもなんでもするから下半身が当たっていることには気づかないでほしい。最悪、気づかないふりをしてくれと願う帝に、特待生は想定外の答えを返した。
「反省してるなら、シチュエーションCDの練習に付き合ってください。これは対価です」
「なっ? シチュ……こらっ、いくらなんでも仕事は選べ! そういう……うあっ!?」
「そう。こんなになってるのに、お説教ですか?」
特待生がマウントポジションを維持したまま、指先でテントの稜線をなぞった。
「ひっ、やめっ……なにを……」
手のひらから指先までを使って撫でさするような動きを繰り返したあと、硬度を増した帝のそれを服の上から握り込んで、上下にしごいていく。特待生は目を細めながら帝を見下ろしている。凍るように冷たい視線と裏腹に、羽根を這わせるがごとく優しい手つき。雪女に代表されるような、女妖に魅入られた若い男の気分とでも言おうか、陶然として身体に力が入らない。
「やめっ、……っあ、わるかった、から……んっ!」
うわごとのように許しを乞い続け、それでも残り少ない理性を振り絞って訴えた。
「たのむ、どうか落ち着いて聞いてくれ。ん、これでは……シチュエーションCDの、練習にもっ、ならん……」
実際、部屋の中に響くのは衣擦れの音と帝の荒い息遣いだけで、甘い台詞やリップ音もなしでは、単なる仕返しにしかならない。
「ああ、それもそうですね」
得心したふうに特待生が身体を起こす。温かな重量から解放されたと安堵したのも束の間、腹から下が外気に晒される感覚に、帝はうわあと悲鳴を上げた。なんのためらいもなく下着ごとジャージを引き下ろされ、生温かい感触が帝の陰茎を這った。
(嘘だろ……こんな……)
ぴちゃぴちゃと卑猥な音を立てながら、特待生が帝のものを口に含んで舌を絡めている。自分の手以外で触れたことのないそこに与えられる初めての感覚に、帝はたまらず喘ぎ声を上げた。降りしきる雨が余計なノイズを洗い流して、行為に付随する音ばかりが耳につく。正真正銘、大人の仕返しを受けることになってしまった自らの悪ふざけを心底反省する。
「あっ……そこ、だめ、……ふあっ」
耐えがたい快感に身をよじり、顎をのけぞらせ甘ったれた声を上げて、特待生のいいように反応を返してしまっていることが悔しい。心細くなって彼女に手を伸ばすと、どこに目がついているのか手首をがっしりと掴まれた。
「先輩が触るのはナシですよ?」
やんわりとたしなめられる。か細い手なのに今の帝には敵う気がしない。完全に掌握された、その屈辱感がまた興奮を煽る始末たるや自らの変態性を恨むしかない。時折、稲光が部屋に差し込む。床にくっきりと浮かび上がる二人分の影を横目に見ながら意識が朦朧としてくる。唇の端を雫が伝った。口を開いたまま喘ぎっぱなしで、唾液が溜まっていることすら良すぎて気がつかなかった。秘蔵本で幾度となく見ている描写なのに、帝自身がそれを体現していることにぼんやりと感動すら覚えてしまった。
「あっ……ん、……んああっ」
「ん……先輩の声、ずるいです。そんな声聞いたら、止められなくなっちゃう、から……」
特待生の口が離れてふと顔を覗き見れば、凍てついた目はいつの間にか熱く潤んでおり、眉根は帝と同じように切なげに歪んでいる。これまでだって掴みどころがなかった彼女が新たに見せるその表情に目眩がする。煽っているのは自分だ。止めてほしくない、恥ずかしいのに嫌ではない。
「んんーっ、特待生っ、とくたいせぇ……」
その先まで続けてほしくて、ねだるように声を上げる。喘ぎをこらえないほうが、彼女が興奮すると知っていてあえて抑えない自分がいる。頭の中は確実に白んでいくのに空いた手でさわさわと陰嚢まで撫でられて、帝は大きく背をのけぞらせながら達してしまった。幾度も震えながら特待生の口内に精を放つ。こくん、と小さく喉を鳴らす音がリアルだ。
「へっ、まさか――の、飲んだのか……?」
説教の一つでも垂れてやりたいのに、くらくらして立ち上がれない。根本から一通り、きれいに舐め取られて。最後の一滴まで、丁寧にしごき出されてちゅっと吸い付かれて、頭の芯が幸福感で痺れる。服を元に戻され、涙と唾液をハンカチで拭われ、赤子のような扱いを受ける。息を乱しながら「……っ、そんな、苦いのを……」と負け惜しみにしかならないことを口にすれば、特待生の顔が眼前に迫った。「味見してみますか?」
唇からちろりと赤い舌がのぞき、心の中で白旗を揚げた。涙目で固まっている帝から気まずそうに目をそらしながら、特待生が立ち上がった。
「冗談です、ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
床に置いた私物をかき集めると、あっという間に部屋を出て行く。窓の外にはいつの間にやら薄日が差し、ガラスに付着した水滴がきらめいていた。
「一体どうしたんですか、帝。鍵もかけずに転がって」
帰宅したコスモに声をかけられるまで、帝はぐったり天井を仰いでいた。
「おおコスモ……。いや、どうにも眠くてな。お疲れ。雨には降られなかったか?」
「ええ、収録中に相当降ったようですがね。外に出て驚きましたよ」
ジャケットをハンガーに掛けるコスモを横目に、帝はようやく身体を起こした。まだ幾分、頭がくらくらする。帝がソファに腰を下ろすのに合わせて、コスモも向かいに座った。
「それにしても、今日は際どい台詞が多かった気がします。全年齢対象といっても昨今の乙女ゲームは攻めますねえ……帝、どうしました?」
ひと仕事を終えたコスモがこぼしたぼやきに、帝が宇宙猫の顔をする。全く理解の追い付かないコスモを部屋に残して、帝は寮の階段を三段飛ばしで飛び降りた。泥が足元を汚すのを気にも留めず、一心不乱にC棟三〇七号室までダッシュする。
「こら特待生出てこい! そこにいるのはわかっている!」
複数回、ドアを乱暴にノックする。実際は特待生がどこにいるのか何一つ確信がなかったが、部屋の中からたしかに反応があった。錠が外れる音を確認するや否や、ドアノブを力いっぱい引く。「ひええっ!?」バランスを崩した特待生がドアと一緒に転がり出てくる。
「話がある、入れてもらおうか」
ただならぬ剣幕の帝を目の当たりにした特待生は、声なく頷いて彼を招き入れ、ドアが閉まると同時にその場に崩れ落ちて土下座をした。
「……申し訳ありませんでした。私が言うのもおかしな話ですが、被害届なり何なり、お出しください」
「馬鹿か、君は。今すぐ顔を上げろ」
帝は膝をついて特待生の肩に手をかけたが、一瞬だけ身体を震わせたあとはピクリとも動かない。結局、フジツボみたいに床に張り付いた身体を持ち上げるように引き剥がすと、彼女は丸まったまま後ろに転がった。膝で顔を覆って、意地でもこちらを見る気がないらしい。帝は聞こえよがしに盛大な溜息をついて、その場にあぐらで座り込んだ。
「君に謝罪など求めていない。……いいか、シチュエーションCDの仕事は今すぐキャンセルしろ。親でも学園でも俺でも、何を悪者に仕立ててもいいから、ナシと言ったらナシだ」
「あれは嘘です」
「……嘘?」
再び帝が宇宙猫化したが、丸まった特待生がその姿を見ることはなかった。
「い、今。グラン・ユーフォリアの計画が暗礁に乗り上げてるじゃないですか。それでその、焦りとか心細さとか人恋しさがごちゃごちゃになって、なんというか衝動的に……むしゃくしゃしてやりました。すみません言い訳です。完全に言い訳です……もうしません」
帝よりずっと小さな身体が、さらに小さく縮こまっている。押し黙った特待生を眺めながら、帝は自然と目を細めていた。二人きりの沈黙に焦りを感じる理由の一つははっきりしている。
「自惚れた発言をするが……君は、俺が君を信じなかったから、気を悪くしたんだろう?」
その言葉に、ようやっと特待生は頑なな姿勢(物理)を解いた。涙の滲んだ目を大きく見開きながら、ゆるゆるとその場に正座する。心霊現象か多重人格か、真偽はさしたる問題ではなかったのだ。特待生が帝と荒木にだけ打ち明け話をしたことを軽く見すぎていた。大切な人だからこそ明かすのが怖くて、一方で大切な人だからこそ受け入れてほしい。そのジレンマが帝には痛いほどよくわかっていたはずだ。目をそらしたまま友達づきあいを続けて深くなる溝を、ずっと見ないふりをした。
「すまなかった。信じるよ」
先刻、L二〇八号室で起きたことも含めて信じるよりほかない。あんなに手慣れた――と口にだすのは流石に思いとどまった。
「ありがとうございます。それと改めて……申し訳ありませんでした」
「明日までには普通に目を合わせられるようにしておいてくれよ?」
自分が頑ななまでに特待生を信じようとしなかったのはなぜなのか。広がる亀裂に気づかないふりをしたのはなぜなのか。帝はもう少しでその答えに手が届きそうな気がしている。寮の外にはつい先ほどの豪雨が嘘のように夕焼け空が広がっていた。水たまりに映る茜色が揺れる。ぶり返した蝉時雨と雨上がりの蒸し暑さに、夏の匂いがする。
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