宝石の小枝

29

ぴかぴかの講堂に埋め込まれた定礎が示す日付は七年前だ。既に落ちぶれていたはずの宝石が丘学園が、どうしてあれほど立派な講堂を建設したのか。それに、七年は絶妙な数字だ。留年者を除けば、中等部からの内部進学組も含めすべての生徒が入れ替わる。今をときめくスター声優、荒木冴は二十代前半にしてなぜ宝石が丘学園の講師を務めることにしたのか。多忙なのはいつものこととして、どうして学園のスキャンダルが報道されてから急に連絡が滞るようになったのか。聡明な彼が、学園を救う唯一の策だとグラン・ユーフォリアへ固執する理由は。

 特待生は気づきたくなかった、認めたくなかった。荒木こそが噂の発端。白金は、特待生の他に佐和にもそれを話したようだった。彼の口は堅くても、信頼できる者だけを選んで打ち明けていくだけで、最終的に指数関数的な人数に伝播していく。それは皮肉にも特待生の醜聞が広まったのと同じように。
「今日、荒木先生が久しぶりに寮に戻るらしい」
「特待生、みんなで話を聞きに行こう」
「今更だけど、力になりたい。特待生さんも含めた俺たちのグラン・ユーフォリアだから」
 示し合わせたわけでもないのに、夕刻には特待生の部屋に生徒たちが押し寄せていた。次々に増えるメンバーを迎え入れながら、特待生はふいに目眩を覚えて、ドアにもたれかかった。皆が皆、自分のために集まってくれたというのに、壁を感じる。彼らが団結して作り出している熱が他人事のように思える。
「あの……特待生さん、顔色がとても悪いです。大丈夫ですか?」
 祭利が泣きそうな顔でこちらを見ている。
「えっ。あはは、大丈夫ですよ。……というか、祭利くんこそ真っ青です」
 色白の肌はいつも感動と興奮でピンク色に染まっているのに。何度も口を開きかけては閉じ、逡巡を繰り返す様子を、特待生は何も言わずに見守った。
「ぼ、僕……。どうしていいかわからなくて。噂を聞いて、混乱して、そして特待生さんを疑ってしまって……やっと仲直りできたのに、今度は荒木先生が黒幕だなんて言われても……ううっ……あたまが、ひっく……ぐちゃぐちゃで……っ」
「そう、ですよね……わかります」
 いつも祭利の素直さに助けられている。ハンカチを差し出しながら、この身体でなければ彼をぎゅうっと抱きしめても許されたかな、そちらのほうがよっぽど〝事案〟になるかな、などと考えた。祭利の涙が落ち着いたところで居室を見渡し、ある人物を捜す。生徒の中で頭一つぶん抜き出ている長身はすぐに見つかった。「あの……」と言葉を濁しながら彼の制服の裾を引っ張る。特待生の意図を理解したようで彼は目配せをしたあと、何気なく廊下へと出た。特待生もそれに続く。
「コスモ先輩。私、荒木先生と一人で話をします」
 コスモはほんの少しだけ目を見張ったが、まるで予想外という様子でもなかった。
「なぜです? 先日の談話室で、私たちユニットメンバーと特待生さんの間には微妙なわだかまりが生まれてしまいました。しかし、いまは皆が団結し疑惑の謎も晴れようとしている。あなたの求心力を確固たるものとする、またとない好機なのですよ?」
「……コスモ先輩は……」
 荒木は〝グラン・ユーフォリア〟という言葉をあまり口にしない。意識してのことかまではわかりかねるが、彼にとってむやみに口にできないものであるのは確かだ。ごく稀に声に出すときには、そこだけ隠しきれない感情が乗っている。目の色が変わる。そして、荒木に似た反応を示す人物がもう一人、特待生の眼前に立つコスモである。彼もまた〝グラン・ユーフォリア復興を試みた一部の生徒〟なのだろう。
「コスモ先輩はご存知なんでしょう? これから私たちがしようとすることは、荒木先生にとって、軽々しく触れてはいけないものだということを……それなら、私は……」
 スカートを握りしめながら、入学式の日に荒木の前で真相に触れかけてしまったことを思い出す。七年前に建てられた講堂のことを口にしたからだ。あのときの鋭く射抜く視線は、すでに不安でいっぱいの特待生にとってとても恐ろしかったが、同時に手負いの獣に相対したような苦しさがあった。これから起こそうとしている行動が彼の傷に触れかねないのだとしたら、大人数で押しかけるより特待生が単騎で乗り込むほうがましではないだろうか。
「まったく……貴方という人は」
 マスクの内側で嘆息が漏れる。
「いいですか。まず一つ目、一連の騒動はあの先生が望んでやったことです。結果的に全ユニットが団結したことは彼にとっても悪いことではありませんし、特待生さんが気に病むことは一つたりとてありません。二つ目、討ち入りを決行したところで荒木先生と生徒との関係が悪化することはありませんよ。残念ですが、ああ見えて信頼は厚いし貴方の想像以上にしぶとい。私が保証しますよ」
 いつも謎めいた光を浮かべる水晶の目の向こう側が、一瞬だけ見通せた気がした。荒木の傷の正体を知っているだろう彼が、悪い結果にはならないと保証してくれている。荒木と生徒の間にある強い信頼も、他ならぬ特待生自身がよく知っている。決断しかねて立ち尽くしていると、大きな手がぽんぽんと特待生の頭上で弾んだ。「さあ、そろそろ戻りましょう」と口にしながら、コスモはすでにドアノブを回している。
「……やれやれ、無自覚な罪作りってのも困ったもんだな」
「へっ!? え、なに? いまの声、コスモ先輩ですか?」
「はて、なんのことでしょう」
 部屋の中の生徒たちだったのか。しかし声はドアを開く前に聞こえた気がする。目を白黒させたまま、特待生は部屋で待機する生徒たちの輪に戻った。
 大半が夕食を終えた時間帯、久方ぶりに荒木が学生寮へ戻ってきた。集結した生徒たちは彼に真相を語るよう迫ったが、さすがというべきか、のらりくらりと訴追はかわされてしまった。荒木が特待生の醜聞をあえて盗み聞きできるよう電話していたことも、証拠の音声はあるのかと反撃されれば返す言葉がない。しかし輝崎蛍があるものを突きつけると、荒木はあっさり一連の騒動の黒幕であることを認めた。七年前に計画されたグラン・ユーフォリア再興計画を綴った日誌と、その持ち主である杉石珪の名前に、明らかに動揺した様子が見て取れた。
「悪かったな特待生、さすがにやり過ぎた」
 荒木は生徒全員を見回したあと、再び特待生に向き直る。一瞬だけ垣間見た彼の目の色は、これまでのどんな色とも違っていた。「ダルい」が口癖で、その割にいつだって余裕を滲ませていた彼の、正真正銘、憔悴しきった視線が特待生の胸をえぐる。
「お前はよくやったよ、俺の期待値をはるかに上回った。当初の目的であったグラン・ユーフォリアの開催そのものは確定したと言っていい。だが贅沢なもんでな、今度は上手くいきすぎることを危惧するようになった。お前は特待生であると同時にこの学園の新入生だ、素人だ。このまま開催までこぎつけても、どこかで何気ない歪みがあっという間に広がる」
 特待生は頷いた。歪み自体は荒木が人為的に引き起こしたものではあるが、あっさり空中分解した結束は、彼の危惧の正しいことを証明してしまっている。
「それで打った手が、学園と特待生のスキャンダルってわけか」
「ああ。すべては俺の企てたことだ。もともと根も葉もないネタだ、例の週刊誌にもグラン・ユーフォリアの開催後に盛大な訂正記事が掲載される手はずになってる。……とはいえ特待生、今回のことは本当にすまなかった」
 沈痛な面持ちで改めて詫びる荒木に、場の空気が静まる。全員が特待生の反応を伺っている。ここで選択を誤ってはならない。特待生はこれから述べようとする言葉に間違いがないよう脳内で復唱して、呼吸を整えた。
「……先生は入学式の日、グラン・ユーフォリアを復活させるにはユニットメンバーの協力が不可欠だと仰いました。でもそれだけじゃ足りません。まだ絶対に絶対に必要な協力者がいるんです」
 特待生は荒木の前に一歩踏み出して一礼した。
「荒木先生、どうか私たちのグラン・ユーフォリアに協力してください」
「……ははっ。そうだな、音響と照明は俺が監督する。最高のスタッフも手配する」
 
 生徒たちが一様に安堵の表情を浮かべてそれぞれの部屋に戻ったことを確認すると、特待生は隣室のドアを控えめにノックした。「……どうぞ。開いてるよ」彼はこうなることを予測済みのようだった。少し前まで毎朝繰り返されていた報告会のように、二人はサイドテーブルを挟んで向かい合って座った。
「悪かった。つらかったよな」
 荒木は深く頭を下げた。その言葉に、特待生はこみ上げかけた嗚咽を無理やり飲み込んだ。たぶんあれだ、我慢できそうなレベルの悲しみでも「大丈夫?」と優しくされるとかえって涙が止まらなくなるやつに似てるんだ、と自分に言い聞かせた。
「謝罪していただきたいわけではないんです。犯人探しもこりごりです。それに、私たちは先生の目論見通りに分断しました。その先で結束を強めました。だから先生の策略は正解です。……ただ、知りたいんです。噂を流すことが唯一の正解だったのでしょうか」
 ずっと聞きたかったが、他の生徒たちの前で口にするのをなんとか耐えた。余計な火種は蒔く必要がないから場を収めた。特待生の問いかけに荒木は重々しく口を開く。
「……いや、他に幾らでもやりようはあっただろうな。だが俺はグラン・ユーフォリアを確実に成功させたかった。そのためにお前を陥れることになってもだ」
「そう、ですか……」
「恨むだけ恨んでくれ。気が済むまで殴ってくれて構わん。それでチャラになるとも思ってねえし」
 はっきり言って、彼を許すのも許さないのも特待生の自由だ。これまでの鬱憤を餌にキレ散らかしたって、きっと荒木は咎めない。だが自由には責任が伴う。特待生は、白金との会話を振り返る。佐和から、普段の白金の人柄について聞いていなかったら。結果は大きく違っていて、副総指揮を頼むどころか絶縁状態だったかもしれない。早とちりして大事なものを失うのは嫌だ。かといって片っ端から怒りを飲み込んでいることが正しいとも思わない。自分が壊れては元もない。憎悪も憤怒も、自分が自分であるために必要で、リスクを承知の上なら堂々と表明していい大切な感情だ。
「わたし、は……」
 特待生は久方ぶりにサイドテーブルの天板を見つめる。ふいに胸の内に「ここにいつも通り、コーヒーが二つ置いてあったらいいのにな」と呟きが落ちてきた。おそらくはそれが答えなのだろう。
「では、美味しいごはんをご馳走してくださったら全部帳消しでどうですか」
 直後、あんぐり口を開けた荒木を見て特待生は吹き出してしまった。
「……ふはっ。先生って信じられないほどイケメンなのに。変顔でもやっぱりイケメンなんですね。でも変な顔~! ふぐっ、あはは、あはははは!」
 見当違いの方向に振り切れて笑い転げる特待生に、荒木は呆れるしかないようだった。ひとしきり笑ったのち特待生は立ち上がる。張り詰めていた心身から急に力が抜けて、足がかくかく、ふにゃふにゃする。
「はー、笑った笑った。そろそろおいとま致しますね」
「ん。ゆっくり休め」
 廊下まで見送りに出てくれた荒木の顔はいまだに固さが残っている。しこりを残しても良いことなど何もないのに。どうしたものかと逡巡した結果、おかしなテンションに入っている特待生は、正解かどうか限りなく危ぶまれる行動を思いついた。すう、はあ、と軽い呼吸で慣らした肺に、目一杯の外気を取り込んで吐き出した。
「先生のバカ――――――――――っ!」
 宝石が丘学園での生活、三ヶ月の集大成……と呼ぶにはあまりにもシンプルだが、その声は間違いなく学生寮C棟を震わせた。
「今度こそ、これで帳消しですよね? では、おやすみなさい」
 キンキンと痛む耳をさすり荒木が自室に戻ると、郷里の名物(なっとう)を模したマスコットが床に落ちていた。もともと据わりが悪かったのだと彼は自らを諭す。
「ほんっと、あいつには勝てる気がしねーな……」

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