宝石の小枝
30
特待生は数日前にあった荒木の執務室での出来事を回想して苦笑いした。
「二人きりで食事を楽しんだ上で過ちをチャラにしてもらえるとか、美味しすぎないか」
「帝……お前、毎度毎度誤解をまねく言い方やめろっつーの」
「しかも週末の夜ですよ、特待生さんの外泊申請は提出済みですか?」
「夜じゃねえし、遅めの昼メシだし。おい聞いてんのかコスモ。まったくてめえらは!」
グラン・ユーフォリア妨害工作の黒幕を突き止め、生徒たちで真相を問いただした夜のこと。特待生は謝罪する荒木に「美味しいごはんをご馳走してくれたら帳消し」と告げた。その時点で特待生は確執をあらかた解消したつもりでいたのだが、荒木は律儀にも当日中に店の選定と予約まで済ませていたらしい。形に残らない〝食べ物を奢る〟という行為でわだかまりを水に流すのは、生徒たちの間でも頻繁に行われていることだ。しかし今回、荒木と特待生の関係は〝講師と生徒〟であり〝スター声優と駆け出し声優〟であり〝男と女〟である。同じ寮で暮らしているのに現地集合、都心から程遠く離れた隠れ家風の食事処で落ち合うという、大掛かりな事態となってしまった。
「わあっ。特待生ちゃん、いつもと違う雰囲気だけどキレイ!」
「ありがとう! ミーちゃんにそう言ってもらえると照れるけど嬉しいなあ」
特待生が身につけているのは、比翼のシャツジャケットとタイトスカートのセットアップである。カジュアル以上ビジネス未満の度合いで、色も明るいアイボリーを選んだので、いまの特待生でもメイクを工夫すれば十分に着こなせる。椿からも「まあ、悪くないんじゃないの」認定を頂戴したので、自信を持っていいはずだ。女性は服とメイクでいくらでも化ける。もっとも宝石が丘の生徒は「化ける」ことに関しては一般女性の比ではないのだが、男子高校生としての目線で見れば本日の特待生のいでたちは興味が尽きないものらしく、散々いじられてから寮を出た。彼らには『両親がたまたま十王子近くまで来ることになったので、外出申請をとって一緒に食事をしてくる』と伝えてある。荒木と特別に関係の深いコスモと帝だけは真相を知っているが、表向きはそのような理由にしてある。目的の店は十王子駅から電車を乗り継ぎ、駅からヒール靴で歩くには少し厳しい距離の場所にある。昼下がりの眩しい日差しに目を細めながらタクシーを降りると、路地の隅から咳払いが聞こえた。
「よう、早いな」
「荒木先生こそ」
何気なく特待生が返事をすると、荒木が人差し指を口の前に立てる。
「あ、すみません……」
この一件で何かあってダメージを受けるのは、名が通っている荒木のほうだ。己の軽率な提案からここまで大事になってしまったことを悔やむばかりである。待ち合わせ時刻まで十五分少々あったが、周囲を見回しつつ早めに店に入った。案内された個室は掘りごたつ席になっていて、和室の趣がありつつも無理なくくつろげる。店員からドリンクのメニューを渡された荒木は、二人分の緑茶を頼んだ。
「えっ、飲まないんですか」
「あのなあ。詫びのつもりで来てるのに俺が飲むとかありえないだろ」
「本気で仰ってますか? こんないいお店に来ておいて、下戸でもないのに飲まないと?」
「お前……それ悪気がなくてもアルハラになりかねないからな?」
ぼやきながらも荒木が自分のドリンクを日本酒に変更したので、特待生は満足げに微笑んだ。その後も運ばれた先付けに箸をつけながら雑談を交わす。
「今日はまた、えらく雰囲気が違う格好してんじゃねーか」
「こんな立派なお店、いかにも女子高生な服のほうが居心地悪いですよ……」
「ああ、そこまで考えてなかったなあ」
特待生にしてみれば、毎日身につける学生服のほうがコスプレ衣装を纏うような居心地の悪さがあるのだ。対して今日の服は自分へのご褒美として買ったものだ。嵐のような三ヶ月を乗り切った見返りとして、この程度なら許されるだろうか。以前の身体なら、もっとマニッシュでかっちりしたスーツを選んだと思う。年相応のかわいらしさも活かして着こなせるセットアップは宝石が丘の特待生として生きていく自分を受け止めてくれるようでもある。運ばれてくる食事はすべて美味しい。なぜ和食を選んだのか荒木に聞くと「育ち盛りの男子向けメニューばかりじゃつまんねーだろ」と答えが返ってきた。たしかに学園の食堂ではありつけそうにない。彼の心遣いに感謝しつつ、空いたグラスにお酌をする。酒を勧めた手前アルハラ云々になっても困るので、荒木の顔色や視線を注意深く観察していると、当然ながら目が合った。文句の着けようもなく整った顔立ちで微笑みを返されて、思わず特待生のほうが赤面してしまう。
「ははっ。なんだお前、そっちのグラスに入ってるのは米の水か?」
赤くなった理由をわかった上でこういってくるのだから、食えない先生だ。
「違います違います、ただのお冷やです。いまは未成年なんですから!」
「そういえばそうだったな。……いまは未成年、か」
荒木は自分のグラスを手に取り、いったんは口元に運ぼうとしたが再び卓上に置いた。
「お前も酒でも飲めれば、ちったあ気が紛れたのかもな……。いや、そういう問題じゃねーな。改めて言わせてくれ。特待生、今回のことは本当にすまなかった」
短めの前髪が卓上に触れてしまいそうなほど深く、荒木が頭を下げる。頭を垂れたまま動かない彼に茶化しは通用しない雰囲気で、今度こそ互いの心のしこりが取り除けますようにと強く願いながら、特待生は口を開いた。
「もちろん最初は怒ってましたよ、先生があんまりにひどい無茶振りするので」
特待生は軽く目を閉じる。宝石が丘学園の門をくぐった初めての日、生暖かな桜吹雪や、ざわめいた講堂を思い起こす。地に足の着かない心細さ、降りかかる理不尽にこみ上げる怒りをもう一度胸の内に呼び起こして味わう。演じる役に入り込むのとまるで同じ手順のようだが、それらは物語ではなく特待生の身に起こった現実だ。
「でも、それでもいま振り返れば、あれほどの無茶振りだからこそ、からっぽの自分の中が常に満たされて、毎日がむしゃらに生きていられて……きっと私は楽しかったんです。荒木先生に恩義を感じているくらいです。あはは、いまだから言えることですけどね」
これは演技ではなく心の底から思っていることだ。ただし数ヶ月前の特待生には、声に乗せてこの思いを誰かに伝える技術などなかった。自らの声や紡ぐ言葉を俯瞰して眺める、声優としての自分はいなかった。グラン・ユーフォリア総指揮として、声優になる夢を追う一人の高校生として、以前とは違う自分へ変化した三ヶ月。目をそらして逃げることは、もうできない。掘り起こした感情は、穏やかに特待生の内へと戻っていく。
「はっ……。やっぱ俺の間違いだったな。復讐のためのグラン・ユーフォリアなんてな」
独り言のような荒木の呟きに、特待生はぎょっとして顔を上げた。杉石珪の日誌を突きつけたときに垣間見たのと同じ、薄い自嘲を浮かべた余裕ゼロの荒木だ。
「もう日誌は読んだんだよな?」
「……いえ」
読まなかった、というより怖くて読めなかったが正しい。そもそも集団で荒木部屋に討ち入りしたときの切り札は、白金が聞きつけた荒木自演の通話内容だった。杉石珪の日誌は、あくまでグラン・ユーフォリアへの執着を説明する理由ぐらいに考えていたのだ。蛍が日誌を突きつけたときの荒木の狼狽ぶりを見てしまってからは、特待生の手元にはあるものの、幾度も表紙をめくりかけてはやめるを繰り返している。
「あの。先生、もういいんです。それは話さなくても」
「いや、お前には知る権利がある」
荒木が目を細めた。正面にいるのに特待生と視線は交差しない。先ほどの自分がやったように、きっと彼の目には現在ではなく七年前が映り込んで、彼を捉えはじめている。卓袱台の下に隠れた両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
荒木が宝石が丘の学生であった七年前も、やはり学園は名門の凋落をささやかれていた。そんな状況下、断絶したグラン・ユーフォリアを復活させることで学園を復権させようという動きが生徒たちの中で生まれたのだという。
「俺も杉石もその一員だ。ああ、それと、お前もよく知ってるやつがもう一人いるな」
「……それは、怖いくらいに実力派揃いですね」
「まあ、な。そんじゃ、なぜグラン・ユーフォリアは開催されなかったかだが」
荒木とコスモの技量を間近で見ていれば、彼らと組んでいる杉石の力も自ずと知れたようなものだ。由緒ある祭典の素晴らしい復活劇となったはずだろうに、なぜか現在グラン・ユーフォリアの歴史そのものが葬り去られている。それはなぜなのか。
「リハ中の事故で、杉石が命を落としたんだ。当時、学園内にあった野外ステージの上でな」
「……っ!?」
想定していた以上の衝撃に飲み込まれ特待生は言葉を失った。言語的に理解できるはずの内容ではあるのに、構成要素のひとつひとつが重すぎて咀嚼できずにいる。情報量が多すぎる。杉石珪はグラン・ユーフォリア開催前に事故死していた。事故現場は野外ステージ。現在の講堂が建つ場所にあったのを、Prid'sが突き止めている。講堂の定礎には七年前の日付が刻まれている。杉石の死亡から一年と経たぬうちに、事故現場で建築が始まったことになる。そして、意図的に抹消されたとおぼしきグラン・ユーフォリアの歴史。それらが一つにつながってしまうとしたら、なんと恐ろしいことだろう。
「許せなかったのが学園の対応だ。老朽化したステージを壊し、何食わぬ顔でその上に講堂を建てた。グラン・ユーフォリアの準備が進んでいたことすら白紙にされた。俺たちは特に杉石と仲が良かったわけじゃない。だがこれには、やり場のない怒りが湧いた。これじゃまるであいつが最初からいなかったみたいじゃないか……ってな」
「そんな……人が亡くなっているのに、そんなことが……」
警察は、司法は。一度は口にしようとした言葉を特待生は飲み込んだ。現代の日本において人ひとりが死んだことを隠蔽するのがどれほど困難かは明白である。しかし、隠蔽を可能にするだけの権力が存在することも、その権力に一介の高校生が敵うはずがないこともまた、想像に難くない。
理不尽すぎる。荒木やコスモの当時の心境に思いを馳せ、顔も知らない杉石珪の無念を想像し、そんな彼に少し前の自分を重ねてしまったことに自己嫌悪して、両目から一気に大粒の涙が溢れ出た。そっと差し出されたハンカチのぬくもりが余計に感情を昂ぶらせて、どのくらいの間泣き続けていたのかわからない。
「お前に、お前らに感謝してるよ。死んだあとばっか囚われて、生前の杉石を、グラン・ユーフォリアに向けて無我夢中で生きてた日々をないものにしていたのは、俺も同じだったのかもしれん」
再び目頭が熱くなる。強く鼻をすすって堪えると、特待生は笑った。
「今度こそ、最高のグラン・ユーフォリアを開催するって誓います。期待してください!」
理不尽を嘆いても杉石珪の命は戻らない。だからと言ってすべてを許すことも到底できない。目を逸らさず受け止めて、しんどくても心の隅に置き続けてときには掘り起こし、自問自答を繰り返して生きていくしかないのだ。その先にある景色を信じたい。
「俺は酔い覚ましに駅まで歩く。お前は寮までタクシー使え」
店を出ると、既に手配済みのタクシーに半強制で乗らされた。個別に帰るのは宝石が丘の面々に怪しまれないため致し方ないとはいえ「ここは若いほうが歩くべきですよ」と言い張れば「いや、どっちがだよ!」と地味に痛いデコピンを食らったのが釈然としない。しかし車内のバックミラーで充血の収まらない赤い目に気づいてしまい、荒木の厚意に素直に感謝した。泣くというのは存外に体力を使うもので、うつらうつらしているうちに車窓の外は夕闇に包まれていく。宝石が丘の敷地内まで乗り入れると手続きが面倒なので、寮に一番近い出入り口付近でタクシーを降りた。すぐ近くで聞こえる咳払いにデジャブを感じる。
「タクシーにしちゃ遅くねえか」
「ああ……けっこう渋滞してたんですよね。電車って案外早いんですね……」
眉を垂らす特待生に、額を押さえる荒木。偶然鉢合わせたのは事実なので仕方ないという結論が出て、揃ってC棟方面へ一歩踏み出したのだが。「……おい。お前ら、コソコソなにやってんだ?」生け垣からのそっと立ち上がった二つの人影に、特待生は思わずギャッと叫びかけた。帝とコスモは両手に枝を持ち、髪に数枚の葉をくっつけている。生け垣の妖精さんたちは、杏から手ほどきでも受けたのだろうか。
「ふふ、荒木先生が送り狼に変身しないかが気がかりでしてね」
「きゃー、先生のえっちー」
「荒木先生、そんな下心があったなんて……」
「そーかそーか。お前ら三人とも、そんなに課題が欲しいか」
ぎゃいぎゃいと賑やかにはしゃぐ彼らは、歩み寄ってくる第三者たちの存在に直前まで気が付かなかった。
「……ひかり?」
聞き覚えのある声。だが、受話器越しでない肉声を特待生が聞くのは入学式の日以来だ。振り向いた先にいる一組の男女を視界に確認すると、ぐわんと足元が揺れた。
「どうして」
どうしてここにあなたたちが。
「二人きりで食事を楽しんだ上で過ちをチャラにしてもらえるとか、美味しすぎないか」
「帝……お前、毎度毎度誤解をまねく言い方やめろっつーの」
「しかも週末の夜ですよ、特待生さんの外泊申請は提出済みですか?」
「夜じゃねえし、遅めの昼メシだし。おい聞いてんのかコスモ。まったくてめえらは!」
グラン・ユーフォリア妨害工作の黒幕を突き止め、生徒たちで真相を問いただした夜のこと。特待生は謝罪する荒木に「美味しいごはんをご馳走してくれたら帳消し」と告げた。その時点で特待生は確執をあらかた解消したつもりでいたのだが、荒木は律儀にも当日中に店の選定と予約まで済ませていたらしい。形に残らない〝食べ物を奢る〟という行為でわだかまりを水に流すのは、生徒たちの間でも頻繁に行われていることだ。しかし今回、荒木と特待生の関係は〝講師と生徒〟であり〝スター声優と駆け出し声優〟であり〝男と女〟である。同じ寮で暮らしているのに現地集合、都心から程遠く離れた隠れ家風の食事処で落ち合うという、大掛かりな事態となってしまった。
「わあっ。特待生ちゃん、いつもと違う雰囲気だけどキレイ!」
「ありがとう! ミーちゃんにそう言ってもらえると照れるけど嬉しいなあ」
特待生が身につけているのは、比翼のシャツジャケットとタイトスカートのセットアップである。カジュアル以上ビジネス未満の度合いで、色も明るいアイボリーを選んだので、いまの特待生でもメイクを工夫すれば十分に着こなせる。椿からも「まあ、悪くないんじゃないの」認定を頂戴したので、自信を持っていいはずだ。女性は服とメイクでいくらでも化ける。もっとも宝石が丘の生徒は「化ける」ことに関しては一般女性の比ではないのだが、男子高校生としての目線で見れば本日の特待生のいでたちは興味が尽きないものらしく、散々いじられてから寮を出た。彼らには『両親がたまたま十王子近くまで来ることになったので、外出申請をとって一緒に食事をしてくる』と伝えてある。荒木と特別に関係の深いコスモと帝だけは真相を知っているが、表向きはそのような理由にしてある。目的の店は十王子駅から電車を乗り継ぎ、駅からヒール靴で歩くには少し厳しい距離の場所にある。昼下がりの眩しい日差しに目を細めながらタクシーを降りると、路地の隅から咳払いが聞こえた。
「よう、早いな」
「荒木先生こそ」
何気なく特待生が返事をすると、荒木が人差し指を口の前に立てる。
「あ、すみません……」
この一件で何かあってダメージを受けるのは、名が通っている荒木のほうだ。己の軽率な提案からここまで大事になってしまったことを悔やむばかりである。待ち合わせ時刻まで十五分少々あったが、周囲を見回しつつ早めに店に入った。案内された個室は掘りごたつ席になっていて、和室の趣がありつつも無理なくくつろげる。店員からドリンクのメニューを渡された荒木は、二人分の緑茶を頼んだ。
「えっ、飲まないんですか」
「あのなあ。詫びのつもりで来てるのに俺が飲むとかありえないだろ」
「本気で仰ってますか? こんないいお店に来ておいて、下戸でもないのに飲まないと?」
「お前……それ悪気がなくてもアルハラになりかねないからな?」
ぼやきながらも荒木が自分のドリンクを日本酒に変更したので、特待生は満足げに微笑んだ。その後も運ばれた先付けに箸をつけながら雑談を交わす。
「今日はまた、えらく雰囲気が違う格好してんじゃねーか」
「こんな立派なお店、いかにも女子高生な服のほうが居心地悪いですよ……」
「ああ、そこまで考えてなかったなあ」
特待生にしてみれば、毎日身につける学生服のほうがコスプレ衣装を纏うような居心地の悪さがあるのだ。対して今日の服は自分へのご褒美として買ったものだ。嵐のような三ヶ月を乗り切った見返りとして、この程度なら許されるだろうか。以前の身体なら、もっとマニッシュでかっちりしたスーツを選んだと思う。年相応のかわいらしさも活かして着こなせるセットアップは宝石が丘の特待生として生きていく自分を受け止めてくれるようでもある。運ばれてくる食事はすべて美味しい。なぜ和食を選んだのか荒木に聞くと「育ち盛りの男子向けメニューばかりじゃつまんねーだろ」と答えが返ってきた。たしかに学園の食堂ではありつけそうにない。彼の心遣いに感謝しつつ、空いたグラスにお酌をする。酒を勧めた手前アルハラ云々になっても困るので、荒木の顔色や視線を注意深く観察していると、当然ながら目が合った。文句の着けようもなく整った顔立ちで微笑みを返されて、思わず特待生のほうが赤面してしまう。
「ははっ。なんだお前、そっちのグラスに入ってるのは米の水か?」
赤くなった理由をわかった上でこういってくるのだから、食えない先生だ。
「違います違います、ただのお冷やです。いまは未成年なんですから!」
「そういえばそうだったな。……いまは未成年、か」
荒木は自分のグラスを手に取り、いったんは口元に運ぼうとしたが再び卓上に置いた。
「お前も酒でも飲めれば、ちったあ気が紛れたのかもな……。いや、そういう問題じゃねーな。改めて言わせてくれ。特待生、今回のことは本当にすまなかった」
短めの前髪が卓上に触れてしまいそうなほど深く、荒木が頭を下げる。頭を垂れたまま動かない彼に茶化しは通用しない雰囲気で、今度こそ互いの心のしこりが取り除けますようにと強く願いながら、特待生は口を開いた。
「もちろん最初は怒ってましたよ、先生があんまりにひどい無茶振りするので」
特待生は軽く目を閉じる。宝石が丘学園の門をくぐった初めての日、生暖かな桜吹雪や、ざわめいた講堂を思い起こす。地に足の着かない心細さ、降りかかる理不尽にこみ上げる怒りをもう一度胸の内に呼び起こして味わう。演じる役に入り込むのとまるで同じ手順のようだが、それらは物語ではなく特待生の身に起こった現実だ。
「でも、それでもいま振り返れば、あれほどの無茶振りだからこそ、からっぽの自分の中が常に満たされて、毎日がむしゃらに生きていられて……きっと私は楽しかったんです。荒木先生に恩義を感じているくらいです。あはは、いまだから言えることですけどね」
これは演技ではなく心の底から思っていることだ。ただし数ヶ月前の特待生には、声に乗せてこの思いを誰かに伝える技術などなかった。自らの声や紡ぐ言葉を俯瞰して眺める、声優としての自分はいなかった。グラン・ユーフォリア総指揮として、声優になる夢を追う一人の高校生として、以前とは違う自分へ変化した三ヶ月。目をそらして逃げることは、もうできない。掘り起こした感情は、穏やかに特待生の内へと戻っていく。
「はっ……。やっぱ俺の間違いだったな。復讐のためのグラン・ユーフォリアなんてな」
独り言のような荒木の呟きに、特待生はぎょっとして顔を上げた。杉石珪の日誌を突きつけたときに垣間見たのと同じ、薄い自嘲を浮かべた余裕ゼロの荒木だ。
「もう日誌は読んだんだよな?」
「……いえ」
読まなかった、というより怖くて読めなかったが正しい。そもそも集団で荒木部屋に討ち入りしたときの切り札は、白金が聞きつけた荒木自演の通話内容だった。杉石珪の日誌は、あくまでグラン・ユーフォリアへの執着を説明する理由ぐらいに考えていたのだ。蛍が日誌を突きつけたときの荒木の狼狽ぶりを見てしまってからは、特待生の手元にはあるものの、幾度も表紙をめくりかけてはやめるを繰り返している。
「あの。先生、もういいんです。それは話さなくても」
「いや、お前には知る権利がある」
荒木が目を細めた。正面にいるのに特待生と視線は交差しない。先ほどの自分がやったように、きっと彼の目には現在ではなく七年前が映り込んで、彼を捉えはじめている。卓袱台の下に隠れた両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
荒木が宝石が丘の学生であった七年前も、やはり学園は名門の凋落をささやかれていた。そんな状況下、断絶したグラン・ユーフォリアを復活させることで学園を復権させようという動きが生徒たちの中で生まれたのだという。
「俺も杉石もその一員だ。ああ、それと、お前もよく知ってるやつがもう一人いるな」
「……それは、怖いくらいに実力派揃いですね」
「まあ、な。そんじゃ、なぜグラン・ユーフォリアは開催されなかったかだが」
荒木とコスモの技量を間近で見ていれば、彼らと組んでいる杉石の力も自ずと知れたようなものだ。由緒ある祭典の素晴らしい復活劇となったはずだろうに、なぜか現在グラン・ユーフォリアの歴史そのものが葬り去られている。それはなぜなのか。
「リハ中の事故で、杉石が命を落としたんだ。当時、学園内にあった野外ステージの上でな」
「……っ!?」
想定していた以上の衝撃に飲み込まれ特待生は言葉を失った。言語的に理解できるはずの内容ではあるのに、構成要素のひとつひとつが重すぎて咀嚼できずにいる。情報量が多すぎる。杉石珪はグラン・ユーフォリア開催前に事故死していた。事故現場は野外ステージ。現在の講堂が建つ場所にあったのを、Prid'sが突き止めている。講堂の定礎には七年前の日付が刻まれている。杉石の死亡から一年と経たぬうちに、事故現場で建築が始まったことになる。そして、意図的に抹消されたとおぼしきグラン・ユーフォリアの歴史。それらが一つにつながってしまうとしたら、なんと恐ろしいことだろう。
「許せなかったのが学園の対応だ。老朽化したステージを壊し、何食わぬ顔でその上に講堂を建てた。グラン・ユーフォリアの準備が進んでいたことすら白紙にされた。俺たちは特に杉石と仲が良かったわけじゃない。だがこれには、やり場のない怒りが湧いた。これじゃまるであいつが最初からいなかったみたいじゃないか……ってな」
「そんな……人が亡くなっているのに、そんなことが……」
警察は、司法は。一度は口にしようとした言葉を特待生は飲み込んだ。現代の日本において人ひとりが死んだことを隠蔽するのがどれほど困難かは明白である。しかし、隠蔽を可能にするだけの権力が存在することも、その権力に一介の高校生が敵うはずがないこともまた、想像に難くない。
理不尽すぎる。荒木やコスモの当時の心境に思いを馳せ、顔も知らない杉石珪の無念を想像し、そんな彼に少し前の自分を重ねてしまったことに自己嫌悪して、両目から一気に大粒の涙が溢れ出た。そっと差し出されたハンカチのぬくもりが余計に感情を昂ぶらせて、どのくらいの間泣き続けていたのかわからない。
「お前に、お前らに感謝してるよ。死んだあとばっか囚われて、生前の杉石を、グラン・ユーフォリアに向けて無我夢中で生きてた日々をないものにしていたのは、俺も同じだったのかもしれん」
再び目頭が熱くなる。強く鼻をすすって堪えると、特待生は笑った。
「今度こそ、最高のグラン・ユーフォリアを開催するって誓います。期待してください!」
理不尽を嘆いても杉石珪の命は戻らない。だからと言ってすべてを許すことも到底できない。目を逸らさず受け止めて、しんどくても心の隅に置き続けてときには掘り起こし、自問自答を繰り返して生きていくしかないのだ。その先にある景色を信じたい。
「俺は酔い覚ましに駅まで歩く。お前は寮までタクシー使え」
店を出ると、既に手配済みのタクシーに半強制で乗らされた。個別に帰るのは宝石が丘の面々に怪しまれないため致し方ないとはいえ「ここは若いほうが歩くべきですよ」と言い張れば「いや、どっちがだよ!」と地味に痛いデコピンを食らったのが釈然としない。しかし車内のバックミラーで充血の収まらない赤い目に気づいてしまい、荒木の厚意に素直に感謝した。泣くというのは存外に体力を使うもので、うつらうつらしているうちに車窓の外は夕闇に包まれていく。宝石が丘の敷地内まで乗り入れると手続きが面倒なので、寮に一番近い出入り口付近でタクシーを降りた。すぐ近くで聞こえる咳払いにデジャブを感じる。
「タクシーにしちゃ遅くねえか」
「ああ……けっこう渋滞してたんですよね。電車って案外早いんですね……」
眉を垂らす特待生に、額を押さえる荒木。偶然鉢合わせたのは事実なので仕方ないという結論が出て、揃ってC棟方面へ一歩踏み出したのだが。「……おい。お前ら、コソコソなにやってんだ?」生け垣からのそっと立ち上がった二つの人影に、特待生は思わずギャッと叫びかけた。帝とコスモは両手に枝を持ち、髪に数枚の葉をくっつけている。生け垣の妖精さんたちは、杏から手ほどきでも受けたのだろうか。
「ふふ、荒木先生が送り狼に変身しないかが気がかりでしてね」
「きゃー、先生のえっちー」
「荒木先生、そんな下心があったなんて……」
「そーかそーか。お前ら三人とも、そんなに課題が欲しいか」
ぎゃいぎゃいと賑やかにはしゃぐ彼らは、歩み寄ってくる第三者たちの存在に直前まで気が付かなかった。
「……ひかり?」
聞き覚えのある声。だが、受話器越しでない肉声を特待生が聞くのは入学式の日以来だ。振り向いた先にいる一組の男女を視界に確認すると、ぐわんと足元が揺れた。
「どうして」
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