宝石の小枝

33

真っ暗闇の中、青柳帝はぱちりと目が覚めてしまった。深夜だというのにやけにすっきりとした寝起き。昨晩はエプロン縫製で夜なべしたとは言え、海の家までの道中にぐっすり眠ったし、店も不本意ながら閑古鳥が鳴き、体力に余裕が残っている。しかし明日は忙しくなりそうだ。志朗を中心に組み立てた改善案と呼び込みアイデアは、飲食のアルバイト経験が豊富な帝目線から見ても悪くない。
 強いて言えば、懸案は自分のラップの出来だ。起きて自主練でもするか。帝自身の限界はある程度見極めがつく。今よりよっぽど疲労困憊、満身創痍で死線をさまよったことは数知れない。すやすや寝息を立てる仲間たちを気遣いながら、そっと布団を抜け出して浜辺に出た。

 先刻、五人で寝付く頃には車のエンジン音やはしゃぎ声が僅かに聞こえた。おおかた花火でも楽しんでいたのだろう。だが今、浜辺には波音だけが響き、水面に月の光が揺れている。
「……綺麗だな」
 そうですね、と眼鏡のフレームの外側で少女が相槌を打つ。ほころぶ花のように穏やかで邪魔にならない微笑みを浮かべている。ここ数週間のことだ。どこにいても何をしても視界の端の端、ちょうどピントのぼやけたところに特待生が立っている気がする。駅のホームで電車を待つ間、三年生しかいないはずのレッスン中、夜の枕元。もしも、幻覚ではなく実際に彼女がこの場にいたら、自分はどうするだろう。いつものように下ネタや冗談めかした愛の囁きで乗り切るのだろうか。
 荒木ならどうするだろうか。宝石が丘学園と特待生に関する良くない噂を流したのは彼だ。グラン・ユーフォリアを成功させるためとはいえ、特待生からすればとばっちりも良いところ。だのに、黒幕たる荒木と彼女はぎこちなくなるどころか距離を縮めているように見えるのは、帝のフィルターが歪んでいるせいか。そもそも二人は寮の隣室同士で、自分の知らない間に種類の違う関係になっていても不思議はなくて。だから特待生が荒木と一緒に合宿所へ向かう直前、インプロを装って恋に落ちる二人を演じ、カマをかけた。きょとんとした特待生の目に嘘はないと思いたい、が……。
 おもむろにスマートフォンを取り出して、液晶に表示された現在時刻に溜息をつく。どう考えても架電するには非常識な時間だ。そもそも自分はラップの練習をするために外に出てきたのだから。乱雑にポケットにスマートフォンを突っ込む。息を吸い込んで歌詞を口ずさもうとするも喉がつかえる。やり直し、もう一度。複雑に絡み合うフレーズを意識下に引っ張り出そうとしたが、浮かぶのは荒木の車に乗り込む特待生の後ろ姿。ああ、こんな時間だから、普通ならぐっすり眠っているはずだから。呼び出し音が五回鳴ったら諦めるから、一度だけ。スマートフォンを強く握りしめ、発信ボタンを押す。……一回、二回…………五回。切断ボタンをタップしようとした指先で画面が通話状態に変化するのを見て、慌てて耳に当てた。
「んっ……あおやぎせんぱい……?」
 どくんと心臓が跳ねた。聞いたことのない甘い声。ふにゃふにゃして舌っ足らずの声音は、まるで睦言だ。
「す、すまない! 起こしてしまったか。……いやその、荒木先生が隣にいたりして、なーんてな。我ながら、からかいが過ぎるな」
「えへ。ふたりでよりみちはしたけど、ちゃんとかえりましたよー」
「はっ? おい、それってどういうことだ」
 途端に背筋が薄ら寒く感じたが、帝の問いへの応答がない。
「特待生? ……寝ているのか?」
「……ん……ん~……」
 受話器の向こうで夢とうつつの間を行き来する特待生が目に浮かぶ。もういい加減に通話を切るべきだ。耳からスマートフォンを離しかけたとき、再び小さな呟きが聞こえた。
「……なみの、おと?」
「あ、ああ。外に出てきているからな。そっちにも聞こえるか?」
「ふふ……とても、おちつきます。ゆらゆらして……あおやぎせんぱいとねたら、きっとすごくきもちいい……」
 かくんと膝が折れて帝はその場に崩れ落ちた。幸か不幸かその後の応答はない。特待生は完全に眠りの中に戻ってしまったようだった。今度こそ通話終了ボタンを押す。
「ちがっ……いやこれは違うんだ。寝るってそういう意味だぞ。深い意味はない、文脈的にどう考えても。落ち着け、俺」
 ここには自分しかいないのに、辺りをきょろきょろ見回しては謎の弁明を始めてしまう。残り香のような声を払いのけようと、帝は頬を強く叩いた。
「……焼きそば……もろこし……」
 月明かりの浜辺に、念仏めいたラップが響く夜だった。

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