宝石の小枝
34
「飛ぶなら仲間と――Re:Fly!」
円陣を組んで合言葉を唱える彼らの声は、夏の海によく似合う。
「おはようございます! 皆さん絶好調って感じですね」
「はよーっす、特待生ちゃん」
「お、特待生も揃ったか。おはよう」
荒木の車で合宿所から合流した特待生はRe:Flyのメンバーたちと挨拶を交わす。各自、台本の読み込みやラップの練習で昨晩は早寝とはいかなかったろうに、活気に満ちている。どこか挙動不審だった志朗も、今朝は肩の力が抜けて晴れやかだ。
(……当たり前だけど、私はRe:Flyにはなれないんだなあ。うん、なりたいわけじゃないんだけど……)
彼らを羨ましいとは思うが、その一員に加わりたいのとも違う。仮に、特待生がもう少し早く海の家へ到着してあの円陣に誘われたとしても、特待生自身が彼らの青色に混じることを許せない気がする。Re:Flyに翼があるなら、特待生の背にあるのは翅 だ。生きる場所も飛び方も全く異なる。
志朗と宙はキッチンで昨晩話し合ったオペレーションを再確認している。アルバイト経験の豊富な帝が厨房の配置などアドバイスしていたが、あくまで志朗と宙の課題として尊重し、助言にとどめている。特待生が彼の立場ならついついあれこれ手出ししてしまいそうだ。客席のテーブルを拭く帝にそっと近づくと、すぐ隣で清掃する様を装って小声で話しかける。
「あの、青柳先輩。ゆうべお電話くださいましたよね? うっすら覚えているのですが……何か失礼はありませんでしたか?」
「……」
帝は特待生を一瞥するとテーブルに視線を落としてぼそっと呟いた。
「失礼はなかったと思うぞ。むしろ非常識な時間に掛けてしまってすまなかった」
「わああ。ごめんなさいごめんなさい、ちなみにご用件は」
「君が謝るようなことはしてない。さ、この話は終いだ。じきに開店だぞ」
「うう……もしかしてラップのチェックとかですか……?」
半べそをかきつつも深追いできない特待生と、黙々と拭き掃除を続ける帝。その会話にばっちり聞き耳を立てているメンバーたちがいることを二人は知らなかった。
「厨房、準備万端です!」
「ホールもOKだ」
「おお、ビーチもだいぶ人が出てきたな」
いよいよ開店。特待生は恐る恐る横目で帝の表情を伺った。口を引き結んで、極度に緊張しているようにも、逆に達観しているようにも見えてしまう。
「いきましょうか、帝」
「ああ」
最低限の言葉で海の家を出ていく帝とコスモの背を見送りながら、特待生の背中がじっとりと汗で滲む。これは暑さからくるものではない。
「いよいよだな」
すぐ横に立夏が立っていることさえ気が付かなかった。眉尻の下がりきった特待生を見て、立夏は苦笑いする。
「そんな顔をするな。あそこにいるのはRe:Flyの青柳帝とコスモだからな」
「……はい」
大げさに加工されたデジタル写真のように、特待生の目には帝とコスモだけがはっきりと映り込んで、あとはぼんやりとピンぼけした青と白にしか見えない。胸に手を当て、今は着けていないはずの黄色いネクタイを握りしめた。スローモーション再生で帝の目が不敵に細められ、形の良い唇が動く。
「――いくぞ。Get going!」
特待生は、我が子のお遊戯会をハラハラしながら見守る心境だった自分を恥じた。握りこぶしを当てた胸は、先ほどまでとは別の理由で跳ね回っている。
(すごい……! こんな……すごい!)
失敗しない、その程度の出来なら余裕のなさが声に出る。しかし、意気揚々と煽り立てる帝とコスモのラップは真夏の日差しに負けないほどに輝いて、砂浜中の注目を集めている。昨夜考えたばかりの歌詞なのに、翌朝には特待生の想像を遙か先ゆく完成形で現れ、浜辺の観光客たちをを魅了した。もっとも、特待生が言葉をなくして呆けていられる猶予はほとんどなかった。怒涛の勢いで海の家に人波が押し寄せる。
「ご新規さんオーダーです!」
「いらっしゃいませ!」
「3卓さんオーダー入ります。焼きそば、おにぎり、唐揚げオール2で」
厨房もホールもフル稼働。元は呼び込み要員の特待生も、外に出る余裕など一ミリもない。
「ごちそーさん」
「パパ、『やきうどーん』おいしかったね~」
「ありがとうございまーす!」
志朗を中心に昨夜練ったオペレーションが功を奏して、忙しいながらも取りこぼしなく海の家の業務が回っていく。
「特待生さん、そろそろ休憩時間ですが」
コスモの声掛けに、特待生は重ねた皿やカトラリーを抱えて振り返った。
「ありがとうございます、でもピーク過ぎるまで残ります」
「助かります。無理は禁物ですよ」
ランニングや筋トレ、日頃の鍛錬が役に立って良かったと思う。呼び込み中心だった昨日と比較すると日差しがないのもかなり楽に感じる。そしてやはり一番の要因はチーム連携が取れていることだ。何を見てどんな作業するかが明確になっているぶん効率的に動ける。慌ただしいなりに軽やかな足取りで順調にホール業務をこなしていた特待生だが、ぐいと手首を掴まれて唐突に停止した。
「ねー。中ジョッキ追加で三つちょーだい、あとイカ焼き二つ」
特待生を呼び止めた男性客は、無遠慮に真っ直ぐ特待生を見るようでいながらも、焦点が合っていない。これは相当に酒が回っている。
「ありがとうございます。6卓さん中ジョッキ3、イカ焼き2です! ……えっと」
掴まれた手首はけっこう痛い。力の加減ができないほどに酔っているのだろう。離してもらえる気配もない。
「君、かわいーねえ。高校生? バイト? おごってあげるから休憩時間にあそぼーよ」
「おいおい、店員さんこまってんだろー。ていうかさー、そいつより俺と遊ぼ?」
「あはは、ありがとうございます。よろしければお水をお持ちしましょうか?」
たからハンバーガーとは勝手が違う、酔っぱらい客も想定されるが笑顔で穏便に乗り切るべし。事前に注意されていたことではあるが、こんなときほど店の混雑ぶりが目について、悠長に対応する時間が惜しくなる。平和的解決を目指す気持ちと力任せに振り切ってしまいたい衝動とが葛藤して脳内が焼け付く中、ふと場違いな甘い香りが鼻をかすめた気がした。
「お兄さん方。悪いけど、この子は俺のなんだよね~」
背後から肩を抱かれ、もう一本の手がさらりと特待生の手首を払う。仕草はあまりに鮮やかで、男性客の拘束は呆気なく外れた。
「バイトとは言え、俺以外の男に触れられると妬けちゃうなー。ね、ひかりちゃん?」
振り向かずとも、彼の声と匂いを間違えようはずがない。だけどどうしよう、どうすればいい。官能的な音色に心臓がどくどく脈打つ中、ふと昨夜の海辺で荒木に翻弄された一場面を思い出した。悔しかった、もう負けたくない。昨日だって、ラップの担当決めジャンケンにも誘われなかった。特待生の実力がまだ及ばないことを、自分自身を含め全員が暗黙のうちに承知していたからだ。追いつきたい。彼らは仲間であると同時にライバルだから、食らいついていつかは追い越す。
(できるできるできる……私はこの人の恋人! ふわふわで甘えん坊の、愛らしい女の子! だからこんなときはきっと……)
振り向きざま、特待生は思い切って彼の首元に縋り付いた。
「ふえぇぇん! 会いたかったんだから、モモくんのバカバカ!」
「アハハ! ごめんごめん」
櫻井百瀬の手がごく自然に腰に回され、抱き寄せられる。特待生が意図して出したわかりやすいアニメ声に、客たちの視線が集まるのを感じて「いける」と確信した。
「俺も会いたかったよ、……狂いだしそうなくらいに君が欲しかった」
低音と吐息に、身体の芯がぞくっと痺れた。百瀬の甘い匂いがゼロ距離で鼻腔を満たし、クラクラする。少し離れた場所からは桜花のように切なく漂う、けれど至近距離では熟れた果実のように甘ったるい香り。罪深い蠱惑の香り。あけすけに言ってしまえば、下腹部がきゅうっと収縮するのを感じる。もうこの勢いにすべてを委ねよう。彼しか視界に映らない女の子になれそうだ……いや、なれる。打ち合わせ無しの即興劇が始まった。
「すごーい、これ乙女ゲームショー?」
「ねー、最初は店員さんが絡まれてると思ったからびっくりしたよ」
店内がどっと盛り上がる。客たちが百瀬と特待生の演技に見入っている間、注文が一時的に止まり、Re:Flyメンバーにも余裕が生まれた。「お客様? よろしければお水をどうぞ」「あ、ああ……」帝は至極にこやかに微笑み、コップを例の客の卓上に置く。
「あはははっ、待てよ~」
「うふふ、捕まえてごらんなさ~い」
海の家にお花畑が咲く頃には、酔客たちの意気も完全に削がれていた。
「このまま本当の恋人同士になっちゃう?」
「全力でノーサンキューです……」
「うんうん、ガードが堅いのって燃えるよねえ」
百瀬は臨海合宿には参加できなかったものの、仕事終わりついでに通りがかったらしい。インプロ終了後、立夏がやや強引に彼をホールスタッフへ引き入れた。結果、人手は増えたが女性客も増えた。昼食目的と思われるピークは十五時近くまで続き、ようやくテーブルにも空きができる。軽い雑談をするゆとりができたところで、お約束のように百瀬に迫られた特待生はお約束で後ずさる。
「……でも、ありがとうございました。櫻井先輩のフォローがなければインプロ成立しませんでした」
「そうだな。率直に言って合格点はやれない。櫻井のフォローあっての結果だ」
横から立夏が加わった。ぴしゃりと正直な評価を受けて、特待生の身体が強張る。
「しかしあの状況からよく立て直したな」
立夏は一転して口元を緩め、頭を撫でてくれた。甘やかし方が大変にお上手。安定のお兄ちゃんぶりだ。
「浅い演技でした。全部が中途半端で悔しいです……声質が安定しないし、照れも残ってました。結局、演じるイメージが固まりきってなかったんです」
「こういうのは場数だよ。数をこなせば度胸もつくし、以前に深く演じたキャラに近いものならするっと出てくるだろ?」
「では、閉店までに我々Re:Flyも、全員ランダムなタイミングで特待生さんにインプロを仕掛けるというのはいかがでしょう」
「ひいっ!?」
立夏に続いてコスモが参入し、とんでもない提案が飛び出した。
「なんすかそれ、めっちゃ面白そう」
「ふふ。待っててね、特待生」
厨房からも参入者現る。可愛い顔して、なんと恐ろしいことを楽しげに話すのだろう。それでも特待生はわかってもいる。Re:Flyの胸を借りられるなんて、贅沢すぎる特別課題だということくらい。「ど、どんとこいやあ……」とぎこちない作り笑いを浮かべるのが精一杯。語尾が頼りない特待生を庇うかのように、百瀬が割り込む。
「それは楽しそうだけどさあ、Re:Flyが特待生ちゃんを独占してるのは気に入らないな。ねえ夜来、労働の見返りにちょっと彼女を借りたいんだけど?」
「む……そういえば特待生は休憩も取れていなかったな」
立夏としても、百瀬を店員として強引に引き入れたことにそこそこ後ろめたさがあるのだろう。どうしたものかと周りのRe:Flyメンバーの顔を見回している。
「いやいや、私は現物支給品ではないので……休憩返上で働いたのは皆さんも同じですし」
「ねえ、特待生ちゃんは俺といるのがそんなに嫌なの?」
「へっ? あの、いえ、そういうわけでは、ないんですけど」
痛いところを突かれた。酔っぱらいに絡まれたのを助けてもらった上に、小動物のような目で見つめられ、それでもなお百瀬を拒絶することができようか。「順繰りに休憩は取るが、まずは特待生から」と話がまとめってしまったのであった。
ミラーレス一眼から、作り物のシャッター音が響く。
「ほら~、笑って笑って。君は笑顔が一番だと思うよ?」
「私が撮影係なんですってば。しかもそのカメラは……」
「蛍に借りたんでしょ? 同室の俺がちゃんと事後承諾とっておくから大丈夫」
抜け目のない受け答えに特待生がぐうの音で唸る。杉石珪に倣うというほどでもないが、グラン・ユーフォリアまでの生徒たちの軌跡を形に残しておきたいと思っているのだ。活動日誌ではないけれど、デジタルデータを活用して特待生流の形にしたい。それで蛍に手ほどきを受けつつ、生徒たちの日常を撮影しているのだ。休憩前に海の家で百瀬が購入したソフトクリームは、なぜか特待生に「はい、ごほうび」と手渡され、その隙にカメラを奪われてしまった。海の家が忙しすぎるせいでデータ量は十分空きがあるとはいえ、遠慮なくシャッターを切り続ける百瀬に特待生は心底嫌そうな顔を向ける。
「ふぅん……じゃあ言い方を変えようか。今後グラビア撮影とかもあるかもしれないよ、いきなりプロに撮られる前に予行演習してもいいんじゃない? さっき夜来に言われたばかりだよ、場数が大事だってさ」
今度こそ、ぐうの音も出ない。とはいえ笑えと言われて自然な笑顔を作るのも難しい。顔筋をひくひくさせる特待生を百瀬が可笑しそうに眺めている。
「しょうがないなあ。じゃあ百瀬って呼んでくれたらカメラ返してあげてもいいよ。初めて会ったときから言ってるでしょ?」
その言葉で、入学早々にPrid'sへ丸腰で突っ込んで玉砕した日々が蘇る。たしかに、茶室の前で初対面の彼とそんな会話をした記憶がある。目を見開いた特待生に艶やかな微笑みが向けられた。
「そりゃあね、忘れないよ。俺が名乗る前から名前を覚えてくれてたんだから、嬉しくないわけないでしょ」
「……カメラ返してください、百瀬さん」
櫻井百瀬という人物を知るたびに、それはモテるだろうなと納得させられるのが悔しい。もちろん口には出さない。満足げに弧を描く唇は美しい薄紅色で、彼独特の甘い匂いに酔いそうになる。くらっとしたのは暑さのせいだと思いたい。
「でもね、返す前に一枚くらいは笑った顔撮らせて。『櫻井先輩、ずるいです。俺だって特待生さんと砂浜デートしたかったのに』なーんて蛍に言わせたいし?」
突然に声色を変化させた百瀬をぽかんと見つめたあと、特待生は我慢できずに吹き出した。すかさずシャッターが切られても、もう笑いを収めることができない。
「あはははは! 蛍先輩はそんなこと言いません、解釈違いですよ。……けど、その点を除けばすごく似てました」
「こう見えても芸の幅は広いからね」
一度緩んでしまった頬は元に戻らず、夏の海を背景に撮って撮られて、二人で自撮りもどきまでしているうちに休憩時間が終わってしまった。急ぎ足で海の家に戻り、業務を再開する。
「さーて、いまいち気乗りしないけど男どもの写真も残しておくかね」
百瀬は特待生に代わってRe:Flyたちの写真も撮ってくれるようで、ホールの三年生を何枚か撮り納めてから厨房に侵入し、二年ズたちの様子を窺っている。離れた場所で接客していると会話の内容まではこちらに聞こえてこない。
「そういえば言いづらいから気になってたんすけど……。櫻井センパイ、どうしてあそこまで特待生ちゃんに嫌がられてるんすか?」
「Prid's、最初の塩対応ぶりがひどかったって聞いてますよ。蛍とは楽しそうに話してるとこ見ますけど」
両手に握ったコテで鉄板の焼きそばを混ぜながら志朗が言う。宙は合いの手を入れながらも皿洗いする手を緩めない。
「うーん。表向き人格者の特待生ちゃんがあからさまに嫌がる、冷静にあしらえないっていうのはじゅうぶん特別扱いだと思うけどね。君たちにはまだ難しいかな」
談笑しつつも百瀬はそつなく仕事風景を撮影し、空と海の色が変わりはじめた頃に宝石が丘学園へと戻っていった。昼ほどではないにせよ、じきに夕食に合わせたピークが来るに違いない。へろへろの手足に鞭打ちながら、Re:Flyと特待生は残り体力を振り絞った。
「うん、売上目標を見事に過達! 前年比二倍、前日比なんと一〇倍だ。よく頑張ったな、お前たち」
「一〇倍って、すごい」
「やった~……」
店じまい後、荒木の報告を受けて宙と志朗が真っ先に声を上げたが、リアクションにいまいちキレがない。喜びに追いつかないほど全員が心身ともにくたびれきっている。とはいえ悪くない疲労感だ。
「さらに朗報だぞ。スタッフも復調し明日には戻れるそうだ。よって明日は全員、一日海で遊ぶことを許可する!」
「マジっすか!?」
「やったー!」
疲れも吹き飛ぶ魔法のお薬のような言葉に、今度こそある者は喜んで抱き合い、ある者は歓声を上げた。もはや臨海学校とは何なのか。相変わらず型破りの宝石が丘学園には呆れる部分もあるが、こみ上げる楽しさを隠しきれずに特待生も仲間たちの輪に加わった。
円陣を組んで合言葉を唱える彼らの声は、夏の海によく似合う。
「おはようございます! 皆さん絶好調って感じですね」
「はよーっす、特待生ちゃん」
「お、特待生も揃ったか。おはよう」
荒木の車で合宿所から合流した特待生はRe:Flyのメンバーたちと挨拶を交わす。各自、台本の読み込みやラップの練習で昨晩は早寝とはいかなかったろうに、活気に満ちている。どこか挙動不審だった志朗も、今朝は肩の力が抜けて晴れやかだ。
(……当たり前だけど、私はRe:Flyにはなれないんだなあ。うん、なりたいわけじゃないんだけど……)
彼らを羨ましいとは思うが、その一員に加わりたいのとも違う。仮に、特待生がもう少し早く海の家へ到着してあの円陣に誘われたとしても、特待生自身が彼らの青色に混じることを許せない気がする。Re:Flyに翼があるなら、特待生の背にあるのは
志朗と宙はキッチンで昨晩話し合ったオペレーションを再確認している。アルバイト経験の豊富な帝が厨房の配置などアドバイスしていたが、あくまで志朗と宙の課題として尊重し、助言にとどめている。特待生が彼の立場ならついついあれこれ手出ししてしまいそうだ。客席のテーブルを拭く帝にそっと近づくと、すぐ隣で清掃する様を装って小声で話しかける。
「あの、青柳先輩。ゆうべお電話くださいましたよね? うっすら覚えているのですが……何か失礼はありませんでしたか?」
「……」
帝は特待生を一瞥するとテーブルに視線を落としてぼそっと呟いた。
「失礼はなかったと思うぞ。むしろ非常識な時間に掛けてしまってすまなかった」
「わああ。ごめんなさいごめんなさい、ちなみにご用件は」
「君が謝るようなことはしてない。さ、この話は終いだ。じきに開店だぞ」
「うう……もしかしてラップのチェックとかですか……?」
半べそをかきつつも深追いできない特待生と、黙々と拭き掃除を続ける帝。その会話にばっちり聞き耳を立てているメンバーたちがいることを二人は知らなかった。
「厨房、準備万端です!」
「ホールもOKだ」
「おお、ビーチもだいぶ人が出てきたな」
いよいよ開店。特待生は恐る恐る横目で帝の表情を伺った。口を引き結んで、極度に緊張しているようにも、逆に達観しているようにも見えてしまう。
「いきましょうか、帝」
「ああ」
最低限の言葉で海の家を出ていく帝とコスモの背を見送りながら、特待生の背中がじっとりと汗で滲む。これは暑さからくるものではない。
「いよいよだな」
すぐ横に立夏が立っていることさえ気が付かなかった。眉尻の下がりきった特待生を見て、立夏は苦笑いする。
「そんな顔をするな。あそこにいるのはRe:Flyの青柳帝とコスモだからな」
「……はい」
大げさに加工されたデジタル写真のように、特待生の目には帝とコスモだけがはっきりと映り込んで、あとはぼんやりとピンぼけした青と白にしか見えない。胸に手を当て、今は着けていないはずの黄色いネクタイを握りしめた。スローモーション再生で帝の目が不敵に細められ、形の良い唇が動く。
「――いくぞ。Get going!」
特待生は、我が子のお遊戯会をハラハラしながら見守る心境だった自分を恥じた。握りこぶしを当てた胸は、先ほどまでとは別の理由で跳ね回っている。
(すごい……! こんな……すごい!)
失敗しない、その程度の出来なら余裕のなさが声に出る。しかし、意気揚々と煽り立てる帝とコスモのラップは真夏の日差しに負けないほどに輝いて、砂浜中の注目を集めている。昨夜考えたばかりの歌詞なのに、翌朝には特待生の想像を遙か先ゆく完成形で現れ、浜辺の観光客たちをを魅了した。もっとも、特待生が言葉をなくして呆けていられる猶予はほとんどなかった。怒涛の勢いで海の家に人波が押し寄せる。
「ご新規さんオーダーです!」
「いらっしゃいませ!」
「3卓さんオーダー入ります。焼きそば、おにぎり、唐揚げオール2で」
厨房もホールもフル稼働。元は呼び込み要員の特待生も、外に出る余裕など一ミリもない。
「ごちそーさん」
「パパ、『やきうどーん』おいしかったね~」
「ありがとうございまーす!」
志朗を中心に昨夜練ったオペレーションが功を奏して、忙しいながらも取りこぼしなく海の家の業務が回っていく。
「特待生さん、そろそろ休憩時間ですが」
コスモの声掛けに、特待生は重ねた皿やカトラリーを抱えて振り返った。
「ありがとうございます、でもピーク過ぎるまで残ります」
「助かります。無理は禁物ですよ」
ランニングや筋トレ、日頃の鍛錬が役に立って良かったと思う。呼び込み中心だった昨日と比較すると日差しがないのもかなり楽に感じる。そしてやはり一番の要因はチーム連携が取れていることだ。何を見てどんな作業するかが明確になっているぶん効率的に動ける。慌ただしいなりに軽やかな足取りで順調にホール業務をこなしていた特待生だが、ぐいと手首を掴まれて唐突に停止した。
「ねー。中ジョッキ追加で三つちょーだい、あとイカ焼き二つ」
特待生を呼び止めた男性客は、無遠慮に真っ直ぐ特待生を見るようでいながらも、焦点が合っていない。これは相当に酒が回っている。
「ありがとうございます。6卓さん中ジョッキ3、イカ焼き2です! ……えっと」
掴まれた手首はけっこう痛い。力の加減ができないほどに酔っているのだろう。離してもらえる気配もない。
「君、かわいーねえ。高校生? バイト? おごってあげるから休憩時間にあそぼーよ」
「おいおい、店員さんこまってんだろー。ていうかさー、そいつより俺と遊ぼ?」
「あはは、ありがとうございます。よろしければお水をお持ちしましょうか?」
たからハンバーガーとは勝手が違う、酔っぱらい客も想定されるが笑顔で穏便に乗り切るべし。事前に注意されていたことではあるが、こんなときほど店の混雑ぶりが目について、悠長に対応する時間が惜しくなる。平和的解決を目指す気持ちと力任せに振り切ってしまいたい衝動とが葛藤して脳内が焼け付く中、ふと場違いな甘い香りが鼻をかすめた気がした。
「お兄さん方。悪いけど、この子は俺のなんだよね~」
背後から肩を抱かれ、もう一本の手がさらりと特待生の手首を払う。仕草はあまりに鮮やかで、男性客の拘束は呆気なく外れた。
「バイトとは言え、俺以外の男に触れられると妬けちゃうなー。ね、ひかりちゃん?」
振り向かずとも、彼の声と匂いを間違えようはずがない。だけどどうしよう、どうすればいい。官能的な音色に心臓がどくどく脈打つ中、ふと昨夜の海辺で荒木に翻弄された一場面を思い出した。悔しかった、もう負けたくない。昨日だって、ラップの担当決めジャンケンにも誘われなかった。特待生の実力がまだ及ばないことを、自分自身を含め全員が暗黙のうちに承知していたからだ。追いつきたい。彼らは仲間であると同時にライバルだから、食らいついていつかは追い越す。
(できるできるできる……私はこの人の恋人! ふわふわで甘えん坊の、愛らしい女の子! だからこんなときはきっと……)
振り向きざま、特待生は思い切って彼の首元に縋り付いた。
「ふえぇぇん! 会いたかったんだから、モモくんのバカバカ!」
「アハハ! ごめんごめん」
櫻井百瀬の手がごく自然に腰に回され、抱き寄せられる。特待生が意図して出したわかりやすいアニメ声に、客たちの視線が集まるのを感じて「いける」と確信した。
「俺も会いたかったよ、……狂いだしそうなくらいに君が欲しかった」
低音と吐息に、身体の芯がぞくっと痺れた。百瀬の甘い匂いがゼロ距離で鼻腔を満たし、クラクラする。少し離れた場所からは桜花のように切なく漂う、けれど至近距離では熟れた果実のように甘ったるい香り。罪深い蠱惑の香り。あけすけに言ってしまえば、下腹部がきゅうっと収縮するのを感じる。もうこの勢いにすべてを委ねよう。彼しか視界に映らない女の子になれそうだ……いや、なれる。打ち合わせ無しの即興劇が始まった。
「すごーい、これ乙女ゲームショー?」
「ねー、最初は店員さんが絡まれてると思ったからびっくりしたよ」
店内がどっと盛り上がる。客たちが百瀬と特待生の演技に見入っている間、注文が一時的に止まり、Re:Flyメンバーにも余裕が生まれた。「お客様? よろしければお水をどうぞ」「あ、ああ……」帝は至極にこやかに微笑み、コップを例の客の卓上に置く。
「あはははっ、待てよ~」
「うふふ、捕まえてごらんなさ~い」
海の家にお花畑が咲く頃には、酔客たちの意気も完全に削がれていた。
「このまま本当の恋人同士になっちゃう?」
「全力でノーサンキューです……」
「うんうん、ガードが堅いのって燃えるよねえ」
百瀬は臨海合宿には参加できなかったものの、仕事終わりついでに通りがかったらしい。インプロ終了後、立夏がやや強引に彼をホールスタッフへ引き入れた。結果、人手は増えたが女性客も増えた。昼食目的と思われるピークは十五時近くまで続き、ようやくテーブルにも空きができる。軽い雑談をするゆとりができたところで、お約束のように百瀬に迫られた特待生はお約束で後ずさる。
「……でも、ありがとうございました。櫻井先輩のフォローがなければインプロ成立しませんでした」
「そうだな。率直に言って合格点はやれない。櫻井のフォローあっての結果だ」
横から立夏が加わった。ぴしゃりと正直な評価を受けて、特待生の身体が強張る。
「しかしあの状況からよく立て直したな」
立夏は一転して口元を緩め、頭を撫でてくれた。甘やかし方が大変にお上手。安定のお兄ちゃんぶりだ。
「浅い演技でした。全部が中途半端で悔しいです……声質が安定しないし、照れも残ってました。結局、演じるイメージが固まりきってなかったんです」
「こういうのは場数だよ。数をこなせば度胸もつくし、以前に深く演じたキャラに近いものならするっと出てくるだろ?」
「では、閉店までに我々Re:Flyも、全員ランダムなタイミングで特待生さんにインプロを仕掛けるというのはいかがでしょう」
「ひいっ!?」
立夏に続いてコスモが参入し、とんでもない提案が飛び出した。
「なんすかそれ、めっちゃ面白そう」
「ふふ。待っててね、特待生」
厨房からも参入者現る。可愛い顔して、なんと恐ろしいことを楽しげに話すのだろう。それでも特待生はわかってもいる。Re:Flyの胸を借りられるなんて、贅沢すぎる特別課題だということくらい。「ど、どんとこいやあ……」とぎこちない作り笑いを浮かべるのが精一杯。語尾が頼りない特待生を庇うかのように、百瀬が割り込む。
「それは楽しそうだけどさあ、Re:Flyが特待生ちゃんを独占してるのは気に入らないな。ねえ夜来、労働の見返りにちょっと彼女を借りたいんだけど?」
「む……そういえば特待生は休憩も取れていなかったな」
立夏としても、百瀬を店員として強引に引き入れたことにそこそこ後ろめたさがあるのだろう。どうしたものかと周りのRe:Flyメンバーの顔を見回している。
「いやいや、私は現物支給品ではないので……休憩返上で働いたのは皆さんも同じですし」
「ねえ、特待生ちゃんは俺といるのがそんなに嫌なの?」
「へっ? あの、いえ、そういうわけでは、ないんですけど」
痛いところを突かれた。酔っぱらいに絡まれたのを助けてもらった上に、小動物のような目で見つめられ、それでもなお百瀬を拒絶することができようか。「順繰りに休憩は取るが、まずは特待生から」と話がまとめってしまったのであった。
ミラーレス一眼から、作り物のシャッター音が響く。
「ほら~、笑って笑って。君は笑顔が一番だと思うよ?」
「私が撮影係なんですってば。しかもそのカメラは……」
「蛍に借りたんでしょ? 同室の俺がちゃんと事後承諾とっておくから大丈夫」
抜け目のない受け答えに特待生がぐうの音で唸る。杉石珪に倣うというほどでもないが、グラン・ユーフォリアまでの生徒たちの軌跡を形に残しておきたいと思っているのだ。活動日誌ではないけれど、デジタルデータを活用して特待生流の形にしたい。それで蛍に手ほどきを受けつつ、生徒たちの日常を撮影しているのだ。休憩前に海の家で百瀬が購入したソフトクリームは、なぜか特待生に「はい、ごほうび」と手渡され、その隙にカメラを奪われてしまった。海の家が忙しすぎるせいでデータ量は十分空きがあるとはいえ、遠慮なくシャッターを切り続ける百瀬に特待生は心底嫌そうな顔を向ける。
「ふぅん……じゃあ言い方を変えようか。今後グラビア撮影とかもあるかもしれないよ、いきなりプロに撮られる前に予行演習してもいいんじゃない? さっき夜来に言われたばかりだよ、場数が大事だってさ」
今度こそ、ぐうの音も出ない。とはいえ笑えと言われて自然な笑顔を作るのも難しい。顔筋をひくひくさせる特待生を百瀬が可笑しそうに眺めている。
「しょうがないなあ。じゃあ百瀬って呼んでくれたらカメラ返してあげてもいいよ。初めて会ったときから言ってるでしょ?」
その言葉で、入学早々にPrid'sへ丸腰で突っ込んで玉砕した日々が蘇る。たしかに、茶室の前で初対面の彼とそんな会話をした記憶がある。目を見開いた特待生に艶やかな微笑みが向けられた。
「そりゃあね、忘れないよ。俺が名乗る前から名前を覚えてくれてたんだから、嬉しくないわけないでしょ」
「……カメラ返してください、百瀬さん」
櫻井百瀬という人物を知るたびに、それはモテるだろうなと納得させられるのが悔しい。もちろん口には出さない。満足げに弧を描く唇は美しい薄紅色で、彼独特の甘い匂いに酔いそうになる。くらっとしたのは暑さのせいだと思いたい。
「でもね、返す前に一枚くらいは笑った顔撮らせて。『櫻井先輩、ずるいです。俺だって特待生さんと砂浜デートしたかったのに』なーんて蛍に言わせたいし?」
突然に声色を変化させた百瀬をぽかんと見つめたあと、特待生は我慢できずに吹き出した。すかさずシャッターが切られても、もう笑いを収めることができない。
「あはははは! 蛍先輩はそんなこと言いません、解釈違いですよ。……けど、その点を除けばすごく似てました」
「こう見えても芸の幅は広いからね」
一度緩んでしまった頬は元に戻らず、夏の海を背景に撮って撮られて、二人で自撮りもどきまでしているうちに休憩時間が終わってしまった。急ぎ足で海の家に戻り、業務を再開する。
「さーて、いまいち気乗りしないけど男どもの写真も残しておくかね」
百瀬は特待生に代わってRe:Flyたちの写真も撮ってくれるようで、ホールの三年生を何枚か撮り納めてから厨房に侵入し、二年ズたちの様子を窺っている。離れた場所で接客していると会話の内容まではこちらに聞こえてこない。
「そういえば言いづらいから気になってたんすけど……。櫻井センパイ、どうしてあそこまで特待生ちゃんに嫌がられてるんすか?」
「Prid's、最初の塩対応ぶりがひどかったって聞いてますよ。蛍とは楽しそうに話してるとこ見ますけど」
両手に握ったコテで鉄板の焼きそばを混ぜながら志朗が言う。宙は合いの手を入れながらも皿洗いする手を緩めない。
「うーん。表向き人格者の特待生ちゃんがあからさまに嫌がる、冷静にあしらえないっていうのはじゅうぶん特別扱いだと思うけどね。君たちにはまだ難しいかな」
談笑しつつも百瀬はそつなく仕事風景を撮影し、空と海の色が変わりはじめた頃に宝石が丘学園へと戻っていった。昼ほどではないにせよ、じきに夕食に合わせたピークが来るに違いない。へろへろの手足に鞭打ちながら、Re:Flyと特待生は残り体力を振り絞った。
「うん、売上目標を見事に過達! 前年比二倍、前日比なんと一〇倍だ。よく頑張ったな、お前たち」
「一〇倍って、すごい」
「やった~……」
店じまい後、荒木の報告を受けて宙と志朗が真っ先に声を上げたが、リアクションにいまいちキレがない。喜びに追いつかないほど全員が心身ともにくたびれきっている。とはいえ悪くない疲労感だ。
「さらに朗報だぞ。スタッフも復調し明日には戻れるそうだ。よって明日は全員、一日海で遊ぶことを許可する!」
「マジっすか!?」
「やったー!」
疲れも吹き飛ぶ魔法のお薬のような言葉に、今度こそある者は喜んで抱き合い、ある者は歓声を上げた。もはや臨海学校とは何なのか。相変わらず型破りの宝石が丘学園には呆れる部分もあるが、こみ上げる楽しさを隠しきれずに特待生も仲間たちの輪に加わった。
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