宝石の小枝
35
二泊三日の臨海学校も気がつけば今日でおしまい、夜には帰路に就く。二日間を海の家のお手伝いに費やしたRe:Flyと特待生に、三日目は丸一日の自由行動時間が与えられた。特待生も今朝は水着にパーカーを羽織ってビーチに出てきた。よくよく考えれば、目の前に海があったのに二日間足先を浸す程度に留まっていたのが不思議なくらいだ。自称おじさんの荒木はゴロゴロする……もとい生徒たちの監視役を引き受ける、とビーチパラソルを広げて早々にくつろぎはじめてしまった。必要以上に手を貸さず成長を見守る彼にも、彼なりの気苦労があるのだろう。自称高校生にして自称宇宙人のコスモも「ふむ。それでは私も便乗といきましょうかね」と荒木のパラソルへ向かおうとする。が、それを志朗が引き止めた。
「コスモさん、オレずっとビーチバレーがやりたかったんすよ! 宙もやるよな?」
「え、うん。やりたい」
「つっても宙と二人じゃ無理ないすか? 立夏さんとコスモさんも行きましょうよ! 身長的にもバッチシ釣り合い取れるし」
志朗は大きな瞳をキラキラさせながら、期待の眼差しをコスモと立夏に向ける。
「俺は構わないぞ、コスモは?」
「それではありがたくお誘いに乗りましょう。ボールは私が海の家で借りてきますよ」
「よーし、そうと決まったらオレらはコート取りに行くぞ~! ミカさんと特待生ちゃんも良かったらあとで参加してくださいっ」
言うが早いか、志朗は宙を引き連れ勢い良く走り去ってしまった。立夏も歩きながら二人の後を追い、コスモは一旦海の家に向かう。あっという間の出来事にぽかんと口を開けたまま、特待生と帝が残された。
「あ……置いていかれちゃいましたね。せっかくだし海で泳ぎますか?」
「むう。泳げないことはないが、あいにくこれがネックでな」
帝が眼鏡のつるを軽く持ちあげてみせる。「あはは、たしかに。そうでしたね」特待生は曖昧に笑ったが、しゅんとしぼむ。そして、しばし沈黙したのちに意を決して口を開いた。
「これって絶対、気を利かされてますよね」
視線を揺らす帝の狼狽具合を見極めながら、そのまま言葉を続ける。
「青柳先輩と私が気まずくなってるの、みんなにもバレてるんですね……」
帝は一瞬だけ目を見開いたかと思うと、苦笑まじりに吹き出した。
「ははっ、いきなり何を言うかと思えば。誰と誰が気まずいって?」
「先輩と私です」
「それは君の思い過ごしだよ。俺のほうはなんの自覚もないぞ?」
「そんなことないです。だって夜の電話のこと何も教えてくださらないし、昨日も青柳先輩だけ、インプロを……っ」
特待生は最後まで言い切れずに肩を落とす。昨日の営業中、ランダムなタイミングでRe:Flyから特待生にインプロを仕掛けようとコスモが提案したが、帝からだけは閉店まで声がかからなかった。それどころか業務上で必要最低限の会話しか交わしていない。
「本当に杞憂だよ、ラップで頭が一杯だっただけだ」
予想通りの返答に落胆する。彼は見透かされることまで想定した上で、こうやって理由を語れば深く追求できないとわかっているのだろう。唇を噛んだ特待生に、帝は必要以上に優しく語りかけた。
「あ~、そうだな。本気泳ぎは無理だが、水際で砂遊びでもどうだ?」
一方その頃。ビーチバレーのコート目指して走る志朗に、並走する宙が問いかける。
「ねえ志朗。さっきのって気を利かせてた、よね?」
「……へへ。櫻井センパイへ反撃~、みたいな? いや、もちろん本気じゃねーけどさ」
「うん、わかってる。わかるよ。俺も、特待生のネクタイがミカさんのお下がりって知ったらやっぱり……やり過ぎない程度に応援できたらいいなって思う」
「なるほどそういうことか」
「のわっ!? 立夏さんいつの間に」
二人のすぐ背後にはいつの間にか立夏が迫っていた。会話はすべて聞かれていたようだ。
「止めはしないが、うちのリーダーは意外と繊細だからな。あからさますぎると何しだすかわからんぞ」
志朗と宙は顔を見合わせたあと、背筋を伸ばして立夏に敬礼した。
「……うぃす! 気をつけます」「肝に銘じます!」
さらにもう一方のグループ、ビーチで仰向けに転がり目を閉じた荒木はと言えば、もともとパラソルに遮られている瞼の裏が一段階暗くなったのを感じて、うろんげに目を開いた。マスクを下げたコスモ――いや、幸弥が剣呑な視線でこちらを見下ろしている。
「んだよ。志朗たちが待ってんだろ、早く行ってやれ」
「言われねぇでもすぐ行く。おい荒木、お前はこれでいいのか?」
「ああ? 何の話だ」
荒木の返答に、幸弥は心底不愉快そうに歪めた口元をマスクで覆い隠した。
「案の定シラを切りますか。あとで痛い目を見ても知りませんよ?」
「それな。痛い目に遭いたいんだよ、俺は」
「……ちっ」
舌打ちを投げつけて、コスモはビーチボールを手に志朗たちの元へ向かった。
帝とは以前にもこんなことがあったなと特待生は思い返す。互いの本心を隠し合いながら仲良しのふりを続けた日々は、一悶着の末、とりあえず丸く収まった。当然ながら、あのときのように激情のままに暴走して解決というわけには行くまい。漠然とした淀みを心に抱えながらも、特待生は気を取り直して帝の指示通り砂遊びの道具を調達した。
「よいしょ、っと。こういうのは土台が大事なんですよね」
作ろうとしているのは、大人の本気を見せつける大きな砂の城だ。海の家から借りたバケツで砂に海水を含ませ、ぎゅっぎゅと密度を限界まで高めるように押し込めながら、砂山を作っていく。
「ほうほう。特待生、わかっているではないか」
お褒めの言葉を賜れば満更でもない。
「やるからにはお遊びで終わらせませんよ!」
口角を引き上げ胸を張った。余計なことは考えず、今はこの作業に没頭したほうが笑顔でいられる気がする。
「そういえば昨日、櫻井とは何をして遊んだんだ? なんというか、君と櫻井は仲が良いのか悪いのかわからんな」
「あー……。ははは、なんででしょうね、Prid'sの皆さんには最初にこてんぱんにされてるからかな? 正直、今でも身構えちゃうことはありますよ」
帝の問いに苦笑まじりに応じる。百瀬とは初対面が最悪だったとはいえ、毎度のことながら大人げない言動ばかり取ってしまうし、それを第三者からしっかり見られているのはきまりが悪い。
「あとは、そうですね。櫻井先輩の声とか……香水? の匂いですかね。なんとなく落ち着かなくて。揺らすような、煽るような感じありますよね」
「香水? ……いや、たしか橘が甘いとか眠くなる匂いだとか言っていたかな。俺はわからんが、君も味覚や嗅覚が鋭い方だし、わかるやつにはわかるのかもな」
「そうなんですか。央太くんの嗅覚には敵う気がしませんけどね」
雑談を交えながら着々と作業は進む。帝が小さなスコップの側面をヘラのように器用に使いこなし、滑らかな屋根の曲線を作り上げていく。爪楊枝を使って細かいディティールを削り出す様は見ているだけで飽きない。
「午前中いっぱいはこれで楽しめそうだな。午後はビーチバレーにでも合流するか」
「あ、私は昼過ぎから合宿所のみんなに合流するつもりです。Re:Flyの皆さん以外の写真も撮りたいし、通常メニューの臨海学校も経験しておきたいので」
志朗が早々とみんなを引き連れてしまったためだが、朝の集合時に切り出しそこねた話をすると、帝は爪楊枝を動かす手を僅かに止めた。
「へえ、さすがはグラン・ユーフォリア総指揮だ。俺としては少し寂しいがな」
表情も変えずにするりとそんな台詞を吐くなんてずるいと思う。距離を置いた理由も教えてくれないくせに、どの口がそんなことを言うのだろう。やるせなさを濡れた砂に押し込めて、特待生は帝が作業するのと反対側の土台作りを進めていく。彼が手がけた箇所を手本に、おっかなびっくり対称形の屋根を整えたり、無理そうな箇所は思い切って帝に任せた。
ふと気がつけば砂山は特待生が両腕を広げて抱えるくらいの大きな城となり、周囲では数人のギャラリーが完成のときを見守っていた。削り出した残りの僅かな砂を楊枝で慎重に払い除けて、帝が「よし」と立ち上がる。
「カカカ、ついに完成だ! 城主はもちろん、この青柳みか――」
高らかな宣言のさなか、一際大きな波が足元まで打ち寄せた。帝と特待生を含め、周りの誰もが固唾を呑んで完成を見守っていたから、精巧な城が瞬く間にいびつな砂山に変わってしまったことに揃って絶句した。少し遅れて小さな子どもが「こわれちゃった!」と声を上げる。続いて大人たちの何人かが「残念でしたね」「すごかったです」と励ましのコメントを残しながら波と同じに引いていった。
「……あっけないものですね……」
すっかり小さくなった盛り土を呆然と見下ろしながら、特待生は呟いた。不覚にも目尻に涙が溜まりはじめている。それらが頬にこぼれ落ちたところで帝を困らせるだけだと知っているから、ぴくりとも動けない。ゆっくりとこちらへ歩み寄る帝の爪先がうつむいた視界に入ってくる。長い指が、こぼれる寸前の雫を掬い取ろうと目元に伸びる。
「ああ、グラン・ユーフォリアのことを思い出させてしまったんだよな。すぐに心の傷は癒えないだろうが俺たちは」
「……っ、私! あそこの大岩まで泳いできます。これ預かってください」
特待生は突如、パーカーをためらいなく脱ぎ捨てると帝へ押し付けた。ぎょっとした彼が動きを止めた隙に波間へと走り出す。水飛沫を立てながら太ももあたりまで浸かる深さまで進んだところで海面に身体を投げ出した。
自分は彼に何を言ってほしかったのだろう。帝が自分を案じてくれたのは明白なのに、そうじゃない、違うと拒絶した。何かと問われても言語化できないもどかしさが、乱れた肺呼吸とリンクする。苦しい。泳ぎには自信があるほうだから、目測数十メートル先の大岩くらい自由形で泳ぎ切れると思っていたのに。息継ぎのたびに口内に磯の香りが満ちる。プールと海は勝手が違う。そう、勝手が違う。ちょっと前まで電車の吊り革が頭にカツカツぶつかっていたはずが、今ははるか頭上にあることに戸惑う。白雪零の抱えた荷物を引き取るときも、以前の腕の長さならもっと沢山の量が持てたはずだ。ダンスが苦手なのも、この身体に微細なレベルでは馴染めていないことが大きい。肉練の成績はむしろ良いほうなのだ。天音ひかりが十七年間培ってきたであろう高い運動能力を持て余している。特待生自身が積み上げた目測や経験と噛み合わない。何もかも噛み合わない。うまくいかない。
自分は異物だ。形も合わないのに無理やり嵌め込まれたパズルのピースだ。黒曜護のように人智を超えた力を持つ者や、理屈の通らない不可思議な出来事が存在するのは事実だろう。それでも、他人の身体に自分の記憶だけが移されるなんて意味がわからない。脳が記憶装置だとすれば、この頭蓋に収まっているのは誰の脳だ? 次の眠りから目覚めるときにはすべてが夢に変わっているかもしれない。この騒がしくも満ち足りた日々だって、砂の城と同じなのだと突きつけられる日がいずれ来る。だから自分は帝の前から逃げ出したのだ。
波に身体を押し戻されながら、しっくりこない手足でひたすらもがいた。寄せる波を受け流し、前進の力に利用するコツを覚えた頃に、息も絶え絶えで目的地、大岩の端を掴んだ。
「浮き輪なしで来た! ねーちゃんすげー」
「クロールのタイムどんぐらい? 教えて!」
小学校三、四年生くらいだろうか。先客らしき二人組の少年が特待生に駆け寄ってきた。ぜえはあと乱れた息を晒すのもみっともなくて、言葉少なに「……いぇい」とVサインを示して応える。腰を下ろし、呼吸を整え、周囲を見回した。少年たちが言うように、たしかにボートや浮き輪で乗り付けた者が大半のようだ。身体一つで泳いできた特待生は少数派らしい。直径一〇メートルほどの岩山では、数組のグループが登ったり飛び込みをしたりして遊んでいるが、少年たちの保護者らしき年齢層は見当たらない。
「君たち二人だけで来たの? 大丈夫? 帰りに足が攣ったり流されそうになったりしたらすぐ大声出すんだよ?」
準備運動もせず泳いだ自分が言えた義理ではないのだが、そんなお節介がまろび出た。瞬時、到着時はフランクに話しかけてくれた少年たちの視線が、口うるさい親に対するときのそれに近いものに変化し、心的距離を置くのが見えた。
「え。おねーさんてさ、実は俺らよりずっと年上?」
固定観念の補正を受けない子どもの観察眼は恐ろしい。ほぼ真実を見抜いている。薄ら笑いでごまかしながらも舌を巻く特待生の耳に、下方からにわかに信じがたい声が届いた。
「こら! 本気泳ぎは無しだと言っただろう」
恐る恐る、ゆっくり時間をかけて振り向く。いくらなんでも早すぎやしないだろうか。特待生が泳ぎはじめたあとに海の家にボートを取りに行って、海辺まで運んで浮かべて、この大岩まで漕いできたにしては早すぎる。
「カレシだ」「カレシ!」
言葉を失った特待生を少年たちが囃し立てた。否定しようにも声の出し方を忘れてしまったのか、肘から上をバタバタ振るのが関の山だ。大岩に横付けされたボートにそろりそろりと爪先を踏み出す。差し伸べられた手を取ると強引に引き寄せられた。すぐ前にある帝の真剣な顔。額には玉の汗が浮かんでいる。この人は何でもそつなくこなすけれど、そう見えているだけで周囲の想像をはるかに上回る努力をしている。そして今も懸命に追いかけてきてくれた。気づいてしまったら、また目から塩水が流れ出そうになる。
「まったく……一人でここまで来て、昨日みたいに変なやつらに絡まれる可能性は想像しなかったのか?」
「ごめんなさい。軽率でした」
「それとも、また櫻井に助けてもらうほうが良かったか」
「え?」
「ほら、日焼けしたくないだろ」
パーカーをぶっきらぼうに被せられた。それを見た少年たちが再びはしゃぎ声でからかってくる。特待生は彼らを軽く睨みつけ、それからふっと笑った。
「君たちも気をつけて帰りなね」
「あー。はい、はい」
「お幸せに~」
大岩を離れたボートは、このまま陸地に直行というわけでもないらしい。帝は器用にオールを操り沖合へと漕ぎ出していく。
二人きりになった舟の上で帝と対峙する。彼の髪が、照りつける夏の太陽を受けて輝いている。頭頂部近くからさらさら流れ落ちる長めの前髪は、どことなくアンニュイで綺麗だなといつも思う。が、次の瞬間にアンニュイとは程遠い光が丸眼鏡の奥に現れたかと思うと、あっという間に身体ごと海の中へと消えた。
「はあっ!? 先輩! 眼鏡、眼鏡は!」
特待生もパーカーを脱ぎ捨てて海に飛び込む。鋭い角度でぐんぐん水底に進んでいく帝を追いかけた。速い。先ほどまで本気泳ぎは無理だと言っていた人間のやることか。追尾する特待生に気づいたのか、帝がこちらを振り向いた。特待生が水中ながらも必死に「眼鏡は大丈夫なのか」ジェスチャーを送ると、帝はごぼごぼと返事をして(たぶん「うーん」とか言っている)浮上を始めた。
「どうしたんだ特待生、いきなり追ってくるからびっくりしたぞ」
「いやいやいや、こっちの台詞ですよ。眼鏡が錆びちゃいますよ」
「浜に戻ったらすぐに真水で洗うよ。いやぁ、ここの海は綺麗だし、食べ物がうようよいるな。あの魚を全部捕まえられていたら、どれほどの食費が浮いたことか!」
「食べ物……?」
素潜りでモリもなしにホモサピエンスが魚を捕まえられるのか。違う、問題はそこではない。
「すみません。食材調達の邪魔をしてしまいましたか……」
「まあいいさ。魚を入れる容器も持ってきていなかったしな」
「そ、そうですよね、お魚がボートの上で苦しそうにしてるの見ていられないですよね」
「ん? ああ、そうだな。俺としたことがデリカシーに欠けていたな」
このやり取りが漫才ならば救いがあるのに。食卓に並ぶ肉や魚を胃に収めておきながら、残酷だと思う自分が甘ちゃんだ。実際、彼はどれだけ困窮しているというのだろう。もやし栽培と豆苗のリサイクルくらいなら特待生にも経験がある。社会に出てみれば上には上がいるもので、ガスの基本料金さえ払うのが惜しくて契約解除、冬も真水シャワーを浴びる猛者に会ったことがある。それでもなお、海水浴場で泳いでいる魚を食材に使うのは常軌を逸していると思う。特待生が食材費を持つかわりに一緒に調理と食事をすることが少しは役に立っていればいい。プロテインとトレーナーにお金を払って筋肉を付ける人々もいる時代、よくこれだけ立派な体つきをしていると驚くくらいだ。度を超した節約の日々。雅野家の血筋。留年の理由。脳裏にちらつくノイズを振り払う。知りたくない、詮索などいらない、目の前にいるこの人のいまを見ていればそれでいい。自らに言い聞かせる特待生はおそらく縋るような目で帝を見ていた。特待生の視線をまじまじと見返して、帝はふわりと微笑んだ。
「……昨日のインプロ、良かったぞ。俺は声をかけてやれなかったが、回を重ねるごとに上達しているのはちゃんと見ていたよ」
特待生は反射的に頭に手をやっていた、撫でられたと思ったのだ。声を触覚で感じることができると知ったのは、初めてこの人に出会ったときだ。触覚だけではない。五感のすべてで、あるいはそれ以上の何かでこの人を感じている。
「私はまだまだです。それに、即興とか自分では結構得意なつもりでいたんです。でもレッスン室でできていることが、お客さんの前だと真っ白になって……」
少し陰のある微笑みで「わかるよ、そういうの」と帝が返す。ほころぶ青薔薇のつぼみ、まだ若い棘に触れたときのように、胸が柔らかくもチクリと痛んだ。
「けど、お客さんに喜んでもらえるのもレッスン以上に嬉しかったです。生だから伝えられることや通じ合えることがきっとあるんですね! グラン・ユーフォリアが楽しみです」
今までとは明らかに違うニュアンスで、プレッシャー抜きに純粋に、特待生は伝説の祭典が復活する日を楽しみだと思えた。青色が自らの内に満ちていくのを感じる。たしか、ウルトラマリンという名の油彩絵の具があった。響きからして美しく、手に取るだけで嬉しくて、パレットに出してしばし眺めたりもした。特待生のキャンバスにはこれまでの人生が幾度となく塗り重ねられている。ふとしたときに剥がれ落ちた箇所から、失意や絶望の色が見えることもある。けれど今は、どこまでも美しい青色で塗り潰される。生きる意味さえ見出せなかった入学式。困難の末に掴んだはずのグラン・ユーフォリア再興が立ち消えそうになった時期。煌介とあかりに再会し、自己嫌悪に飲み込まれそうになった夜。初めてすき焼きを作ってもらった日も、取り返しのつかない暴走をしでかしたゲリラ豪雨の日も、自分という存在の消滅に怯えた今日この日も。掬い上げてくれたのはこの人だった。
「初めてお会いしたときから、ずっとです」
比較するのは気が咎めるが、気がついたことがある。特待生にとって百瀬の声や匂いが高揚を誘うなら、帝の存在は平穏と安寧を与えてくれる。まどろみの青。
「青柳先輩の声、いえ、声だけじゃなくて……先輩といるとすごく落ち着きます。心がゆらゆらして、このボートが笹舟でも泥舟でも、きっと青柳先輩と一緒なら安心してしまうんです。いつもありがとうございます」
今どうしても伝えたい。思いついた端からとりとめなく浮かんだことを口にしていく。
「そうだ、お姫様抱っこして運んでくださったときもすごく気持ちよかったです!」
満面の笑みで言い放って、はたと気付く。赤い。特待生に青をもたらす青柳帝の顔が、見たことがないほどに紅潮している。今更ながら自分が喋り続けたことを思い返せば、お口にチャックの速やかな商品化が求められる。
「……なるほどな、やっぱりそういうことか。君は、昨日の電話で、俺と一緒に寝たら気持ちいいって言ったんだよ」
「は?」
青色の力で鎮静したはずの特待生にも、帝の熱が延焼する。
「そんな、そんなこと言ってました? あのっ、あのそれはきっと、隣で眠ると落ち着くという意味で、深い意味はないんです」
「知ってる。知ってはいるが、それで翌日まともに喋れというのも酷だろう?」
「その通りです。返す言葉もございません。誠に申し訳ございませんでした! あああ、お口にチャック早く実用化されませんかね!」
ぺこぺこと頭を下げて、そのまま三角座りで顔を膝に埋めた。フードを被って力任せに引き下ろし、真っ赤なこと確実な耳も隠そうとする。自分が彼の立場なら顔も合わせられる気がしないのに、インプロを仕掛けてくれない程度で拗ねていたのが心底情けない。
「お、お詫びに寮に戻ったらしばらく牛肉を贈らせてください。キャビアでもフォアグラでもなんでも。それくらいしかできなくてすみません!」
自らを圧縮しそうな勢いで縮こまりながら返答を待っていると、しばしの沈黙の後、帝が得心したように「ふむ」と言った。
「櫻井は特待生を助けた対価としてデートしたわけだよな。同一労働同一賃金、つまり今の俺にもその権利があると言えるな? さらに八月二日、パンツの日は俺の誕生日でもある。これらを上乗せして……俺と一日デートしないか?」
「コスモさん、オレずっとビーチバレーがやりたかったんすよ! 宙もやるよな?」
「え、うん。やりたい」
「つっても宙と二人じゃ無理ないすか? 立夏さんとコスモさんも行きましょうよ! 身長的にもバッチシ釣り合い取れるし」
志朗は大きな瞳をキラキラさせながら、期待の眼差しをコスモと立夏に向ける。
「俺は構わないぞ、コスモは?」
「それではありがたくお誘いに乗りましょう。ボールは私が海の家で借りてきますよ」
「よーし、そうと決まったらオレらはコート取りに行くぞ~! ミカさんと特待生ちゃんも良かったらあとで参加してくださいっ」
言うが早いか、志朗は宙を引き連れ勢い良く走り去ってしまった。立夏も歩きながら二人の後を追い、コスモは一旦海の家に向かう。あっという間の出来事にぽかんと口を開けたまま、特待生と帝が残された。
「あ……置いていかれちゃいましたね。せっかくだし海で泳ぎますか?」
「むう。泳げないことはないが、あいにくこれがネックでな」
帝が眼鏡のつるを軽く持ちあげてみせる。「あはは、たしかに。そうでしたね」特待生は曖昧に笑ったが、しゅんとしぼむ。そして、しばし沈黙したのちに意を決して口を開いた。
「これって絶対、気を利かされてますよね」
視線を揺らす帝の狼狽具合を見極めながら、そのまま言葉を続ける。
「青柳先輩と私が気まずくなってるの、みんなにもバレてるんですね……」
帝は一瞬だけ目を見開いたかと思うと、苦笑まじりに吹き出した。
「ははっ、いきなり何を言うかと思えば。誰と誰が気まずいって?」
「先輩と私です」
「それは君の思い過ごしだよ。俺のほうはなんの自覚もないぞ?」
「そんなことないです。だって夜の電話のこと何も教えてくださらないし、昨日も青柳先輩だけ、インプロを……っ」
特待生は最後まで言い切れずに肩を落とす。昨日の営業中、ランダムなタイミングでRe:Flyから特待生にインプロを仕掛けようとコスモが提案したが、帝からだけは閉店まで声がかからなかった。それどころか業務上で必要最低限の会話しか交わしていない。
「本当に杞憂だよ、ラップで頭が一杯だっただけだ」
予想通りの返答に落胆する。彼は見透かされることまで想定した上で、こうやって理由を語れば深く追求できないとわかっているのだろう。唇を噛んだ特待生に、帝は必要以上に優しく語りかけた。
「あ~、そうだな。本気泳ぎは無理だが、水際で砂遊びでもどうだ?」
一方その頃。ビーチバレーのコート目指して走る志朗に、並走する宙が問いかける。
「ねえ志朗。さっきのって気を利かせてた、よね?」
「……へへ。櫻井センパイへ反撃~、みたいな? いや、もちろん本気じゃねーけどさ」
「うん、わかってる。わかるよ。俺も、特待生のネクタイがミカさんのお下がりって知ったらやっぱり……やり過ぎない程度に応援できたらいいなって思う」
「なるほどそういうことか」
「のわっ!? 立夏さんいつの間に」
二人のすぐ背後にはいつの間にか立夏が迫っていた。会話はすべて聞かれていたようだ。
「止めはしないが、うちのリーダーは意外と繊細だからな。あからさますぎると何しだすかわからんぞ」
志朗と宙は顔を見合わせたあと、背筋を伸ばして立夏に敬礼した。
「……うぃす! 気をつけます」「肝に銘じます!」
さらにもう一方のグループ、ビーチで仰向けに転がり目を閉じた荒木はと言えば、もともとパラソルに遮られている瞼の裏が一段階暗くなったのを感じて、うろんげに目を開いた。マスクを下げたコスモ――いや、幸弥が剣呑な視線でこちらを見下ろしている。
「んだよ。志朗たちが待ってんだろ、早く行ってやれ」
「言われねぇでもすぐ行く。おい荒木、お前はこれでいいのか?」
「ああ? 何の話だ」
荒木の返答に、幸弥は心底不愉快そうに歪めた口元をマスクで覆い隠した。
「案の定シラを切りますか。あとで痛い目を見ても知りませんよ?」
「それな。痛い目に遭いたいんだよ、俺は」
「……ちっ」
舌打ちを投げつけて、コスモはビーチボールを手に志朗たちの元へ向かった。
帝とは以前にもこんなことがあったなと特待生は思い返す。互いの本心を隠し合いながら仲良しのふりを続けた日々は、一悶着の末、とりあえず丸く収まった。当然ながら、あのときのように激情のままに暴走して解決というわけには行くまい。漠然とした淀みを心に抱えながらも、特待生は気を取り直して帝の指示通り砂遊びの道具を調達した。
「よいしょ、っと。こういうのは土台が大事なんですよね」
作ろうとしているのは、大人の本気を見せつける大きな砂の城だ。海の家から借りたバケツで砂に海水を含ませ、ぎゅっぎゅと密度を限界まで高めるように押し込めながら、砂山を作っていく。
「ほうほう。特待生、わかっているではないか」
お褒めの言葉を賜れば満更でもない。
「やるからにはお遊びで終わらせませんよ!」
口角を引き上げ胸を張った。余計なことは考えず、今はこの作業に没頭したほうが笑顔でいられる気がする。
「そういえば昨日、櫻井とは何をして遊んだんだ? なんというか、君と櫻井は仲が良いのか悪いのかわからんな」
「あー……。ははは、なんででしょうね、Prid'sの皆さんには最初にこてんぱんにされてるからかな? 正直、今でも身構えちゃうことはありますよ」
帝の問いに苦笑まじりに応じる。百瀬とは初対面が最悪だったとはいえ、毎度のことながら大人げない言動ばかり取ってしまうし、それを第三者からしっかり見られているのはきまりが悪い。
「あとは、そうですね。櫻井先輩の声とか……香水? の匂いですかね。なんとなく落ち着かなくて。揺らすような、煽るような感じありますよね」
「香水? ……いや、たしか橘が甘いとか眠くなる匂いだとか言っていたかな。俺はわからんが、君も味覚や嗅覚が鋭い方だし、わかるやつにはわかるのかもな」
「そうなんですか。央太くんの嗅覚には敵う気がしませんけどね」
雑談を交えながら着々と作業は進む。帝が小さなスコップの側面をヘラのように器用に使いこなし、滑らかな屋根の曲線を作り上げていく。爪楊枝を使って細かいディティールを削り出す様は見ているだけで飽きない。
「午前中いっぱいはこれで楽しめそうだな。午後はビーチバレーにでも合流するか」
「あ、私は昼過ぎから合宿所のみんなに合流するつもりです。Re:Flyの皆さん以外の写真も撮りたいし、通常メニューの臨海学校も経験しておきたいので」
志朗が早々とみんなを引き連れてしまったためだが、朝の集合時に切り出しそこねた話をすると、帝は爪楊枝を動かす手を僅かに止めた。
「へえ、さすがはグラン・ユーフォリア総指揮だ。俺としては少し寂しいがな」
表情も変えずにするりとそんな台詞を吐くなんてずるいと思う。距離を置いた理由も教えてくれないくせに、どの口がそんなことを言うのだろう。やるせなさを濡れた砂に押し込めて、特待生は帝が作業するのと反対側の土台作りを進めていく。彼が手がけた箇所を手本に、おっかなびっくり対称形の屋根を整えたり、無理そうな箇所は思い切って帝に任せた。
ふと気がつけば砂山は特待生が両腕を広げて抱えるくらいの大きな城となり、周囲では数人のギャラリーが完成のときを見守っていた。削り出した残りの僅かな砂を楊枝で慎重に払い除けて、帝が「よし」と立ち上がる。
「カカカ、ついに完成だ! 城主はもちろん、この青柳みか――」
高らかな宣言のさなか、一際大きな波が足元まで打ち寄せた。帝と特待生を含め、周りの誰もが固唾を呑んで完成を見守っていたから、精巧な城が瞬く間にいびつな砂山に変わってしまったことに揃って絶句した。少し遅れて小さな子どもが「こわれちゃった!」と声を上げる。続いて大人たちの何人かが「残念でしたね」「すごかったです」と励ましのコメントを残しながら波と同じに引いていった。
「……あっけないものですね……」
すっかり小さくなった盛り土を呆然と見下ろしながら、特待生は呟いた。不覚にも目尻に涙が溜まりはじめている。それらが頬にこぼれ落ちたところで帝を困らせるだけだと知っているから、ぴくりとも動けない。ゆっくりとこちらへ歩み寄る帝の爪先がうつむいた視界に入ってくる。長い指が、こぼれる寸前の雫を掬い取ろうと目元に伸びる。
「ああ、グラン・ユーフォリアのことを思い出させてしまったんだよな。すぐに心の傷は癒えないだろうが俺たちは」
「……っ、私! あそこの大岩まで泳いできます。これ預かってください」
特待生は突如、パーカーをためらいなく脱ぎ捨てると帝へ押し付けた。ぎょっとした彼が動きを止めた隙に波間へと走り出す。水飛沫を立てながら太ももあたりまで浸かる深さまで進んだところで海面に身体を投げ出した。
自分は彼に何を言ってほしかったのだろう。帝が自分を案じてくれたのは明白なのに、そうじゃない、違うと拒絶した。何かと問われても言語化できないもどかしさが、乱れた肺呼吸とリンクする。苦しい。泳ぎには自信があるほうだから、目測数十メートル先の大岩くらい自由形で泳ぎ切れると思っていたのに。息継ぎのたびに口内に磯の香りが満ちる。プールと海は勝手が違う。そう、勝手が違う。ちょっと前まで電車の吊り革が頭にカツカツぶつかっていたはずが、今ははるか頭上にあることに戸惑う。白雪零の抱えた荷物を引き取るときも、以前の腕の長さならもっと沢山の量が持てたはずだ。ダンスが苦手なのも、この身体に微細なレベルでは馴染めていないことが大きい。肉練の成績はむしろ良いほうなのだ。天音ひかりが十七年間培ってきたであろう高い運動能力を持て余している。特待生自身が積み上げた目測や経験と噛み合わない。何もかも噛み合わない。うまくいかない。
自分は異物だ。形も合わないのに無理やり嵌め込まれたパズルのピースだ。黒曜護のように人智を超えた力を持つ者や、理屈の通らない不可思議な出来事が存在するのは事実だろう。それでも、他人の身体に自分の記憶だけが移されるなんて意味がわからない。脳が記憶装置だとすれば、この頭蓋に収まっているのは誰の脳だ? 次の眠りから目覚めるときにはすべてが夢に変わっているかもしれない。この騒がしくも満ち足りた日々だって、砂の城と同じなのだと突きつけられる日がいずれ来る。だから自分は帝の前から逃げ出したのだ。
波に身体を押し戻されながら、しっくりこない手足でひたすらもがいた。寄せる波を受け流し、前進の力に利用するコツを覚えた頃に、息も絶え絶えで目的地、大岩の端を掴んだ。
「浮き輪なしで来た! ねーちゃんすげー」
「クロールのタイムどんぐらい? 教えて!」
小学校三、四年生くらいだろうか。先客らしき二人組の少年が特待生に駆け寄ってきた。ぜえはあと乱れた息を晒すのもみっともなくて、言葉少なに「……いぇい」とVサインを示して応える。腰を下ろし、呼吸を整え、周囲を見回した。少年たちが言うように、たしかにボートや浮き輪で乗り付けた者が大半のようだ。身体一つで泳いできた特待生は少数派らしい。直径一〇メートルほどの岩山では、数組のグループが登ったり飛び込みをしたりして遊んでいるが、少年たちの保護者らしき年齢層は見当たらない。
「君たち二人だけで来たの? 大丈夫? 帰りに足が攣ったり流されそうになったりしたらすぐ大声出すんだよ?」
準備運動もせず泳いだ自分が言えた義理ではないのだが、そんなお節介がまろび出た。瞬時、到着時はフランクに話しかけてくれた少年たちの視線が、口うるさい親に対するときのそれに近いものに変化し、心的距離を置くのが見えた。
「え。おねーさんてさ、実は俺らよりずっと年上?」
固定観念の補正を受けない子どもの観察眼は恐ろしい。ほぼ真実を見抜いている。薄ら笑いでごまかしながらも舌を巻く特待生の耳に、下方からにわかに信じがたい声が届いた。
「こら! 本気泳ぎは無しだと言っただろう」
恐る恐る、ゆっくり時間をかけて振り向く。いくらなんでも早すぎやしないだろうか。特待生が泳ぎはじめたあとに海の家にボートを取りに行って、海辺まで運んで浮かべて、この大岩まで漕いできたにしては早すぎる。
「カレシだ」「カレシ!」
言葉を失った特待生を少年たちが囃し立てた。否定しようにも声の出し方を忘れてしまったのか、肘から上をバタバタ振るのが関の山だ。大岩に横付けされたボートにそろりそろりと爪先を踏み出す。差し伸べられた手を取ると強引に引き寄せられた。すぐ前にある帝の真剣な顔。額には玉の汗が浮かんでいる。この人は何でもそつなくこなすけれど、そう見えているだけで周囲の想像をはるかに上回る努力をしている。そして今も懸命に追いかけてきてくれた。気づいてしまったら、また目から塩水が流れ出そうになる。
「まったく……一人でここまで来て、昨日みたいに変なやつらに絡まれる可能性は想像しなかったのか?」
「ごめんなさい。軽率でした」
「それとも、また櫻井に助けてもらうほうが良かったか」
「え?」
「ほら、日焼けしたくないだろ」
パーカーをぶっきらぼうに被せられた。それを見た少年たちが再びはしゃぎ声でからかってくる。特待生は彼らを軽く睨みつけ、それからふっと笑った。
「君たちも気をつけて帰りなね」
「あー。はい、はい」
「お幸せに~」
大岩を離れたボートは、このまま陸地に直行というわけでもないらしい。帝は器用にオールを操り沖合へと漕ぎ出していく。
二人きりになった舟の上で帝と対峙する。彼の髪が、照りつける夏の太陽を受けて輝いている。頭頂部近くからさらさら流れ落ちる長めの前髪は、どことなくアンニュイで綺麗だなといつも思う。が、次の瞬間にアンニュイとは程遠い光が丸眼鏡の奥に現れたかと思うと、あっという間に身体ごと海の中へと消えた。
「はあっ!? 先輩! 眼鏡、眼鏡は!」
特待生もパーカーを脱ぎ捨てて海に飛び込む。鋭い角度でぐんぐん水底に進んでいく帝を追いかけた。速い。先ほどまで本気泳ぎは無理だと言っていた人間のやることか。追尾する特待生に気づいたのか、帝がこちらを振り向いた。特待生が水中ながらも必死に「眼鏡は大丈夫なのか」ジェスチャーを送ると、帝はごぼごぼと返事をして(たぶん「うーん」とか言っている)浮上を始めた。
「どうしたんだ特待生、いきなり追ってくるからびっくりしたぞ」
「いやいやいや、こっちの台詞ですよ。眼鏡が錆びちゃいますよ」
「浜に戻ったらすぐに真水で洗うよ。いやぁ、ここの海は綺麗だし、食べ物がうようよいるな。あの魚を全部捕まえられていたら、どれほどの食費が浮いたことか!」
「食べ物……?」
素潜りでモリもなしにホモサピエンスが魚を捕まえられるのか。違う、問題はそこではない。
「すみません。食材調達の邪魔をしてしまいましたか……」
「まあいいさ。魚を入れる容器も持ってきていなかったしな」
「そ、そうですよね、お魚がボートの上で苦しそうにしてるの見ていられないですよね」
「ん? ああ、そうだな。俺としたことがデリカシーに欠けていたな」
このやり取りが漫才ならば救いがあるのに。食卓に並ぶ肉や魚を胃に収めておきながら、残酷だと思う自分が甘ちゃんだ。実際、彼はどれだけ困窮しているというのだろう。もやし栽培と豆苗のリサイクルくらいなら特待生にも経験がある。社会に出てみれば上には上がいるもので、ガスの基本料金さえ払うのが惜しくて契約解除、冬も真水シャワーを浴びる猛者に会ったことがある。それでもなお、海水浴場で泳いでいる魚を食材に使うのは常軌を逸していると思う。特待生が食材費を持つかわりに一緒に調理と食事をすることが少しは役に立っていればいい。プロテインとトレーナーにお金を払って筋肉を付ける人々もいる時代、よくこれだけ立派な体つきをしていると驚くくらいだ。度を超した節約の日々。雅野家の血筋。留年の理由。脳裏にちらつくノイズを振り払う。知りたくない、詮索などいらない、目の前にいるこの人のいまを見ていればそれでいい。自らに言い聞かせる特待生はおそらく縋るような目で帝を見ていた。特待生の視線をまじまじと見返して、帝はふわりと微笑んだ。
「……昨日のインプロ、良かったぞ。俺は声をかけてやれなかったが、回を重ねるごとに上達しているのはちゃんと見ていたよ」
特待生は反射的に頭に手をやっていた、撫でられたと思ったのだ。声を触覚で感じることができると知ったのは、初めてこの人に出会ったときだ。触覚だけではない。五感のすべてで、あるいはそれ以上の何かでこの人を感じている。
「私はまだまだです。それに、即興とか自分では結構得意なつもりでいたんです。でもレッスン室でできていることが、お客さんの前だと真っ白になって……」
少し陰のある微笑みで「わかるよ、そういうの」と帝が返す。ほころぶ青薔薇のつぼみ、まだ若い棘に触れたときのように、胸が柔らかくもチクリと痛んだ。
「けど、お客さんに喜んでもらえるのもレッスン以上に嬉しかったです。生だから伝えられることや通じ合えることがきっとあるんですね! グラン・ユーフォリアが楽しみです」
今までとは明らかに違うニュアンスで、プレッシャー抜きに純粋に、特待生は伝説の祭典が復活する日を楽しみだと思えた。青色が自らの内に満ちていくのを感じる。たしか、ウルトラマリンという名の油彩絵の具があった。響きからして美しく、手に取るだけで嬉しくて、パレットに出してしばし眺めたりもした。特待生のキャンバスにはこれまでの人生が幾度となく塗り重ねられている。ふとしたときに剥がれ落ちた箇所から、失意や絶望の色が見えることもある。けれど今は、どこまでも美しい青色で塗り潰される。生きる意味さえ見出せなかった入学式。困難の末に掴んだはずのグラン・ユーフォリア再興が立ち消えそうになった時期。煌介とあかりに再会し、自己嫌悪に飲み込まれそうになった夜。初めてすき焼きを作ってもらった日も、取り返しのつかない暴走をしでかしたゲリラ豪雨の日も、自分という存在の消滅に怯えた今日この日も。掬い上げてくれたのはこの人だった。
「初めてお会いしたときから、ずっとです」
比較するのは気が咎めるが、気がついたことがある。特待生にとって百瀬の声や匂いが高揚を誘うなら、帝の存在は平穏と安寧を与えてくれる。まどろみの青。
「青柳先輩の声、いえ、声だけじゃなくて……先輩といるとすごく落ち着きます。心がゆらゆらして、このボートが笹舟でも泥舟でも、きっと青柳先輩と一緒なら安心してしまうんです。いつもありがとうございます」
今どうしても伝えたい。思いついた端からとりとめなく浮かんだことを口にしていく。
「そうだ、お姫様抱っこして運んでくださったときもすごく気持ちよかったです!」
満面の笑みで言い放って、はたと気付く。赤い。特待生に青をもたらす青柳帝の顔が、見たことがないほどに紅潮している。今更ながら自分が喋り続けたことを思い返せば、お口にチャックの速やかな商品化が求められる。
「……なるほどな、やっぱりそういうことか。君は、昨日の電話で、俺と一緒に寝たら気持ちいいって言ったんだよ」
「は?」
青色の力で鎮静したはずの特待生にも、帝の熱が延焼する。
「そんな、そんなこと言ってました? あのっ、あのそれはきっと、隣で眠ると落ち着くという意味で、深い意味はないんです」
「知ってる。知ってはいるが、それで翌日まともに喋れというのも酷だろう?」
「その通りです。返す言葉もございません。誠に申し訳ございませんでした! あああ、お口にチャック早く実用化されませんかね!」
ぺこぺこと頭を下げて、そのまま三角座りで顔を膝に埋めた。フードを被って力任せに引き下ろし、真っ赤なこと確実な耳も隠そうとする。自分が彼の立場なら顔も合わせられる気がしないのに、インプロを仕掛けてくれない程度で拗ねていたのが心底情けない。
「お、お詫びに寮に戻ったらしばらく牛肉を贈らせてください。キャビアでもフォアグラでもなんでも。それくらいしかできなくてすみません!」
自らを圧縮しそうな勢いで縮こまりながら返答を待っていると、しばしの沈黙の後、帝が得心したように「ふむ」と言った。
「櫻井は特待生を助けた対価としてデートしたわけだよな。同一労働同一賃金、つまり今の俺にもその権利があると言えるな? さらに八月二日、パンツの日は俺の誕生日でもある。これらを上乗せして……俺と一日デートしないか?」
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