宝石の小枝

36

『もう後戻りできない。気付いてしまったんだ、君が好きだって』
 紡いだ言の葉は、余韻まで余すところなくマイクに吸い込まれていく。
「――はい、オールオッケーです。お疲れ様でした!」
 ガラス越しに声が掛かったのを合図に、帝はほっと息をついた。硬い表情をほどいて収録ブースのドアを出ると、ちょうどコントロールルームから退出したスタッフらと鉢合わせた。
「青柳くん、また腕を上げたんじゃない? お陰さんでSNSでの評判も上々だよ。リリースが楽しみだね!」
「ありがとうございます。そのようなお言葉をいただけて光栄です」
 この音響監督は乙女向け作品に定評があり、過去にも幾度か一緒に仕事をしている。駆け出し時代から見てもらっているだけに、成長を認めてもらえたことが素直に嬉しい。彼の隣にはもう一人、若い男が立って帝に笑顔を向けている。収録中も、機器に触れるでもなく熱心にこちらを見学している様子だったが、スタッフの一人だろうか。
「ええ本当に。素晴らしかったですね。相反する感情を同時に表現するシーン、鳥肌が立ちましたよ」
「ありがとうございます」
 顔なじみの音監はともかく、初対面の人間から出会い頭に褒められて、帝は軽く戸惑いつつも頭を下げた。率直なイメージで言えば、狐。笑っていても切れ上がった糸目から覗く怜悧な眼光が、帝にそんな第一印象を与える。
「おっと、そうそう。青柳くん、彼は以前から青柳さんの収録を生で見たいと希望しててね。今回ちょうど予定が合ったので同席させたんだ」
「僕をですか?」
「はい、お目にかかることができ幸甚です。岩槻(いわつき)(けい)と申します」
 岩槻と名乗ったその男は、スマートな所作で胸ポケットから名刺を取り出し、帝に手渡した。丁重に受け取った紙片に視線を落とせば、彼もまた肩書に音響・演出と記されている。
「青柳さん、このあとお時間が許すようでしたら、少しだけお話させていただけませんか」
 収録は順調に終わって時間に余裕もある。ましてや音響スタッフがこちらに興味を抱いているのであれば、断る理由はない。控え室で僅かばかりの手荷物をまとめてロビーへ出ると、ソファに腰掛けていた岩槻が立ち上がった。
「すみません、お忙しいところお呼び立てしてしまって」
「いえ。この後は寮に戻るだけですから」
 帝がそう答えると、岩槻は「よかった」と微笑み、ベンダーマシンで二人分の緑茶を入れてテーブルに置いた。スタッフと声優の関係は状況によってまちまちだが、声優歴僅か三年足らずの帝のキャリアからすれば破格の歓待ぶりと言っていい。「恐れ入ります」湯気を立てる紙コップを前に、帝は言葉通り恐縮した。
「やはり青柳さんの収録をじかに見られて良かった。今回の役どころ、女性経験も豊富な優男キャラでしたよね。艶っぽさを残しつつも切なげにヒロインへ愛を伝えるシーン、こちらも胸が苦しくなるほどでした」
「そんな。身に余るお言葉で……なんと申し上げたらいいか」
「女性向けゲームを中心に活躍されているようですが、青柳さんの声質は爽やかさもあって、男性からの共感も狙えると思うんですよね。ぜひ一緒にお仕事をさせていただきたいものです」
「ありがとうございます。こちらこそ、ぜひともよろしくお願いいたします」
 手放しの賞賛が嬉しいのは事実だが、正直、戸惑いも大きい。岩槻の中にはすでに作品の青写真があり、そこに帝を起用したいと考えているのではないか。そんなふうにさえ受け取れる。これほどうまい話が突然に降って湧くものだろうか。決して順風満帆とは呼べない人生を送ってきた帝は、心の中で密かに身構え、なおかつ警戒心を微塵も感じさせず、外向けのはにかみ笑いを覗かせた。
「そういえば青柳さんは宝石が丘学園に在籍でしたね。天音ひかりさんをご存知ですか?」
 ここまでの漠然としたモヤモヤを狙い撃つ名前が発せられた。それ見たことか。涼しい顔して〝そういえば〟なんて白々しいにもほどがある。内心で警戒を一段強めながらも、帝は笑顔を崩さず答えた。
「はい、もちろんです。いまや学園内で彼女を知らない者など居りませんから」
「そうでしょうね。なんと言っても、二十年ぶりの女子生徒にして、学園唯一の特待生ですからね」
「お詳しいんですね」
 帝に同調する穏やかな声音で、けれども岩槻はさらなる爆弾を投じる。
「彼女の噂は学園外にも広く聞こえていますよ。人気声優として成り上がるため、学園とグラン・ユーフォリアを利用し尽くして捨てる、ダークヒロインなどとも取り沙汰されたようですが」
「あの噂は事実無根です」
 岩槻を真正面から見据え、帝は瞬時に声をかぶせた。同じ過ちは二度と繰り返すまいと胸に刻みつけているから、刹那の迷いもない。岩槻が若干慌てた様子で釈明を始める。
「ああ、いえ。これは言い方が悪かったですね。彼女が潔白ということは私も存じていますよ。一度きりですが彼女とお仕事をした経験もありますし、こう見えて私も宝石が丘の出身ですから」
「えっ」
 そうそうのことでは動じまいと防御姿勢を強めていた帝ではあるが、素っ頓狂な声を上げてしまった。ベテラン声優が演出や音響のスタッフとして作品に関わることは珍しくない。荒木冴もグラン・ユーフォリアの音響と照明を監督している。とはいえ現役の役者以外で学園OBに関わるのは初めてだ。岩槻はまだ若く、おおよそ二十代後半に見える。早めのキャリア転向というところだろうか。
「今年の五月ですね。母校の、しかも女子生徒ということで、どうしても個人的な興味が湧いてしまいまして。ディレクションを大きく変更して何度も演じてもらったんです。失礼ながらお願いしたのは端役で、台詞も一つきりでしたが、だからこそ大変面白かったですよ。発声技術は拙くとも、ディレクションの飲み込みが早くてなおかつ独特で、ついつい色々試してみたくなってしまって、ははは、天音さんには面白半分にリテイクを出す嫌なスタッフだと取られてしまっているかもしれませんね。次にお会いしたときには誤解を解かなくては」
 狐の面に赤みが差し、口調も早口で熱っぽい。帝への賛辞もおべっかとまでは思わないが、自分を呼び止めた理由は明らかにこちらの件だろう。
「この春に入学したばかりとは信じがたかった。誤解を恐れずに言えば、悪い噂が立ったのも合点がいくような気がします。天音さん、あれからまた成長しているのでしょうね」
「成長……春の延長線上にいることを〝成長〟と形容するなら、今の彼女がいるのは〝別次元〟です」
「……そうですか。それは素晴らしい」
 岩槻は、切れ長の目を繊月のごとく細めて満足げに微笑んだ。

 学園寮への帰り際、十王子駅前のスーパーに立ち寄って食材を買い揃えた。予期せぬ特売品に出会えたというのに、レジ袋のガサガサ音が耳に障る。特待生があそこまで褒めちぎられて嬉しくないはずがない。帝を憂鬱にさせるのは、ひとえに会話の後半部分。でっち上げのスキャンダルがあそこまで真実味を帯びたのは、特待生の活躍ゆえの結果とも言える。入学したての初心者がすべての学園公認ユニットをまとめ上げ、本人もまた声優として頭角を現わす。素人の皮を被った実力者に違いない、と陰謀説がまことしやかに広まっても違和感がなかった。
(だからって、俺が言い訳に使っていいはずがないだろ。特待生は俺を信じて打ち明けてくれたのに。他でもない俺が噂を真に受けた、なんて)
 特待生は駆け出しの声優ではあるが、普通の女子高生でもない。特待生が帝と荒木にだけ打ち明けた秘密。黒い噂が広まった日、収録室で目も合わせずに浴びせた言葉に彼女はどんな顔をしていたのか、今も夢に見る。信じてやれなかったことを未だに悔やんでいる。

 寮に帰り着き食材を冷蔵庫へ出し入れしながら、帝は小さく溜息をこぼした。
「今日は二人分だから……これと、こっちも使うか」
 L二〇八号室に規則正しい包丁の音が響きはじめて数分後、夕餉の匂いが漂いはじめる。本日の献立は肉じゃがを中心に、作り置きの常備菜と学園の畑で採れた夏野菜のサラダを加えて合計七品。小ぶりのローテーブルに所狭しと並んだ皿から湯気が立ち上る。
「今日はコスモの大好物を作ったぞ! 存分に味わうが良い」
「ふふ、帝の作る料理ならどれも大好物ですよ。いただきます」
「いただきます!」
 ぱちんと勢いよく手を合わせて箸を手に取る。きっちりと面取りし、形良く仕上げた芋は味染みも良好で、調理過程にだってなんら不手際がないはずの出来栄え。だが、もぐもぐと咀嚼しつつ帝は首を傾げた。
「どうしました? 食欲がありませんか?」
「いや……俺としたことが、煮加減がイマイチだっただろうか」
「そうでしょうか? いつも通り、とても美味しいと思いますが……」
 いったん箸を置き、湯呑みに口をつける。完璧なはずの肉じゃがが、やたらじゃりじゃりした食感で、喉につかえて飲み下しにくい。今日は特待生が学食を利用する日だ。料理を教えてほしいと打診されたとき、他の生徒との交流も必要だから基本は学食を利用しろと言いつけたのは他ならぬ帝自身。グラン・ユーフォリアを控え、今や学園を牽引する彼女が、帝とばかり過ごすわけにいかない。床に置きっぱなしの情報誌に目を落として思案する帝を眺め、コスモも一旦箸をテーブルに置いた。
「ふむ。それで、詳細は決まったんですか? 特待生さんとのデートは」
「ごふっ!」
 いきなり核心を突かれ、堪らず口にしたお茶を吹き出す。
「おやおや、大丈夫ですか。切り出すタイミングを間違えましたね」
「ごほっ、んんっ。いや、いいんだ。隠しきれない俺が不甲斐ない。……立夏はともかく、宙と志朗にもバレている気がする」
「まあ、そうでしょうねえ」
 のほほんと茶をすすりながら、コスモは容赦なく言い放つ。
「だってなぁ! いいか、俺がこの前お代わりの白飯をよそおうとしたとき、背後でポリポリと音がしたんだ」
「はぁ、それで」
「特待生が美味しそうに浅漬けを食べていてな、かわいいと思ってしまった。漬物をポリポリ食べる音すらかわいいんだぞ! 隠しきれると思うか!?」
「重症ですねえ……」
 顔を手で覆ってうつむいてしまった帝を眺め、コスモはいとおしげに目を細めた。
「ふふ、拗ねないでください。食事が済んだら、デートプランを私にも見せてくれませんか? 帝さえ良ければ相談にも乗りますよ」
「……たのむ」

「青柳先輩、免許持ってらしたんですね」
 翌日、読み合わせの稽古と称してレッスン室に特待生を呼び出し、終わり際にさりげなく特製プランを披露した。最初の反応がそれだった。
「ああ、普通免許だけでも取っておけばバイトの幅が一気に広がるからな。意外か?」
「いえ、なんていうかやっぱりというか。はー、毎日こんなに忙しいのに、やっぱり青柳先輩ってすごいなあって」
「そうだろうそうだろう。パンツ神の化身たるこの俺を存分に崇め奉るがいい」
「んん、どこから突っ込めばいいんですかね」
「どこから突っ込むと来たか。いやらしいな、特待生は」
「あ、そのへんでやめといてもらえますか?」
 にこやかに受け流された。閑話休題、守銭奴であるイメージが先行しがちな帝ではあるが、むやみに倹約しているわけではない。将来を見通し、投資すべきものには出費している。
「まあ、ペーパードライバーになっては元も子もないからな。定期的にレンタカーでRe:Flyのやつらを連れ出してるんだ。どうせならとことん楽しんだほうがいい」
「こうやってお話を聞いているだけでわくわくします! あ、Re:FlyのユニソンCD持っていきますね。ドライブ中に聴きたいです」
 レンタカーで海辺をのんびりドライブする。海水浴場から少し離れた穴場のレストランで食事をして、人気が少なくなった時間帯を見計らって海辺を散歩し、夕飯前には帰宅。職業上、男女二人でおおっぴらに人目につくのは避けるに越したことはない。予定を詰め込みすぎても気負うので初デートはこのくらいが良いだろう。コスモからのアドバイスも踏まえつつ練りに練ったスケジュールだ。ただ一つ、気がかりがあるとするなら――
「安全運転は保証する。が、君は……事故のことがあるだろう? バスを利用しているのも見たことはあるが、車で移動して大丈夫なのか?」
 浮かれたムードから一転して帝の顔が曇ったのを見て、特待生はしぱしぱ目を瞬かせたのち、憂いを吹き飛ばすように歯を見せて笑った。
「ぜんっぜん平気ですよ! うーん、なんていうか、事故のときは一瞬で真っ暗になったので……そのときのこと、あまり車と結びつかないんです。お気遣いありがとうございました」
「そうか、良かった。それだけが気がかりだったからな」
 杞憂が晴れたところでレッスン室のドアがノックされる。
「すみませーん、次の時間予約してるんですけど使っていいですか?」
「おっと、もう時間だな。今出るよー」
 台本やタオルの小荷物をまとめて部屋を明け渡した。このあとは寮でRe:Flyのミーティングが控えている。特待生はまだ帰らずに図書室に寄っていくそうで、去り際に挨拶を交わした。レッスン室からずっと、彼女の口角はにまにまと緩めんでいる。
「カカカ! どうした、そんなに楽しみか?」
「はい! 楽しみなのもそうですし……今は青柳先輩が信じてくれてるんだって……嬉しくて」
 とびきりの笑顔から暗転。寮で立夏に肩を揺さぶられるまで、帝はあまり記憶が残っていない。それでも気を持ち直してレンタカーとレストランの予約を入れて、ちょっと特別なサプライズも用意して、当日を迎える手はず――だった。
 
「録り直し?」
「ああ。新キャラ追加が決まった都合で、お前の役どころにも急遽変更が入ったんだとさ。今回の件に関してはお前の過失は一〇〇パーねえし、あちらさんもだいぶ恐縮してたぞー」
 荒木から業務連絡を受けたのは、予約を完璧にこなした次の日の昼休みだった。
『それで週末には収録ですか。すごい……』
 通話先の特待生は、声優として〝青柳先輩〟の仕事ぶりに純粋に感心しているふうだった。スマートフォンを耳に当てながら、メール添付されてきた台本をプリントアウトし、チェックを入れる。幸い大部分の収録は使えるらしく、新キャラ加入に合わせた部分だけを録り直せば良いらしい。それらは一見すれば軽い手直しのようにも受け取れるが、制作側が物語の整合性に真剣に向き合っている証左ともいえる。キャラクター解釈へのリスペクトを怠ればどうなるか、痛い経験だったと風化させるにはまだ早い生々しい傷跡が、最優先すべきは何なのかを指し示す。
「直前にすまないな。楽しみにしてくれていたのに」
『今は台本読みが最優先ですよ。あ、キャンセル料とかあったらちゃんと折半させてくださいね?』
「そこは大丈夫だ。日にちも残っているし、問題ない」
『良かった。それでは失礼します、連絡ありがとうございました!』
 帝以上に特待生のほうが焦っているかのように通話が切れた。尊敬と気遣いが伺える、後輩としては百点満点の受け答えだと思う。単なる後輩としてならばの話だが。
「……少しは、がっかりしてくれても良かったんだが、な」

二〇一八年八月二日年、青柳帝はまた一つ歳を取った。
 日付変更と同時に部屋に飛び込んできたユニットメンバーたちから祝福を受け、嬉しいを通り越し悔しいぐらいの幸せを噛みしめた。翌朝も馴染みの三-Lメンバーを始めとして、パンツ先輩と慕ってくれる名も知らぬ後輩たち、むろん特待生からも「おめでとう」の言葉を受け取った。しかしながら特別なこの日は繰り返す日常の一部でもある。授業にバイト、グラン・ユーフォリアの稽古、トークイベントの打ち合わせ、加えて週末のレコーディングに向けての準備。一年で一度きりの二十四時間はあっけなく通り過ぎた。

 一両日明けて八月四日の土曜日、青柳帝は都内某所の収録スタジオに向かう。出演するゲームの新キャラクター追加に対応するための発声した収録は、努力の甲斐あってスムーズに終了した。スタッフへの挨拶を済ませて屋外に出れば、文句をつけようのない夏の青空が広がっている。本来なら今頃は特待生と海沿いをドライブしている予定だった。Re:Flyのキャラソンを揃って口ずさみながら助手席に座るはずだった彼女を思うと、無性に声が聞きたくなる。発信履歴の上位に、常に彼女の名前が表示されるようになったのはいつ頃からだろうか。あえてワンクッションのlineを省き、直接通話の発信ボタンを押した。出られなければそれでいい、だってこの時間の彼女は本来自分のものだったのだからと独りごちてスマートフォンを耳に当てる。
『――はい、天音です』
 幸いにも、数コールの呼び出し音ののちに特待生が電話に出た。つつがなく収録を終えられたことを伝え、デートに誘っておきながら帝の都合で白紙になってしまったことを改めて詫びた。「青柳先輩のせいじゃないって前にも言ったじゃないですか」と慌てる彼女にぼんやりと安堵を覚えて通話を切り上げようとしたとき
『あ、あの! 青柳先輩のいらっしゃるスタジオって、春に私が行ったところですよね。――あっはい、そこです。それで、もし先輩のご都合がよろしければ、今から行きたいところがあるんですが』
 
 ――――――――――――
[mikado]
 ただいま到着
 見えるもの 券売所近くの生け垣
 ――――――――――――

 収録スタジオからほど近い目的地に辿り着いた帝は、lineを送信しながら周辺をぐるりと見渡した。学生寮からこちらに向かうと言っていた特待生の姿は、今のところ見つからない。
「まあ、思ったより早く着いてしまったしな」
 呟きながら券売所を眺める。朝でも昼でもない中途半端な時間だからか、そこには目立った行列もない。先にチケットを買っておくかと帝が足を踏み出すと、目線とは反対方向から「青柳先輩!」と声が聞こえた。振り向いた視界に飛び込んできた姿に、帝は目を見張った。
「っ、とと。お名前呼んでしまってすみません。せっかくこの格好にしたのに」
 手で口元を抑えながら、もう一方の手で彼女はキャップを目深にかぶり直した。特待生の出で立ちはTシャツにショートパンツ。夏らしいマドラスチェックのシャツを腰に巻いており、カジュアルなキャップに伊達眼鏡までかけている。
「これはこれは、まるでお忍びのお姫様だな。びっくりしたぞ」
「あはは……。もしかしなくても、やり過ぎですかね?」
 特待生が困ったような笑みを浮かべる。帝にとって一番身近な特待生の服装は宝石が丘学園の学生服(MAISYの路上パフォーマンスにも耐える、知る人ぞ知る逸品)で、次いで学園指定のジャージ、休日用のリラックスした私服。学園外での私服は、椿が見立てたという品の良さげなお嬢さん然としたテイストが多い。今日もそのような姿をイメージしながら彼女を探していたため少し驚いた。
「よく似合っているぞ。これはこれで始終活動的な君らしい。が、流石にガードが堅すぎるんじゃないか?」
 顔周りの堅牢な装備は、そこそこ顔の知れている帝をおもんばかってのものに違いないから、とがめる気は毛頭無い。だが彼女との身長差が災いして表情が見えづらいのが難点だ。眉尻を下げながらキャップのつばに手をかける。思い切って頭上から取り上げてしまうと、急激に眩しくなったらしい視界に特待生がきゅっと目を閉じ、帝はもう一度驚く。いつも後ろで一つ結びされている髪は肩に触れるくらいの長さで下ろされ、ハーフアップに結い上げられている。眼鏡、ハーフアップ、腰に巻いた上着の三点セットが誰のトレードマークかは言うまでもない。「えへへ。これはですね……青柳先輩リスペクト、です」こちらの呆けた顔に気付いて彼女がはにかむものだから、帝はくるりと踵を返し、顔に集まりはじめた熱を冷ますようにキャップをパタパタと仰がせて券売所へ向かった。

「学生二枚お願いします」
 学生証の提示ついでに現金を取り出そうとする特待生を制止して、帝が二人分の料金を払う。ドタキャンのお詫びだと言うと、特待生は幾分不服そうな表情を浮かべた後に大人しく従った。
「さて……順路の通りに見て回れば良いか?」
 眼前に広がる大型水槽の数々を前にして、特待生の返事を伺う。電話口で彼女が行きたいと希望したのは都内のとある水族館だった。
「あ、はい。青柳先輩が特別見たいものがなければ順路通りで大丈夫です」
「水族館を指定したのは君だろう。何かお目当てがあるんじゃないのか」
「……えーと、実はさっきお電話いただいたとき咄嗟に思いついたんです。人目にもつきづらいし、羽を伸ばしやすいかなって」
「ずいぶんと気を遣わせてしまったな」
「あっ! ほら、ふわふわ~って浮かんでるクラゲを見ているだけで、なんだか癒やされませんか?」
 聞こえないふりをした特待生が少しだけ歩みを早めて、クラゲの舞う水槽へと帝を手招きする。たしかに水族館は定番デートスポットだ。現代日本を舞台とした乙女ゲームなら必出と呼べるレベルで、帝自身も幾度となく仕事で演じたことがある。演技の参考に訪れたこともある。そのくせ青柳帝としての水族館デートは今回が初めてとは、滑稽で笑えてきてしまった。彼女の隣に並び立って、水流に身を任せ浮遊する数多のクラゲたちと、青白い照明に照らされた横顔を交互に見つめる。
「何を考えているんだろうな」
「ですねえ。今すぐクラゲのアテレコしろって言われたらどうしようかな、うーん……」
 そういう意味で言ったのではないのに、ずいぶんと仕事熱心なことだ。黙りこくってしまった小さい背中にぽんと手をやる。
「これはこれで幾らでも見ていられるが、そろそろ進むぞ。おっ、今度は巨大水槽コーナーか」
 促した先には、海中に潜り込んだようにも錯覚する圧巻の光景が広がっている。水中を縦横無尽に泳ぎ回る彩り鮮やかな魚たちの姿に、二人揃ってほうと溜息をついた。群れをなすキラキラの小魚たち、びろんと平べったいエイの独特のフォルム、猛スピードで目の前を過ぎていくマグロ。
「漬け丼、いや、夏だからこそあえてねぎま鍋もいいな……」
「アボカドとわさび醤油で和えるのも捨てがたいです」
 いささか情緒に欠ける呟きに嬉しそうな反応があった。期待を裏切らない食いしん坊に今すぐマグロ料理を振る舞ってやりたいところだが、あいにく今晩は彼女の好物を作るための食材で寮の冷蔵庫は満杯だ。またの機会に、とこっそり含み笑いしながらさらに順路を辿る。
「見ろ特待生、チンアナゴだ!」
「チンアナゴですね」
 今度は無機質な声で即時応答された。
「……ぐっ。特待生はノリが悪いぞ! 真っ赤になってアタフタするか、冷たい目で蔑むかしてくれないと、青柳先輩の立場がないじゃないか」
「それはRe:Fly二年ズのリアクションです。自分で振ったネタは自分で回収してください」
「えーん、特待生がいじめるよ~」
 その通り、特待生は宙や志朗とは違う。止まったら死ぬのか、回遊魚かと諫めたいくらいに、いつも学園中を走り回っている。かと思えばクラゲのように視線を虚空へとさまよわせ、ひそやかに何かを抱えこんでいる。水槽の見えるカフェを見つけ、小休憩を取ることにした。お揃いで頼んだ鮮やかなブルーのソーダフロートには、雪山を模したバニラアイスにペンギン型チョコレートがちょこんと乗っている。談笑しながら口をつけていると、特待生はもぞもぞと腰に巻いたシャツを羽織った。
「寒いか?」
「ちょっとだけひんやりしてきました」
 もともとしっかり冷房が効いている館内だから仕方のないことなのだが、腰に結わえていた長袖シャツの皺を伸ばす姿に、ほんの少し寂しさを覚える。叶うなら今日の内はこのまま〝青柳先輩〟の真似事をしていてほしい。
「すっかり皺になってしまっているな。俺のシャツを貸そうか?」
 帝はTシャツの上に半袖シャツを羽織っているが、特待生が着れば肘くらいまでは包めそうだ。
「えっ。そんな、大丈夫ですよ。青柳先輩が冷えちゃいます」
「カカカ、雨風さえしのげれば御の字だ」
 軽い気持ちで放った一言に、彼女が一瞬だけ眉をひそめたように見えた。そんなにおかしなことを言っただろうか。帝は首を傾げたがそれ以上の気がかりな反応はない。シャツを貸すタイミングを逃したまま、ストローを咥えてじっと特待生を見つめた。
 思い返してみると、彼女の着こなしは周囲を意識してコロコロと変わる。椿から「声優たるもの、街中や収録所でも注目を浴びる可能性があるのだから身繕いは常にきちんと」と説かれて以来、素直に従っている。荒木が贖罪代わりの食事に誘ったときは、普段より数歳ほど大人びて見えるようなメイクを施して、スーツ姿で現れた。学生服は、ミニスカートでは力が出ないとぼやいていたが、この夏にショートパンツに変えてご機嫌のようだ。しかし、元はと言えば宝石が丘が実質男子校の状態だからであって、あれは特待生が心から望んだ出で立ちなのだろうか。少なくない時間を共に過ごしても、本当の彼女というものを帝は存外知らない。もやもや思考を巡らせている間にドリンクグラスも空になり、二人は新たな水槽を眺める道程に戻った。続くのは深海に棲まう生物たちをテーマとした空間だ。
「まるで地球の生き物とは思えないな」
 地上のそれらとは似ても似つかぬ造形と色合いは、初見でなくとも見るたびに人類初の邂逅を果たした気持ちになる。
「そうですね。深海はもはや地表付近とは別の環境ですし」
「なるほど、さしずめ宇宙人といったところか」
 相槌を打ちながらルームメイトの顔がふと思い浮かぶ。
「そういう合唱曲、ありましたね。人類は月まで飛べたけど、地球の海の一番深いところへは辿り着けていない。月より遠い海だって」
 帝ははっとして隣の彼女に視線を移す。帝に語りかけているのか、独り言なのか判明しがたい声。特待生の視線は水槽に注がれているようでその実、こちらの知り得ぬ世界を見ている。そこはお忍びのかぐや姫が帰る月か、あるいは深い海の底か。黙りこくった帝の横でなおも彼女は言葉を紡ぐ。 
「辿り着けないほうがいいのかもしれませんね。光の届かない、誰も触れることの叶わない場所がある。私はあえてその闇を解き明かしたいとも思わないんです」
 館内照明の効果か、笑顔にしてはひどく儚くうつろな色を浮かべて特待生がこちらを見た。
「ふふ。場所は宇宙ではないけれど、こんな考え方は辺見先輩に怒られちゃうでしょうか? 奥底に秘密を隠したままの海が好きだなんて」
「それもまたロマンかもしれないが……俺はいつか辿り着きたいな」
「そういうものですか」
 今は知るよしもない彼女の内側に、少しでも触れたい。帝は意図せず拳をきゅっと握った。

 腕時計に目をやれば十六時を回ったというのに、夏の空はまだまだ青い。水族館を堪能した帝と特待生は、電車に乗って宝石が丘への帰路についていた。  
「今日は誘ってくれて嬉しかったぞ。ありがとう」
「いえ、そもそも今日は青柳先輩のお誕生祝いをする日だったので。こちらこそ、急なお誘いに応じてくださってありがとうございます」
 行儀良く頭を下げる特待生に良心がちくりと痛む。  
「あ、いや……それは口実で、」
 帝は気まずそうに眼鏡のブリッジをいじったのち、深い呼吸をして覚悟を整えた。
「まずは、君にきちんと謝りたかった」
「謝る?」
「場所を変えるか」
 きょとんとした特待生を見て、途中駅で降りることにした。電車内での立ち話は案外と他の乗客の耳に入っているものだ。降車したホームのベンチに空きを見つけて腰掛ける。木は森の中に隠すべきと言うが、夕刻の駅は家路を急ぐ人たちが入れ替わり立ち替わり、こちらに目を留める者はいない。それらを確認すると、帝は上体だけひねって特待生の目を覗き込んだ。 
「君が、自分は天音ひかりでないと主張したのにずっと疑っていた。グラン・ユーフォリアの総指揮を降りようとしたときも、ユニット側の思惑を通すために君を傷つけた。俺が謝りたいのはそれらのことだ」
 特待生が目を見開く。その心底意外そうな顔をやめてほしい。悪意ゼロの上目遣いがかわいらしいほど、帝の良心が延々えぐられ続けるのだ。限界を感じたあたりで特待生のほうが視線を外してうつむき、むうと唸った。
「……えっと、まず、総指揮をやめようとしたときのあれは」
 口に手を当てながら、また数秒黙り込む。
「こちらこそありがとうございました。あんなふうにとっさに憎まれ役を買って出るなんて、私にはできそうもなくて。あの場で即断できる青柳先輩はやっぱりカッコいいなって思いました。Re:Flyのメンバーが羨ましいです」
 少しばかり気恥ずかしそうに、特待生が歯を覗かせる。眉をへにゃりと垂らしたまま小さく笑って、口を開きかけ、ためらって、続きを話し始めた。
「……青柳先輩に嘘と決めつけられたのは、正直、とても悲しかったです」
 覚悟はしていたのに、みぞおち付近がずしりと重くなる。もはや泣き笑いの表情になってしまった彼女から目をそらしたい気分だが、帝は金縛りに遭ったかのように動けない。
「先輩に信じてもらえない自分も不甲斐なくて苦しかったです」
 震えた声に呼応して、こらえきれなかった涙が一粒だけこぼれ落ちた。 
「……本当にすまなかった。誰にでも軽々しく話せる内容でもないのに、君の信頼を無下にするようなまねをして、本当に反省している」
悔恨を喉から絞り出していると、特待生がふるふると首を振った。
「でも、もう終わったことなので大丈夫です。もー。青柳先輩も荒木先生も、そんなに思い詰めなくていいのに」
 胃痛に加えて心臓までズキンと痛んだのは、目を潤ませたまま微笑む彼女の健気さなのか、あるいは突然出てきたもう一人の名前なのか。
「だいたい私が一方的に被害者ぶるのもおかしいですよね。そのあと私だって先輩に相当ひどい、こと、を」
 がっくりと頭垂れてしまった特待生に帝は疑問符を浮かべ、彼女の耳が真っ赤になるのを見て心当たりに辿り着いた。夏休み前、激しい豪雨に見舞われた学生寮の一室で起きた例の件は未だに生々しく帝の中にある。
「あ、あれは、俺は嫌ではなかったから……」
「あーあー聞こえませーん青柳先輩が嫌じゃなくても私が許しませんお巡りさんこっちです」
「こら、落ち着くんだ。なんのためのお忍びか忘れたのか」
「うう~……穴があったら墓石を彫りたい……」

 ひとまず特待生が落ち着いたのを見届けて、帝は本題に戻るべく口を開いた。   
「とにかく、俺はずっと謝りたかったんだ。その次に、君の喜ぶことがしたかった」
 台本や小物の入ったバッグを探りながらそう告げると、特待生も同じように自分のバッグに手を入れているのに気づいた。 
「じゃあこのデートって青柳先輩へのプレゼントにならないってことですね。ならないんです」
 既視感のある強引な論理展開だ。目当てのものを先に取り出したのは特待生のほうだった。
「というわけで。その、つまらないものですが……お誕生日おめでとうございます」
「これは……」
 差し出された包みに帝は言葉を失った。細長い小箱に包装紙が巻かれ、リボンでラッピングされている。唖然としながらも、帝もバッグの中にある探し物を見つけた。すぐに取り出せる位置まで引っ張り出してから、特待生からのプレゼントを受け取る。
「ここで開けても良いだろうか」
 特待生が頷いたのを確認して、恐る恐るリボンに手をかける。木箱の蓋を開くと、中には一膳の箸が納められていた。
「これは……黒檀か?」
「そ、そうです。さすがです!」
 漆塗りが施されていたので確信が持てなかったが、ほどよい堅さと重みがあり、まだ使ったこともないのに帝の手にしっくり馴染む。  
「今お使いのものも立派に現役なので、どうしようか迷ったんですが」
 特待生曰く、プレゼント候補をリストアップするにあたって、最初に銀の匙が思い浮かんだのだと言う。そこから転じて、帝ならばスプーンよりは箸だろうという結論に達したらしい。
「なるほど。今日の夕食から大事に使わせてもらうとしよう」
 いったん句切って、帝もまた鞄から包みを取り出す。
「じゃあ俺からも。だいぶ遅くなってしまったが誕生日プレゼントだ」
 にやけた口元を隠せぬままバッグから小箱を取り出す。どうしても今日渡したかったから、未練がましく持ち歩いていたプレゼント。同じ包装紙、細長い箱。こちらの中身は朱色の塗り箸。小さいけれど包容力のある温かい手を想像しながら、削り出して漆を塗り込んだ。
「俺は、君の好きなものをと考えたら、幸せそうに飯を食べている顔が思い浮かんだ」
「これ、手作り……もしかしなくても橋倉先輩おすすめのお店ですよね? あの、すみません、私のは既製品ですけど」
「オーダーメイドかってくらいしっくり馴染むぞ」
「ははは……良かったですけど、恥ずかしいです。なんだか」
 そう、なんだか居心地が悪い。心地よい居心地の悪さだ。滅多なことでは手荷物を増やさない帝の〝一生もの〟ができた。人にもモノにも出来る限り執着しない、そう決めた帝がずっとそばにいたい人がまた増えた。
「青柳先輩とお料理するの楽しいです。食べるのも」
「同感だよ。これからもよろしく頼む」
「はい!」
 飯のタネ、食いっぱぐれると表現するように、食べることは生きることと同義とも言える。食に対する価値観が似ている二人は、たぶん一緒に生きるのに相性が良いのだろう。本当に気が早いけれど、これからの人生を彼女と一緒に生きていくのだと意識している自分がいる。
「君のことが好きだ」
 気がつけば口に出していた。志朗に『いつ何時でも愛を囁けるようにしておけ』なんて偉そうに言っておいて、声優の仮面を外したらこんなものか。今日ここまで言うつもりはなかったが、多少なりとも候補を練っておけばよかった。腹をくくった帝は特待生の返答を待つ。
「……ダメです」
 続く言葉に帝は耳を疑った。
「だって。だって私、既婚者ですよ?」
 彼女は何を言っているのだろう。天音夫妻と会い、天音ひかりとは別の人間として生きると宣言したのはついこの間のことではないか。 
「いまの君は十七歳の女の子だ。過去とは別に、いまの君として幸せを手に入れる権利があるだろう?」
「恋愛だけが幸せとは限りませんよ。声優を目指すなんて、ちょっと前の私なら考えもつきませんでした。でも毎日が充実して、厳しいけど楽しいです」
「それは……」
 それはよくわかる。雅野帝から青柳帝に、良家の子息から声優を目指す勤労学生になろうとは帝とて想像だにしなかったときがある。だが今は毎日が充実して、厳しくも楽しい。 
「先輩が仰ったんじゃないですか。『多重人格とは考えられないか?』って。いつ消えるか誰にもわからない……私にもわかりません。明日にもあなたの目の前から消えるかもしれない」
 なぜここにきて逐一、過去の言動が跳ね返ってくるのか。これを因果応報というのか。
「青柳先輩のこと、大好きです。先輩は私の大切な人です」
 こんなとき声優同士というのは嫌なものだ。その〝大好き〟は帝が望んだのとは違う。声にするほうも、聞くほうも、はっきりとわかってしまう。
「だからこの先も、先輩の気持ちを受け入れることはありません」

「おや。おかえりなさい、帝」
 出迎えてくれたルームメイトは「特待生さんはご一緒ではないんですか?」などと無粋なことを言わない。本当にありがたいことだ。だからこそ帝も結果報告をしてしまおうと思う。 
「コスモく~ん、フラれてしまったぞ」
 コスモは美しい切れ長の目をしばたかせた。彼がよくやる白々しい猫かぶりではなく、心の底から驚いている。一応、コスモ視点でも多少の勝算はあるように見えていたのだろう。
「おやおや。それは見る目がありませんね」
「見る目がない……うむ、正確には眼中になかったんだ」
 対面しながら改まって話すのもなんとなく気まずくて、冷蔵庫をあさりながら返事をする。特待生の好物を振る舞うために買い込んだ食材の数々が帝を見ているようだ。
「さて、私もお手伝いしましょうか」
 振り向くと、珍しくエプロンを着けたコスモが立っている。残念ながら帝お手製のパンツ柄ではなく、彼が自前で調達したもののようだ。「何から切りましょうか?」光城新多と一八〇度異なる方向性で包丁が似合う。よく手入れされた刃に宇宙レベルの美丈夫が映り込み、帝の背筋が冷たくなった。
「ああ、うむ。そうだな。サラダ用の野菜は手でちぎったほうが美味い」
「了解です」
 ほっと息をつきレタスを手渡すと、丸のままのレタスが瞬時に左右二分割された。

  それからも、コスモのお陰でバタバタと食事や風呂を済ませ、読み合わせに付き合ってもらい、ほぼ就寝時間まで動揺することなくベッドに潜り込むことができた。恋とはどんなものかしら。目をつむって帝は回想にふける。催事場の同じブースで数日間一緒にアルバイトをした子がいた。大人っぽい美人で、聡い話術と朗らかな笑顔に好感を持った。小学校の頃、からかい甲斐のあるクラスメイトがいた。膨らませた頬はピンク色でかわいらしく、その後にからっと笑って許してくれるのも良かった。さらにもっと幼い頃、屋敷内でも特に好きなメイドがいた。隙あらばついて回って、メイド長に叱られたこともあった。やや遡りすぎたか、と寝返りを打つ。あれらは恋と呼んで差し支えない感情だと思うのだ。ユニットメンバーや荒木や椿のことだって、尋常でないくらい大切で大好きだ。だから、恋こそが至高にして唯一の愛情だとも思っていない。

 特待生に向ける感情を恋と呼んでいいのか、正直なところ帝にはよくわからない。一緒に生きていく覚悟、とでも言ったほうがしっくりくるだろうか。彼女と一緒なら、どこまでも進める気がする。モノクロームの世界が色彩を帯びるように、音が連なって旋律になるように、帝の世界は特待生によって変わったのだ。

『もう後戻りはできない。気付いてしまったんだ、君が好きだって』

< 帰り着いたC棟の廊下を走っていると、ふんふんと上機嫌で鼻歌を歌う荒木とすれ違った。
「こら特待生、お前も何度走るなと言っても懲りないな」
一刻も早く自室に駆け込みたい特待生だったが、荒木はふだんの振る舞いよりやや強引で、腕をがっしりと掴まれた。やむを得ず足を止める。
「お前のサンプルボイス、ずいぶん古くなってるだろ。新しいの録っとけ……うん?」
「どうかしましたか?」
「……いや、お前、作り笑い下手くそだな」
「仕事では、演技ではちゃんとしますよ」
 荒木の力が緩んだのを感じて、そそくさとドアの内側に消える。あとで存分に叱られるので、今は一人にしてほしい。
 
 一〇〇人以上の男性の中に、女がひとり。誰か一人でも魔が差して、空き部屋に連れ込まれれば逃げ切れるかどうか。校舎のトイレに行くにも寮の廊下を歩くにも、気を張り詰めていた四月。自意識過剰と笑われたって、何かあってからでは遅い。あかりと煌介に代わって天音ひかりの貞操を守るつもりで、意気込んでいたというのに。常にポケットの中で握りしめていた防犯ブザーは、祈からプレゼントされたお守りと交代してポケット内の位置を譲った。同じ学園の仲間たちを疑って生きることに疲れてしまった。もし何かの間違いが起きれば後悔することになるが、心の安寧と天秤にかけて、特待生はブザーを手放すほうを選んだ。
 そして今やどうだ。複数の男子生徒とレッスン室にこもるのが当たり前になり、荒木の悪戯や碧鳥の天然爆弾にどぎまぎしても悪くない心持ち、イケメンだらけの毎日に眼福だと頬を緩めたりして。あまつさえ自分から帝を襲う始末。

『特待生、悪かったってー。俺たちも自分を守るために致し方なく……』
 険しい形相で囲碁部後輩ズに詰め寄る特待生に対し、七緒は相も変わらず悪びれない笑顔で悪かったとのたまう。
『もー! 私の失敗談をバラすのと身を守るのと、何の関係があるの?』
『あのね、あおやぎせんぱいは部活では鬼コワだけど、特待生ちゃんの話をするとやさしくなるんだよ』
『タハハ、なんでだろうな?』
『にひひ~』
 知っていた。本当はそれとなく気づいていた。

 たのもしいおとこのひと。一緒にいると安心するのに、捲り上げたワイシャツの袖からのぞく腕にふいに男を感じて、動悸が止まらなくなるときがある。
 かみさま。自分を絶望の淵から掬い上げてくれた。一人の男として意識した自分が烏滸がましくなるときがある。
 あいくるしいおとこのこ。たびたび仕掛けられる悪戯に、屈託のない笑みに、母性がくすぐられる時もある。

 嬉しかった。その場で舌を噛み切って死んでやろうと思うくらいに。

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