宝石の小枝

38

グラン・ユーフォリア成功を最優先に。そういうことでしたら、声優はすべて宝石が丘学園から募集しましょう。さすがにオーディション形式を取らせていただきますが、学園のスタジオを使って収録すれば、移動時間も短縮できるのではありませんか?」
 発案は特待生。表向きは荒木が持ちかけた突飛なスケジューリング案に、岩槻はむしろ意欲的なテンションで応対した。さすがの荒木も言葉を失う。重要ポストとは言えど、いち音響監督にそれほどの裁量権があるというのか。スポンサー企業や他の事務所とのコネクションなど、大人の都合が山ほどあるはずだ。
「懸念がおありですか? ……そうですね、宝石が丘生には出自が訳ありの生徒も多い。このあたりで納得していただければ助かります」
「なるほど」
 日本有数の資産家に、由緒正しき旧華族の出身者。日本芸能界大物の隠し子。荒木にも心当たりのいくつかがある。
「音に関しては私に一任されています。宝石が丘のレベルの高さは私自身がこの身で体感しているのですから問題ありません。グラン・ユーフォリアは成功しますよ。そして今をときめく宝石が丘学園と事実上のコラボレーションゲームが制作発表! こちらとしても望むところです」
 サブキャラ、ガヤも含めすべての声は、宝石が丘の生徒が演じることとする。グラン・ユーフォリアとタケトリは事実上、一蓮托生となった。

 Take(テイク) the() Trigger(トリガー)――略称タケトリ。
 竹取物語をモチーフにした本格シミュレーションバトルゲームのタイトルだ。

 原典でかぐや姫が求婚者たちに無理難題を課したように、プレイヤーはトリガーと呼ばれる高エネルギー体を収集するのが序盤のタスクとなる。これらはすべてかぐやの企みで、自らに罰を与えた月の民への嫌がらせであり、ほんの気まぐれで地球人に反撃の目を与えた程度のはずだった。しかし地球人との交流を通じ次第に惹かれていくかぐやは、いわば二重スパイ状態となる。降りかかる数々の嫌疑を浴びながらも、ミカドをはじめとした地球人たちと交流を深め、月と決別し地球を守る戦いへと挑む

 台本を素読みして、特待生を除く出演者たちは一様に苦い顔をした。
『今まで私たちを騙していたのか』『地球人を利用して宝を集めていただけか』 
 明らかに、宝石が学園で起きた実在の騒動をなぞっている。台本は学園内といえども堂々と晒せる時期にはないため、Re:Flyと特待生はL棟二〇八号室で軽い読み合わせをしていた。

「つらくないか」
 シーンの区切りで帝はいったん台本を閉じ、特待生を見た。特待生は一瞬アドリブが始まったのかときょときょと辺りを見回したが、Re:Fly一同が帝と似たような顔をしているのに気づいて台本を閉じる。
「こんなふうに、君への濡れ衣を蒸し返すようなやり方はつらくないか」
 帝が丁寧に言い直し、ようやく合点がいったようだった。
「ああ! なるほど」
 特待生は歯を覗かせ、重苦しい空気を吹き飛ばすよう、ことさら元気な声を出す。
「そこは気になりませんよ。だって毎日、宝石が丘のみんなグラン・ユーフォリアの打ち合わせも練習もしているんですから。手応えがあるから、何もつらいことはないです」
「……そっか」
 宙がふわりと口元をほころばせた。
「はい。なので地球の皆さん、よろしくお願いいたしますね。わたくしは、かなり癖の強いお姫様のようですので」
「それはそう」
「風変わりという点では、かぐやも特待生さんも良い勝負ですよ」
「ええ? そんなことは……ないと思うんですけど」
「特待生ちゃん、そこで自信なさげになっちゃダメだよ~」
 尻すぼみになった特待生と入れ替えに、今度はRe:Flyのメンバーたちが声を上げて笑う。
「特待生も迷っているんだな。方位磁針(じしん)がないだけに」
「……グッ、ふふふ」
 冷静さを取り戻したメンバーから順に、素読みの続きが始まった。

 九月初旬。制作陣との顔合わせ日程が決まり、Re:Flyと特待生、荒木は都内某所の収録スタジオに集合していた。プロデューサー、総監督、脚本家、音響監督……そうそうたる顔ぶれに緊張の面持ちで挨拶をしていく。あくまで謙虚に、しかし、たかが学生と舐められないように。最適解がどんなものか考えているうち、特待生はどんな顔をして良いのかわからなくなってしまった。高位のポジションでふんぞり返るような人物も見当たらない、ホワイト環境。スター声優荒木冴が同席している効果もあるのだろうか。彼は制作陣から見ても超大物に違いない。
 戦闘システム、イメージスチルやBGMも部分的に制作が始まっており、紹介されるたびに一同は見惚れたり感嘆のため息を漏らしたりと忙しい。
「仮段階ですが、真っ先に制作した映像があるのでご覧ください」
 総監督が意気揚々と披露したのは、バッドエンドのアニメーションだった。地球人の抵抗もむなしく戦いに敗れ、かぐやが月へと連れ去られるシーン。キャラクターの表情も、壮大な背景美術も楽曲も、ラフな状態ながらはっきりと伝わってくる。
「竹取物語としては、むしろ正史ですもんね」
 宙の声は、声量こそ抑えたものの興奮を隠しきれていない。
「ええ、バッドエンドですが、本作品のイメージの根幹を成すものです」
「キャストの皆さんがたのご紹介も兼ねて、この場で声をあてていただけませんか」
 プロデューサーに続く岩槻の発言に、宝石が丘メンバーの緊張が一瞬にして高まる。当て書きかつオーディションなしの採用と言えど、今日の顔合わせで何らかのシーンを演じるだろうことは当然予想していた。高評価を得られるか、落胆されるか。評定はいずれ訪れるのだ。アニメーションつきなのは想定外だったが、Re:Flyと特待生は当初の覚悟通り、マイクの前に立った。
 
『くそっ、身体が動かない……これも月の民の術だというのか』
『行ってはダメだ、かぐや!』
『かぐや姫ぇっ!』
 もはや為す術もない地球人たちを背負うように、かぐやが月の民の前に一歩を踏み出す。
『約束してください。この先も、地球の方々を一人の人として丁重に扱うと』
 約束すると頷く月の民。だけれどそこには何の保証もない。なぜなら彼女はこれから天の羽衣を纏い、すべての記憶と感情を失ってしまう。
『かぐや姫、かぐや――!』
 羽衣を纏ったかぐやが振り向く。一同の絶望の表情に困惑しながら。
『あなたがたは、誰?』

 岩槻のディレクションや演技指導は的確で、数度のリテイクで見違えるようにイメージが変わった。初の演技披露は概ね好評だったらしく「いいね」と総監督が岩槻に頷いているのが見えた。
「特に、天音さん。十七歳らしからぬ演技だった」
「そうなんです。彼女の声は陰陽で分類するなら明らかに〝陽〟で、人を引きつけるカリスマ性も感じさせます。そうでありながら、まさに監督が仰られたとおり、十七歳とは思えない憂いを帯びている。このアンバランスさこそ、月から堕とされた天人の姫としてこれ以上ないくらいにイメージ通りです」
 紅潮した表情と早口ノンブレス賞賛、噂に違わぬ天音ひかりガチ勢。事前に帝の話を聞いていた面々は、それが真実だと改めて思い知った。
「特待生、ぼーっとしてどうした? 夢見心地か?」
 立夏の声で特待生は我に返る。
「いえ……もっと、もっとしっかりかぐや像を掴みたいなって」
「そうだな。先は長いぞ。気を引き締めていこう」
 立夏の力強い声に後押しされても、特待生は何かが引っかかったまま思考をふらつかせた。

 顔合わせが終わり一同散会となる間際、荒木は足早に岩槻の元へと向かった。生徒たちは先に寮へと戻るように言いつけてある。
「岩槻さん。すみません、先ほどもご挨拶は申し上げましたが、先日、突然お電話差し上げたことも含めて改めてお礼を申し上げたく」
「荒木さん。本日は素晴らしい演技をいただけて、こちらこそお礼申し上げます」
 二人は大人の形式的なやりとりをいくつか挟みつつ、話を進めた。
「岩槻さんのディレクションも素晴らしかったです。うちの生徒をよろしくお願いします。岩槻さんが手本を見せてくださるので、生徒たちも演りやすかったようです」
 個人差はあるが、声優としてのキャリアがある者の演技指導はやはり頭に入りやすい。
「いやはや、荒木冴さんにそう言っていただけるとは、恐縮ですが役者冥利につきます。私もまたマイクの前に立ちたくなってしまう」
「声優活動は、もうなさらないのですか?」
 純粋な疑問を荒木は述べる。無名な役者で終わったのが不思議なくらいの演技指導だった。
「生得的な問題で、喉が弱いんです」
 岩槻の苦笑いに、荒木ははっと息をのんだ。
「ずっと夢に見るんですよ。宝石が丘学園時代のことを。無理がたたり、野外ステージで吐血した。真っ赤に染まる板の上を見て悟ったんです。技術云々の前に、生涯を通して声優を続けることは無理だと」
「申し訳ありません……」
「いえいえ。荒木冴さんにそのような評価をいただけるなど、光栄至極です」
 宝石が丘の収録機材や設備について資料を渡すなど、事務的な会話も済んだ。
「では、今後ともよろしくお願いします」
 双方は軽く一礼して、それぞれの帰路につく。数メートル離れたところで、荒木はその背を振り返り、ごく小さく呟いた。
「杉石……」
 岩槻が振り返る。
「失礼、なにか仰いましたか?」
「いえ、独り言です。紛らわしくて申し訳ありません」

 一足先に学園寮へ戻る途中、Re:Flyと特待生は反省会を交えながら最後の坂道を上っていた。
「それにしても音監さん、マジで特待生ちゃんガチ勢だったな」
「はは。岩槻桂さん……桂という字は月の異名でもあるんですよね。なんだか本当に月からの使者にお迎えに来られた気分です」
「へえ。特待生、月に興味があるの?」
 宙が嬉しそうに食いついてくる。
「たまたま、お友達に〝桂子ちゃん〟がいたんです。それで由来を調べたことがあって」
 桂は中国の伝説で月にあるという想像上の木であり、転じて、月の異名。現代日本に生えている桂の木とは異なり、金木犀に近い品種と言われている。
「ほう、因果めいたものを感じてしまいますねえ」
「そうだ特待生。俺ね、Twiineで、竹取物語に関するフィールドワークをやってるグループをフォローしてるんだ。今度見てみない?」
「古典の田村先生はたしか古代が専門だぞ。話を聞いてみてもいいんじゃないか」
「立夏さん、ナイスアイデアです!」
これから先も厳しいスケジュールが続くが、いつにも増して生き生きとした宙を見て、特待生の気持ちも少しだけ上向いた。
 
 気がつけば目で追っている。思考の隙間でいつも思い出している。
 聞きしに勝る病だ。帝の意思などお構いなしに、いつだって頭の片隅で特待生のことを思い浮かべては胸を痛めている。心休まる時など微塵もない。気が狂いそうだ。帝から静穏の二文字を根こそぎ奪っていった。恋い焦がれることがこんなにも苦しいなんて知らなかった。恋愛は美しいなんて言ったのは誰だ。この病への妙薬は、完璧な受容か拒絶以外にないように思える。だから、ひとおもいに切り捨ててくれないか。

 帝が特待生に告白をした後も、気まずいながら二人で一緒に料理する習慣は続いていた。いつもなら言葉にしなくとも調味料を差し出すタイミングで、特待生は心ここにあらずの状態。帝は小さくため息をつき、彼女のすぐ向こうにある食塩の容器に手を伸ばす。
「わあっ!?」
 急接近した帝に特待生が大声を上げる。
「驚かせてすまない。塩を取ろうとしただけだ」
「ご、ごめんなさい! 気が利かなくて」
 特待生にやんわり避けられるようになってから、味付けの加減がわからなくなってきた。基本的には帝の好みで、特別にコスモのために作るときは彼の好みを反映させてきた。コスモは元々、惣菜や料理店よりやや薄味の家庭の味を好むので、意識する必要はほとんどないのだが。
 特待生も、素材そのものを生かした風味や、だしの香りを好んでいるというのが帝の見立てだ。だが彼女がぼんやりしたままの状態で調理をすると、必要以上に食材を小さく切ったり、刺激物や香味野菜を避けたり、濃いめのわかりやすい味付けをしたりする。彼女にとって、誰かのために作る食事が日常だったことを垣間見て、少し気落ちしてしまう帝であった。
 食事を済ませ、若干切れ味の落ちた包丁の手入れをすることにした。水を流しながら砥石で包丁を研ぐ。今は平易に使える研ぎ器もたくさん市販されているが、結局のところこれが一番よく切れる。雅野家を出た帝が田舎町で教えてもらった、昔ながらの手入れ方法だ。
「青柳先輩は、なんでも自分でやろうとするんですね。……それは、一人で生きていけるように、ですか?」
「そのつもりだったんだけどな」
 鮮やかな手さばきを見学中の特待生に、手を止めて視線を送る。
「そんな俺が、一緒に生きていたいと思った事の大きさを汲んでもらえないものだろうか」
「ならば、幽霊もどきの願いも汲んでほしいですね。私は先輩に、私以外の誰かと幸せになってほしいんです」
 切ない胸の内を明かしたのに、負けず劣らず切ない視線で返される。互いを憎からず思っているのは事実だというのに。
「平行線だなあ」
「ですよねえ」
 このまま、決してまじわらず、離れることもない関係が続くのだろうか。帝の頭の片隅で、台本の一節が、この場の二人の声で再生された。
 
『私のことはお忘れください、ミカド様』
『それは私が決めることですよ、かぐや姫』


 一方、学園内では毎日のように、汗だくの荒木と目を真っ赤に腫らした特待生がレッスン室から出てくるのを、複数の生徒が目撃している。荒木の口癖「ダルい」が以前ほど頻繁に聞こえなくなったとの声もある。
「違ぇ!」
 荒木の怒号が壁を震わせる。反射的に、特待生の目から涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
「間や息遣いひとつで表せるものが山ほどあるんだ。録音はしてある。目ぇつむっててめえの声を何遍でも聴き返してみろ」
「……っ」
 うなずくのが精一杯の特待生をよそに、荒木は肩で息をしたままレッスン室を出て行った。
「続きは明日だ。頭冷やしとけ!」

 頭を冷やすべきはどう考えても自分のほうだろうが。限りなく自己嫌悪に近い内省を胸に抱え、荒木は大股で歩く。誰がどう見ても近寄りがたい状態の彼を、あらかじめ廊下で待ち構えていた者がいた。
「……おや? おやおやおや」
 涼しい顔とは裏腹に、常軌を逸した速度と怪力でもって、荒木は壁際まで追い込まれた。
「男に壁ドンされる趣味はねーんだけど」
「ふふ。ずいぶん怖い顔をされていますね。そう、七年ぶりくらいでしょうか」
 Re:Flyらしい甘やかな声で囁いたのは、コスモではない天橋幸弥。彼の言うとおりだ。七年前、荒木には許せないことがあった。そして今、あの時と同じくらいに自分自身が許せない。荒木の胸中を知ってか知らずか、幸弥は唇を耳元に寄せて、なお甘美な声で囁き続ける。
「私しか知らない、特待生さんのいいことを教えて差し上げましょうか?」
 癪に障る言い方だ。荒木は苛立ちを隠せないまま数センチ上を睨みつけたが、幸弥は何食わぬ顔で言葉を続ける。
「あなたが黒幕だと生徒たちが確信した日。特待生さん、はじめはあなたと二人きりで話し合おうとしていたんですよ。勘のいい彼女ですから、薄々気づいていたんでしょうね。大勢で押しかけて、生徒たちの前であなたを傷つけてしまうくらいなら、って……。先生の悪だくみで散々傷ついたのは特待生さん自身でしょうに」
 アレキサンドライトの瞳は、荒木の制御と無関係にゆらゆら色を変化させた。
「そして今も変わらず、あなたを頼りにして慕ってくれている。かわいくて仕方ないでしょう? 荒木先生」
「話はそんだけかよ」
 荒木は渾身の力で、みずからを囲う両腕を払いのける。
「泣かせようが俺が嫌われようが知ったこっちゃねえんだ。下手なまんま出したらあいつが叩かれる。宝石が丘が潰れたら、あいつが自分を責める」

 職員室が近づくにつれ歩く速度を落とし、一呼吸置いてから荒木は職員室のドアをくぐった。着席すると、机上に残っていたコーヒーを一気に飲み干す。サーモマグとは言え中身はすでに冷め切ってえぐみが強く、荒木は顔をしかめる。
「荒木くん」
 ぽんと肩を叩かれ、振り向いた。数人の講師たちが荒木の背後に集まっている。
「荒木くん、大丈夫?」
「何のことでしょうか?」
 表情も声も、平穏でにこやか。すでに外向きの荒木冴が完成している。講師陣は一瞬押し黙ったが、最初に肩を叩いた男性講師がためらいがちに口を開く。
「特待生の指導のことだけど……」
 学園外の岩槻でさえ知っているほどだ。週刊誌の報道を発端とした騒動を彼らは当然把握している。杉石珪のことはともかく、黒幕が誰で、目的のひとつが何なのかも。これから始まる遠回しな苦言の数々を想像して、荒木は暗澹たる心持ちになった。
「私たちにも天音さんを指導できる。どうか頼ってくれないか。学園長先生も心配されている。さっき連絡をいただいたんだ」
 予想とは異なる言葉に、荒木の声が思わず裏返った。
「学園長が?」
「でもそれだけじゃない。私たちが君を心配しているし助けたいんだよ。学園長先生の相談役も、グラン・ユーフォリアの計画も、もっとも年若い君に背負わせてきた」
「荒木くんも彼女も公私混同するタイプでないのは知っているけどね」
「生徒たちが力を合わせて頑張っているんだ、僕たちも学園の一員で仲間だよ」
 俺は涙をコントロールできるタイプに生まれついて助かった。荒木は心底そう思う。
「……ありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」

 レッスン室に取り残された特待生は三角座りで背中を丸め、嗚咽を収めようと奮闘していた。泣きたくないと切実に思っていても、びくっとしたり感極まったりすると、あっという間に涙が溢れてしまう。真剣に指導してくれている荒木に心から感謝しているのに、涙腺が制御できない自分が恨めしい。近いうちに祭利に相談してみようかなどと考えていると、出入り口のドアが開き、誰かが入室した気配がした。
「っあ、荒木先生?」
 目をぐしぐし擦りながら立ち上がると、そこにいたのは荒木ではなくコスモだった。
「大丈夫ですか、特待生さん」
 頭頂部から耳にかけてするすると髪を撫でられ、湿った頬に手を添えられる。一連の動作は非常に手慣れていて、自分に対してだけ、特別の対応とは感じられない点にむしろ安心する。
「まったくひどい先生ですね。指導とは言え、泣いている女性ひとりを残して立ち去るなど」
「いえ、全部私が悪いんです。荒木先生は親身に指導してくださっているのに、女の武器を使って逃げたって軽蔑されたかもしれません……」
今頃は愛想を尽かされて、指導に嫌気がさしているかもしれない。うなだれながら、不安で満ちた胸の内をこぼす。コスモは特待生の髪をもう一度撫でて、艶やかに笑った。
「そんなことはありませんよ。特待生さんは荒木先生の特別な人ですから」
 特待生が腫れぼったい目を大きく見開く。
「この際ですから腹を割って話しましょうか。特待生さんが選ぶのは帝か荒木先生か、あるいはいずれもお断りなのかを、早急にはっきりさせてほしいのです」
 硬直したまま動けない特待生に、コスモは婉然とした声で畳みかけた。
「私も、貴方のことは憎からず思っていますよ。思いを寄せる生徒たちも大勢いるでしょう。ですが、あの二人が拗れているのを見るのは格別につらい。率直に言うと、あの二人の関係が崩れるのに比べたら貴方の事情はどうでもいいんです」
目と口を開き、高い位置にあるコスモの顔をぽかんと見上げていた特待生だったが、間抜けにも鼻水がつーっと一筋こぼれた。俯いて鼻を啜りながら、口を突いて出たのは自分でも驚くほどの低音だった。
「……もううんざりです」
 静かな怒りが体中を満たしていくのを感じる。
「荒木先生はそういうんじゃないです。なんで、なんでみんなそうやって、ぜんぶ色恋の話につなげようとするんですか」
 これはコスモ個人に対しての怒りではない。学園に入学して以来、漠然と抱え込んでいた感情の蓋にたまたま彼が触れてしまったのだ。だが、今の特待生は身も心もボロボロで、到底それを抑える余裕などない。
「私が女だからいけないんですか、顔が可愛いからいけないんですか。醜女だったら、あるいは男の子に生まれ変わってたら、みんな一人のヒトとして扱ってくれましたか!?」
 今度はコスモが唖然とする。攻守は完全に入れ替わっていた。
「だいたい、寝癖がついててかわいいってなんですか、目の下にクマが出来ててかわいいってなんですか。ちょっと転んで鼻血が出たってだけで全員集合しないでください。気持ち悪い! 本っ当に心底、気持ち悪いんです」
 あふれ出る感情の波に逆らえず、忌むべき涙が再び特待生の頬を濡らす。
「っ、……八つ当たりして、すみません。泣いてばかりで、すみません……」
 コスモは、今度は特待生の髪に手を伸ばさなかった。
「荒木先生とは、本当に何もないんです。信じてください……」
 一心に訴える特待生の目を、コスモもじっと見据える。
「ふむ。帝との関係は否定しないあたり、特待生さんの認識に嘘はないようですね」
 髪も頬も撫でず、妖艶な声音も使わない。どちらかといえばRe:Flyのメンバーと話すときに近い声で、コスモは微笑んでいた。
「……そうですね。誰しも、どのように生まれるかを選べません。なんら咎がなくとも、生まれるときに背負うものを選べません」
荒木や帝がいかにコスモと懇意といえども、特待生の秘密を話したとは考えづらかった。だとしたら、いま彼が話したことは、もしかしてコスモ自身の生い立ちだろうか。泣きすぎてぼんやりとした頭でそんなことを考える。
「コスモ先輩って、やっぱり宇宙人なんですか?」
「ふふ、どうでしょうね。いずれ貴方には私の秘密をお伝えできたらと思いますよ」
「あはは。じゃあ、そのときは私の秘密もお話しますね」
 コスモは唖然とし、珍しく声を上げて笑った。
「この際ですから、他にご要望があれば伺っておきます」
「はい……えっと、なので目の下にクマが出来てたり、寝癖がついていてもかわいいって言わないでほしいです」
「他には?」
「そんなときは自己管理ができてないって叱ってください。皆さんと同じにしてください」
 淡々とコスモが頷く。
「一緒に頑張っていきましょう。グラン・ユーフォリアもタケトリもね」

 コスモの言うとおり。特待生はタケトリのヒロインを演じる以前に、グラン・ユーフォリアの総指揮を引き受けている。招待状の文面はこれでいいのか。この手の業務は、業界内の暗黙ルールを知らなかったりして不興を買うことも珍しくない。有識者にもう一度確認をお願いしよう。広報サイトの閲覧数が伸び悩んでいる。こまめに情報を出していこう。大道具小道具の仕上がりが多少押しているらしい。仕上がりが少しチープに感じる。予算をもう少し割けないか。会場内、観客の同線確保は。フラスタを飾る場所は本当にここでいいのか、グラン・ユーフォリアと同規模の公演資料は確認してきたが、最近のトレンドはどうなっているのか自分の目で見ておきたい。やるべき事は山ほどある。
 そして現在、講堂内でHot-Bloodの朗読劇パートを見学および確認している。Hot-Bloodのメンバーたちは演劇の子役出身者が大半だ。アフレコに限らず舞台慣れもしていて、客席から見ていても貫禄が桁違いだ。
 宝石が丘学園が目指すのは芝居、歌、ダンス、2.5次元……あらゆる舞台で圧倒的なパフォーマンスを見せる声優オブ声優の育成。だから、この学園に通う者すべてが声優専業というわけでもないのだが、なぜ舞台でアドバンテージがあるのにわざわざ宝石が丘を選んだのか彼らに聞いてみた。声が大きいから、憧れのレジェンド声優がいる、声だけで勝負してみたい、濁し、はぐらかし等々……理由は見事にバラバラだった。
「急にそんなこと聞いて。なにかあったの、特待生ちゃん?」
「こちらの質問には濁してはぐらかして答えたのに、私の内情は探ってくるわけですね」
 霞のキャラクターを掴みつつある特待生は、ほどほどに皮肉を交えて応じた。
「かすみくん、腹黒がバレちゃったね!」
「腹黒とまで言うか?」
「あーっ、急にイカスミパスタ食べたくなっちゃった。りんくん、お昼行こうよ!」
「い、今からは流石に……」
 このまま和やかな休憩時間を過ごしても心が癒やされるだろうが、いまは向き合うべき課題がある。特待生はおもむろに切り出した。
「荒木先生から指摘を受けているんです。憑依型のダメなところが出てるって」
「ほお……」
「なるほどね」
 それだけで大意を汲み取ってもらえるのが頼もしい。要は、特待生が役になりきっているつもりでも、声に出ていなければ無意味。そういうダメ出しを受けている、ということが全員に伝わったようだった。Hot-Bloodの朗読劇は、多少の身振り手振りは付くものの、目をつむっていても表情や展開が手に取るように感じ取れる。
「特待生。とりあえず、お前の声も聞かせてくれ。俺も含めここにいる奴ら全員、他言はしねえって誓う」
 思い悩む特待生に、蓮がそう持ちかけた。タケトリの存在自体は、校内オーディションで学園全体に周知されている。制作予定については当然ながら箝口令が敷かれた状態だ。ましてやゲーム内の台詞ともなれば超重要な機密事項。特待生は躊躇した末、Hot-Bloodの胸を借りることにした。
 人が恐怖を感じたとき、実際には喉が締まって野太い声しか出なくても、甲高い叫び声が物語を彩ることもある。魅力的な作品になるための〝嘘〟は声にだって必要だ。息遣い、間の取り方、声にならない声も、声優にとっては立派に〝真実〟になる。
 タケトリの台本のなかでも特に重要なシーンほど頭の中にはっきり記憶されている。Hot-Bloodの前に立ち、演じるそばから愛らしい椿の顔が険しくなっていった。
「お前、何やってんの」
 自分より苦しそうな表情の椿を見て、特待生は言葉もなく立ち尽くす。
「お前の強み、根こそぎ消してる感じ。『一生懸命演技してます!』ってのだけは伝わるよ。当然、これは褒め言葉じゃないからね。発表会じゃないんだからさあ。『ここの悲鳴、よくできてるでしょ? この吐息、色っぽいでしょ?』って、演技の匂いがしないとこが、お前の芝居のいいとこだったはずでしょ?」
「いままでの特待生ちゃんとちがいすぎるよ。スタッフのひともビックリするとおもう」
 霞も重々しく口を開く。
「こう言ったらなんだけど……全校集会のきみを思い出したよ。荒木先生の真似をするのに必死だっただろ? 技術に気を取られて、空々しく聞こえてくるんだ。このままじゃまずい。今からでも方向転換すべきだ」
(――だって、言われたから練習したのに!)
 思わず口をつきかけた不平不満を飲み込んだ。これでは本当に椿の言う通り、発表会のお子様だ。Hot-Bloodは基本的に真っ直ぐだ。荒木の言葉も、彼らの言葉も嘘ではない。
『十七歳らしからぬ演技だった』
『高校生とは思えない』
 何気ない賞賛は特待生にとって呪いの言葉になる。実年齢ならできて当然のこと。それ以外に評価すべき点はない。だから、特待生の本当を知っている荒木の指導と評価に依存してしまうのかもしれない。かわいくもない、十七歳でもない、たった一人の女の子でもない、なんでもない私を見てください。コスモにそう要求したのに、自分を見てくれる帝の好意をはねつけた。真っ黒い渦が特待生の中でぐるぐる回る。飲み込まれる。何も見えない。
バシン! と強めに背中を叩かれた。不思議と嫌な思い出は蘇らなかった。そこは照明のついた明るい講堂だ。聞こえてくるのは力強く温かい声。
「ほら、背筋伸ばす! だからさ、俺らから盗んでみなよ。おまえの演技はもともと舞台寄りだから、参考になると思う。逆にミカたちみたいに……その、シチュエーションCDっていうの? 絵なしで聴かせるのと比較してもいい。俺たちを頼ってくれていいんだからね!」
「特待生どの、根を詰めすぎではござらぬか。喉の調子が目に見えて悪い。休息もプロとしての責務でござるよ」
「ありがとうございます。頼らせてください、先輩」
 今日何回目かわからない涙が、ぼとぼと落ちる。学園のはみ出し者たちにも、似たように助けられたことがあった。助けて、助けられて。みんなでこの学園を支えていけたらいい。
 うずたかく積まれた栄養ドリンクとのど飴を使うなら今だが、机の上も頭の中もぐちゃぐちゃになったまま布団にもぐりこんだ。まだ日も沈む前から、特待生は眠りに落ちた。

消灯時刻。荒木が最後に見回ると決めているのは自室のすぐ隣、特待生の部屋だ。今夜もノックへの返事はない。部屋にいないということは彼女に限ってあり得ないだろう。寝落ちているのなら起こさなければ。
 だが荒木はその夜、鍵穴にマスターキーを差し込むことが出来なかった。

あなたのいいねが励みになります